今はなき上野の黒門町や湯島天神町の風情
2014年4月4日


(画家・鏑木清方もかつて住んだ湯島を綴る)

春爛漫の夕刻も近い頃、何時もの喫茶店へ行き、一時間ほどの読書をする。
その店はパン屋さんで、上野の黒門町に大正2年に創業と、店内に大きな看板が飾られている。
その地にはかつて日本初の珈琲店「可否茶館」も明治21年に、東京下谷区上野西黒門町2番地に創業した。

今では上野の町名となり、かつての歴史深い「黒門町」は消え、町内会と小学校に名前を残すのみである。
日本の津々浦々で昔ながらの地名が消え、変哲もない名前へ、行政により変更されている。
地名には歴史的に深い縁起があり、地名の中に様々なことが表現している。

黒門町と言えば噺家・8代目桂文楽(1892年・明治25年- 1971年・昭和46年)代名詞で、「黒門町の師匠」と呼ばれた。
まさにその粋と洒脱さにより、江戸時代以来の繁華な黒門町の響きに共鳴する。
かつて私が上野広小路で支配人をしていた、35年くらい前のこと。

上野のれん会に加盟する老舗の主人が亡くなった。
私の店も「上野のれん会」の加盟店である。
そこで社長の名代として、お葬式に出かけた。

その店は上野風月堂の近くにあり、湯島の繁華街にある料理屋である。
そのお店で葬儀が行われていた。
当時、お店を愛する主人が亡くなると、お店で葬儀をすることも珍しくなかった。

私が仕えた旦那が亡くなった時も、お店の1階に祭壇を作り、地下から全館、葬儀会場にしたことを思い出す。
会葬を終え霊柩車を送りだした後、大勢の会葬者の精進落としのもてなしに、汗したことが記憶に蘇る。
湯島はかつては三絃が響く花柳の地であり、江戸時代から大いに栄えた。

その真ん中にある老舗の主人は、粋な遊びと 垢抜けた趣味で聞えた人であった。
お店の玄関近くへ行くと、印半纏に身を包む、いなせな鳶の親方が迎えてくれた。
「ご苦労さんです。こちらへどうぞ」と玄関へ案内された。

玄関にも印半纏をはおる、鳶の若い衆が下足をする。
靴を脱ぎ座敷へ上がると、湯島芸者衆が勢揃いで迎えてくれた。
その奥の祭壇前に、女将さんたち親族が、静かに並んでいた。

湯島には色濃く花柳界の華やぎが、連綿と流れていた。
下町の懐かしい風情は、湯島に満ち溢れている。
かつて湯島には湯島新花町・湯島切通坂町・湯島天神町などの町名があった。

だが現在は湯島1丁目から4丁目となり、かつての元黒門町・西黒門町・東黒門町は、上野1丁目から上野3丁目になっている。
日本の由緒ある地名には深い意味があり、様々な歴史を象徴している。
歴史ある地名も、行政の合理性の中に埋没しているが、何時の日か黒門町などの町名が、復活することを心待ちにする。