2015年秩父の正月 (小鹿野から秩父市内、そして寶登山神社へ) 2015年1月1日〜3日 毎年、正月は秩父市小鹿野町にある、ママの実家・三橋家で過ごさせていただく。 大晦日まで店を開け、元旦に秩父へ出かける。 そして秩父へ向かう途中、私たちが住む板橋区徳丸にある鎮守様の北野神社でお参りする。 秩父市小鹿野町に到着する頃は、すでに日は落ち、山並みの稜線が、夜空に微かに残る残光に、照りかえされていた。 車から荷物を降ろし部屋に入ると、親戚の人たちや、すでに到着していた私の子供たちが迎えてくれた。 おせち料理をつまみ、ほろ酔い機嫌の午後8時頃、突然、玄関が賑やかになる。 すると太鼓や鉦や笛の音が響き、部屋の扉を開け、獅子舞連が闖入してきた。 そして姪っ子の女の子の頭にガブリ! 女の子は悲鳴をあげて逃げる。 秩父神社の大祭の時、何時もお世話になる、親戚の阿佐美さんたちが、小鹿野町へ正月の獅子舞を届けてくれたのだ。 目出度い正月に、賑やかなお囃子は似合う。 紺地の腹がけに股引き姿は粋が引き立つ。 頭には鉢巻の男衆の顔に笑顔が零れる。 金色の目に真ん丸な目玉がぎろりッと光る。 広い居間は一気に祝祭の広場に変わった。 お囃子の響きが部屋中に溢れ、招福が漲った。 これは春から縁起が良い。 そして獅子は大きくうねりながら身体を躍らせる。 時間にして30分ほどの舞いであったろうか? そしてお囃子と獅子舞と笑いの渦のあと、全員で記念写真を撮り、獅子舞は秩父市内へ戻った。 明日の夕刻、獅子舞は本格的に秩父市内を流すようだ。 だがそこから秩父夜祭りの太鼓の競演となった。 秩父夜祭りの申し子たちが、大太鼓や小太鼓を連弾し始めた。 秩父太鼓も身体の血脈となる。 太鼓が前にあれば、撥を手に取り、自然と身体が動き、秩父囃子をかき鳴らす。 正月元旦の酒は美味し。 やがて小鹿野の里は宵に包まれ、蒼穹には星々が煌めいていた。 翌日の2日、昼食を済ました後、小鹿野町へ出かけた。 長閑な往還は冬の日が優しく降り注いでいた。 冬錆びた赤平川を渡りしばらく行くと小鹿野町に到着した。 町には人影もなく昔ながらの家並みが懐かしい風情を醸している。 そして江戸時代享和3年(1803年)年創業の太田甘池堂へ行く。 太田甘池堂の二代目が、江戸日本橋の甘林堂で修業し、小鹿野に伝えた練り羊羹を今に伝える。 江戸時代の創業当時の看板だろうか。 古めかしい木製の看板に秩父元祖練羊羹と墨色も鮮やかに刻まれていた。 店内は静寂が漂い雅趣きに溢れている。 そしててに伝わる秘伝の練羊羹を買い求める。 (「太田天池堂の練羊羹のコメント」 東京自宅に帰り、羊羹の枯れ竹色に包装紙を開ける。 すると鶯色をおびた、飴色の羊羹の艶色が顔を出す。 包丁で羊羹を切り分け、漆黒の漆皿へ。 鈍い漆の光沢と、羊羹の深い飴色が、典雅に響き合う。 丹念に練り込まれた羊羹の切り口は、微細な砂糖の結晶が、宝石の輝きを見せる。 お菓子楊枝の黒文字で、切り分け口へ含むと、つるりとした食感のあと、口の中に優雅に甘味が広がる。 その味は高雅で、幽玄な趣さえ漂わす。 かの食通で有名な文豪・池波正太郎も、その味に賞辞を贈ったことも頷けた) そして太田甘池堂を後にして表通りへ出る。 正面には古い屋並みの旅館越後屋が、昼下がりの陽光に輝いていた。 越後屋旅館の大広間には、碁盤40面、将棋盤15面など、対局に必要なものが全て揃う。 私の店のお客さまの税理士会囲碁クラブが、毎年合宿に通う。 さらに毎年宿主主催の囲碁大会も開催されている。 旅館の前の通りを進むと左手に路地があり曲がる。 日本の古い家並には必ず入り組んだ狭い路地がある。 その路地を進むと小さな祠やお地蔵やお堂がある。 やはり路地の突きあたりの角にお堂があった。 その名前は鷹巣下薬師、小鹿野町の中央に鎮座する。 お堂の中には鷹巣下薬師厨氏子、、紙本着色十二神将像、鰐口(元禄12年銘)が納められている。 目が悪くなった人がこのお堂にお参りをすると、目の病が治ったと信じられていた。 そしてさらに行くと広い道路に出る。 その路傍に大きな銅像が建ち、福田赳夫書加藤彰久翁像と彫り込まれていた。 その姿は威厳に満ち堂々としていた。 そして銅像の前を通り過ぎ、小鹿野町のメーンストリートに戻る。 遠くにかつて本陣であった旅館寿屋が見える。 歩いて本陣の前へ行く。 生憎今日は休館であった。 寿屋旅館は廃業され、現在は観光交流館になっていた。 玄関の右手に宮沢賢治宿泊の宿の看板が掛けてあった。 盛岡高等農林学校2年生の大正15年(1916年)、教員や仲間たち25人と古い地質が表出した崖「ようばけ」を訪れ、地質研究をした。 その時宿泊した宿が寿屋であることが、当主の記録から平成23年に判明したのである。 残念ながら休館で中へ入れず、さらに小鹿野町散策を続けた。 秩父の中央に位置する小鹿野町に人影はなく、傾きかけた冬日が寂寥を奏でる。 歴史が薫る町並みを愉しみながらさらに逍遥すると、雅趣溢れる山門の前に出た。 山門前の石柱には、真言宗智山派常木山十輪寺と刻まれていた。 左右には阿形と吽形が置かれ、素朴な寄せ木造の金剛力士像が、目を剥き逞しい姿で迎えてくれた。 檜造りの像の製作年代は不明だが、推定は室町時代で、像高は六尺(180cm)を越す。 本堂の中には十一面観世音菩薩十一面観世音菩薩が安置されている。 毎年5月の連休、ツツジの季節になると、お釈迦様の生誕を祝う花まつりが、この境内で開かれる。 本堂でお参りを済ませ参道を戻ると、5体のお地蔵さんが並んでいた。 頭には朱色の帽子を被り、白い前掛け姿が陽光を浴びている。 そして山門を潜りさらに散策を続けた。 すると大正ロマンを醸す木造の建物が見える。 すでに人が住まなくなってかなりの歳月が経つのであろうか? 建物の傷みは激しく、痛々しい程に荒れている。 主人の居ない庭の木々は刈り込まれ、木々の常緑が、西日を浴びて眩しかった。 そしてまた散歩に繰り出した。 町の辻々に小鹿野歌舞伎のポスターや看板が飾られている。 文化文政(1804−1829)の頃、江戸で歌舞伎の修業をした、下吉田井上出身の板東彦五郎が、板東の名前を頂き秩父へ歌舞伎を伝えた。 遠く都の歌舞伎を見れない秩父の人々には、秩父歌舞伎や祭は最大の娯楽であったであろう。 やがて秩父の若男女が歌舞伎を学び、伝統を守り継承して、手造りの歌舞伎として現在に至る。 さらに行くと須崎旅館の前に出る。 その前に朝日通りの看板が見えた。 遊郭で遊んだ男衆が、この路地を通る時、降り注ぐ朝日に照らされたことから、朝日通りの名前が着いたと言う。 今は既にその面影はない。 その途中、メルヘンタッチの床屋さんがあり、看板が愉しげで洒落ていた。 古いものと新しいものが調和している。 そして新年の参拝へ秩父神社へ向かった。 秩父神社には午後4時半頃に到着した。 秩父神社の山門脇の大提灯には、すでに灯がともり、神社の文様を浮かび上がらせていた。 石段を上り山門を潜ると、真っすぐ続く参道の先に拝殿が見える。 参拝を終え社務所で、例年いただく干支の破魔矢を頂戴する。 すでに陽は弱くなり、秩父神社に漂う空気が、肌にひしひしと凍みる。 大鳥居横の石柱に、「秩父神社鎮座弐千壱百年」刻まれていた。 昨年の平成26年に、第十代崇神天野時代、秩父神社創建、皇紀2100を迎えたことを示していた。 秩父神社を出ると、秩父夜祭りの時お世話になる、あさひ診療所の灯りがついていた。 玄関を開け中へ入ると男の人が出て来た。 今日は閉院ですと言われたので、院長先生に正月の挨拶によりましたと伝えると、院長先生が笑顔で出て来た。 代々秩父神社の氏子で、本町の神事や祭事にかかわる家の甥っ子の案内で、本町の獅子舞を見に行くことにした。 獅子舞は夕刻の5時頃から、本町を2班で廻る。 すると遠くでお囃子の音が響く。 やがて獅子舞の一団が遠くに見えた。 私たちは獅子舞の一団に着いて夕刻の獅子舞巡りをする。 秩父市内の繁華街の商家を、メモ帳を見ながら、一軒一軒を訪ね、小囃子に合わせ獅子舞は躍動する。 そしてお店のシャッターを開け中へ入り、獅子舞を躍り御祝儀をいただく。 訪れる人も迎える人も笑顔に溢れ、正月の華やぎに満ちていた。 町には街灯がともり冷気が肌を刺し始める。 冬の黄昏の中、獅子舞連はお囃子の音を、賑やかに響かせながら進む。 正月の祝祭を獅子舞が躍り祝う。 すでに夕刻の5時になり、町々の帳が落ち始めていた。 寺の甍は黒光りし、壁の漆喰の白と褐色の柱と戸の色調が、静寂な佇まいを醸している。 獅子舞連は玄関を入り姿が消え、お囃子の音は境内に響く。 住職さんがにこやかな笑顔で送り出している。 すると住職さんが私たちを呼びとめると、寺の奥へ入り、私たちにつくば根をプレゼントしてくれた。 つく羽が厄を払い、鈴が幸福を招いてくれますよと、にこやかに教えてくれた。 寺の参道を戻るとすでに獅子舞連の姿は見えず、遠くにお囃子の音が響いていた。 桜の季節、爪龍禅寺の枝垂れ桜は満開の時、庚申堂の庚申縁日は賑わう。 すでに陽は落ち遠くに、秩父の象徴・武甲山が威容な姿を見せていた。。 昔ながらの佇まいの木造の建物が闇夜に浮かび上がる。 灯りに照り映える姿に歴史の郷愁を愉しみ、秩父の正月2日は終わった。 明日の4日も正月休み、長瀞径由で帰ることにした。 秩父神社の前の八幡屋で名物の秩父寺自慢饅頭を買い求め、国道140を行く。 20分ほど行くと宝登山神社の大鳥居に着く。 境内へ続く真っすぐななだらかな道を行くと、駐車場を待つ車の列が出来ていた。 交通整理の係員の案内に従い駐車する。 駐車場から境内に向かう途中、大きな看板が立ち、今年の干支の羊の愛くるしい絵が描かれていた。 その看板を背景に、代わる代わる記念写真を撮っていた。 そして拝殿に続く急峻な石段を上った。 階段を見上げると、宝登山と染め抜かれた提灯が灯っていた。 石段を上り切ると境内に出た。 境内は大勢の参拝客で賑わっている。 幕末から明治にかけて再建された拝殿は、眩い光が放射されている。 第12代景行天皇の御代の西暦110年に創起されお社は、神々しく絢爛な光に満ちていた。 冬の秩父の厳寒を耐え、やがて来る春を待つかのようである。 すると亀が一匹池の中を泳いでゆく。 すでに陽は翳り色ざめて薄黒い空に、煌々と月が輝く。 秩父の正月の3日が、ゆっくりと過ぎて行った。 |