晩秋の嵐山渓谷を訪ねて
2014年11月23日


今年も二の酉も過ぎ、師走の足音も忍び始める。
北の山々では、雪の便りも聞え始め、紅葉はすでに終わろうとしている。
今年最後の紅葉狩りに、埼玉県の嵐山渓谷へ出かけた。

関越道を東松山ICで降り、国道254から県道173を進むと、嵐山渓谷バーベキュー場の駐車場に着いた。
駐車場は満杯で、係員の案内に従い、駐車場に停める。
バーべキュー場前の露店には、人の列が出来、仮設のベンチでは、大勢の人たちが、食事や飲み物を愉しんでいた。

土産物売り場のある建物へ入る。
彼方渓谷の河原を見ると、若者達や家族ずれが、バーベキューなどを囲んでいる。
午後1時半の日射しが、河原の景色を眩く、照り返していた。

そして駐車場を後にし、ここからさらに奥の渓谷へ向かった。
道の途中、嵐山渓谷への道標がたつ。
鄙びた農道を進むと、路傍の愛らしいお地蔵さんが迎えてくれた。

昼下がりの陽光は、燦々と降り注ぎ、前を歩く家族ずれの影を長く、アスファルトに刻んでいた。
道沿いの民家の生垣には、柚子や蜜柑が、ひと際大きく青空に映えていた。
蛇行した道は渓谷へ向かう人や、帰って来た人たちが、薄靄の中に見える。

道端にはコスモスが、楚々と薄紫の花を咲かせていた。
標識に従い渓谷へ向かい暫く行くと、重厚な門構えの民家が見える。
そして更に進むと、「ふるさと歩道」の案内板の前に出た。

ここから先の鬱蒼と茂る雑木林の中を、一筋の狭い道が伸びる。
その道を人々が行き交いすれ違う。
森の中に木漏れ日が落ち、武蔵野の風情を、豊かに醸し出していた。

森の冷気と木々の爽やかな香りに包まれ、身体や心が洗われるようである。
都会の雑踏から解放され、森林の木魂が、生気を再生させてくれている。
なだらかな下りの道を進み、坂が強くなった頃、前方に槻川が見える。

さらに進むと、清流のせせらぎが聞えた。
槻川へ降りる、濡れた石畳の坂を下る。
足元が滑り、前のご老人の足元は覚束はなく、往生していた。

そして灰色に濡れた、石畳を降り切ると、河原に出た。
岸辺の対岸の木々は、強い日射しを浴び、黄葉紅葉に燃えていた。
河原には紅葉狩りを愉しむ人たちが、降り注ぐ陽光を浴びながら佇んでいた。

川には欄干のない冠水橋が掛り、ハイキング姿の人たちが渡る。
雨が降ると渓谷を流れる川は増水し、激しい急流になる。
剥き出しのコンクリートだけの、頑丈な橋だけが、その激流に耐えることが出来るのだ。

擦れ違うのでいっぱいな、狭い冠水橋を渡る。
橋の下を流れる川に張り出した岩場で、清流の瀬音を愉しみながら休む人たち。
川面は銀鱗の漣のように輝いていた。

橋を渡ると、山道は紅葉に染まり、大勢の人たちが上って行く。
道は狭く急峻な上り道である。
大勢の人たちが、数珠つなぎのように上って行く。

木の間より注ぐ木漏れ日が、地面に様々な文様を刻んでいた。
上るに従い紅葉は深くなり、昼下がりの陽光に燃え、上りの厳しさを忘れさせてくれた。
見下ろすと先ほど渡った冠水橋が、彼方の下方に見える。

そして足場の弱い、急勾配の山道を上り切ると、なだらかな上りの広い道に出た。
柔らかな日射しが注ぐ雑木林は、長閑な匂いに溢れている。
散策道を歩く足取りも軽く、林の香りを味わうように、行き交う人に笑顔が満ちていた。

やがて渓谷の最上部に到着する。
そこには丸太で組み合わされた、素朴な展望台が、紅葉を背景に浮き出ていた。
展望台には大勢の人影が映り、彼方に見える紅葉を眺めている。

展望台の横の広場に、「嵐山町名発祥の地」と刻まれた石碑が建つ。
その前に人だかりがあり、観光ガイドさんが嵐山渓谷のことなどを、愉しそうに説明していた。
最近は観光地へ行くと、地元を愛するボランティアの観光ガイドさんがいて、懇切丁寧に歴史や由緒などを教えてくれる。

広場には晩秋を彩るススキの穂が、碧空から降り注ぐ陽光に照り輝く。
日本の秋の寂寥と幽玄を醸し出す。
広場から更に槻川に突きでる台地に伸びる小道を進む。

道は華やかな紅葉に染まる。
イロハモミジの鮮やかな鮮紅色が、陽光に照らされ、燃えるように空間を染め上げる。
その木の間を見下ろすと、槻川の川面を、紅葉が影を落としていた。

静謐な雅は静かな感動を呼び覚ます。
さらに木漏れ日の道を進むと、与謝野晶子が若かりし頃の写真を嵌めこんだ、歌碑が建っていた。
そこには「比企の渓 槻の川 赤柄の傘を さす松の 立ち並びたる 山の しののめ」が刻まれていた。

昭和14年(1939)6月に、この地を与謝野晶子と、娘の藤子が訪れた。
そして嵐山渓谷の自然の美しさを、「比企の渓」29首に歌い
その時に詠んだ歌である。
与謝野晶子が当地を訪れた頃、この辺りに料亭があったのだが、今は名残さえない。

雑木林に枯れ錆びた幽趣が、広がるばかりである。
さらに奥に進むと、正面の小高い山は、常緑と紅葉のコントラストで、降り注ぐ陽光に照りかえる。
散策道の辺り一面に、ススキの広原が広がっていた。

ススキの原を過ぎると、雑木林のなだらかな下りの道になる。
ゆっくりと下ると川べりに着いた。
川は透通り、ゆっくりと音もなく流れ下る。

川面に枯葉が浮き、宝石のような輝きを湛え、流れに寄せ集められた群葉が、モザイクを描く。
遠く川面を眺めると、静寂に沈む川面に、岩影を落としている。
そして光り射す方角を見ると、山々は黄金の輝きに燃え、川面は金彩に塗りこめられていた。

大きく深呼吸をすると、渓谷の冷気が、臓腑の中へ沁み込んでゆく。
そして槻川の清流に別れを告げ、来た道を戻る。
路傍に色あせた木の葉が、一年を燃焼し土に帰る、寂寥をたたえていた。

彼方に目をやると、黄金色に光る木々が、陽光に輝いていた。
先ほどの散策道に出ると、こちらに向かう人たちの足取りも軽い。
木漏れ日の落ちる土の道は、足裏に柔らかく優しい。

都会はアスファルトの道路ばかり、土の道に懐かしい土味を感じて愉しい。
行き交う人たちも、西に傾き始めた陽光を浴び、渓谷の秋に笑顔がこぼれる。
雑木林は西日を浴び、黄葉や紅葉で、雅な景色を映していた。

色づいた雑木林の木々の葉は枯れ落ち、やがて寂寥な景色に変わり冬を迎える。
路傍に秋の実りを物語る栗のイガが落ちていた。
降り注ぐ西日は、褐色も鮮やかに、イガを照りかえしていた。

秋が去りやがて冬が訪れる。
自然界は長い沈黙の時を迎える。
しかし冬は大地がエネルギーを養い蓄える時である

そして大地が醗酵し、目覚めの春を迎え、躍動する季節が訪れる。
木々は紅葉し、大地に枯れ落ちる。
その葉群が大地に栄養を齎す。

木々は梢と樹になり、蓄えた養分で厳しい冬を越す。
その厳しい冬を越すことで、木々は強く逞しく成長し、春に強く蘇る。
自然の生命の営みは、確かな生命のリズムを刻む。

イロハモミジは陽光を浴び、紅色が匂い立つよう燃えている。
その色は絢爛とし、王朝の輝きを見せる。
その雅を透かし見ると、彼方に槻川の河原が薄青く覗く。

河原を散歩する人や、折り畳みのディレクターズチェアに、座る人の姿が見える。
秋行楽は優雅な姿を偲ばせていた。
しばらく行くと、先ほどの展望台の前に着く。

西日を受け陰翳を深くする展望台に、大勢の人たちが眺望を愉しんでいた。
そして展望台の前を歩き去り、冠水橋への下りの道を戻る。
やがて遠く紅葉の木々の彼方に、槻川の清流が泡立って見えた。

さして急峻な下りの、木の根が剥きだした道を下ると、川べりの石畳へ出る。
石畳は木陰となり、薄灰色が青みを帯び、肌寒い色合いに変わっていた。
遠く背景の木々は、陰り始めた陽光を浴び、冠水橋が朧に見える。

橋を渡る人影も、心なし少なくなったようである。
渓流は橋の前で蛇行し奔流となり、岩に遮られ白泡の瀬を描く。
そしてまた川下に静かに流れて行った。

遠く目をやれば、川辺に家族連れが佇んでいた。
すると小さな女の子が、岸辺の小石を拾い、紅葉を映す静かな川に投げ入れた。
川面に飛沫がたち、静謐な川瀬に、小さな漣が生まれた。

昭和3年に林学博士・本多静六博士は、この地を訪れた。
その時、この地が京都の嵐山の風景に似ていることから、武蔵国の嵐山と命名する。
その美しい自然の景観を守るために、嵐山渓谷一帯を嵐山町が買収し、現在も緑のトラスト保全第3号地として、整備し管理されている。