長谷川利行も島崎こま子も収容された、かつての板橋区の養育院
2014年2月12日


井上ひさし作の戯曲「太鼓たたいて笛吹いて」を読んでいたら、面白いことを発見した。
この戯曲は林芙美子が生きた、戦前と戦後の姿を描いたものである。
林芙美子は戦中は従軍記者となり、戦意高揚の従軍記を書く。

激動の時代に翻弄されながら、戦後は歴史と向き合い、反戦作家として真剣に生きる作家・林芙美子(1903年−51年)。
そのしたたかで逞しい林芙美子の姿が表現されている音楽評伝劇である。
読み進むうちに 、亀戸にある無産者貧民連帯託児所からやって来たという、島崎こま子なる人物が登場する。

その人こそ叔父である島崎藤村と関係を持ち、子供を宿した人であり、島崎藤村作「新生」の節子のモデルである。
島崎こま子は流行作家林芙美子に、寄付金を求めて会いに来たのである。
その後島崎こま子は栄養失調から、新宿の路上で行き倒れ、板橋にある貧養院へ運ばれたと書かれていた。

私はその瞬間、私の脳裏に閃いた。
板橋の貧窮院とは、現在の地方独立行政法人「健康長寿医療センター」であると。
そして早速、島崎こま子(1893年-1978年)のことを調べる。

すると島崎こま子は島崎藤村と別れたのち、波乱に満ちた人生を送っていた。
貧しい人々のために、私財をなげうち施設を作り、極度の貧困に喘いでいる。
やがてたび重なる貧窮により肋膜炎にかかり、当時の東京市板橋にある養育院に、1937年3月3日に収容された。

そのことが3日後の6日と7日に、「島崎藤村の『新生』の節子のモデルの20年後」として、東京日日新聞の記事に掲載された。
その時、林芙美子も7日に「婦人公論」記者として、インタビューのため養育院を訪れていた。
そして当時日本ペン倶楽部の会長であり大作家となった島崎藤村に対し、皮肉を込めた文章を書いている。

かつて板橋区の養育院で洋画家で歌人でもあった、長谷川利行(1891年ー1940年)が亡くなったのは知っていた。
長谷川利行は池袋モンパルナスと呼ばれた画家たち、靉光、麻生三郎、寺田政明らと共に活動した。
だが長谷川利行の生活は、毎日安酒をあおる無頼な生活。

浅草等の木賃宿を転々としながら、描いた絵を売り酒を浴びていた。
やがて飲み過ぎのため、栄養失調と胃潰瘍を悪化させる。
泥酔の果てにタクシーにはねられ、重傷を負うこともあった。

が懲りることなく飲み続け、様々な奇行により友達も失う。
そして1940年5月に、三河島の路上で行き倒れ、東京市養育院に収容された。
すでに胃癌は進み重症であった。

だが長谷川利行は治療を拒否。
1940年10月に亨年49歳で死去した。
現在、長谷川利行の作品は数少ない。

長谷川利行の所持品やスケッチブックなどは、養育院の規則により全て焼却された。
遠くは江戸時代の小石川養生所に起源を持ち、
140年の歴史を誇る「地方独立行政法人・健康長寿医療センター」には、様々な歴史に彩られているであろう。