作家佐多稲子著「私の東京地図」懐かしき上野界隈

私の高校の同級生で、作家・佐多稲子を祖母に持つM君がいる。
去年、50年ぶりの同級会で再会した。
同級会の帰り、小田急線町田駅から、新宿へ向かう電車の中で、佐多稲子について語った。

そこで佐多稲子の作品が読みたくなった。
早速本屋で探してみたら、佐多稲子(1904-1998)「私の東京地図」を見つけた。
その作品は私が生まれた頃の作品である。

終戦後、従軍記者として占領地へ、林芙美子たちと慰問したことで、戦争協力者として批判された。
林芙美子と同様に戦争責任の煩悶の中、昭和21年から22年にかけて描いた作品である。
最近は今は亡き作家たちの描く、東京散策の本が好きである。

田山花袋(1879年-1959年)「「東京の30年」「東京近郊 一日の行楽」、
永井荷風(1879年-1959年)「日和下駄」などは、何度読んでも愉しい。
明治から大正、昭和にかけて、当時の東京の風景が、克明に描かれている。
作家たちは東京の景色が、無残に破壊され、消滅していくと嘆いている。

だが失われつつある東京の町並みが、作品のなかに、彷彿と絵のように蘇るから嬉しい。
東京の風景が次々と喪失しつつある当時も、まだまだ明治大正の情緒が、色濃く残っていた。
今の若者達には、描かれている、明治の面影を残す東京の町並みを、想像することは出来ないであろう。

すでに明治の小説などは、限りなく古典に近づいている。
古典と聞いただけで、若者達は晦渋な文章と思い敬遠する。
だが古典の文章や文体を読むことで、時代に生きた作家たちの、苦闘や時代思潮を、読み解くことが出来る。
そして古典や擬古典の文章や文体の美しさを認識する。

古典と現代を結ぶのは教育であり、過去と現在を連綿と伝え続けるのが伝統である。
幼時からの英語教育を語るならば、国語と日本史を、時間を掛けて教えるべきであろう。
日本に誇りを持ち、正確に話すことのできる、人間教育が必要である。

だが国語と日本史が重要であると語ると、この国では右翼扱いされるから不思議だ。
日本が国際人になることは、外国語が堪能になることも大切であるが、
日本人としての確固としたアイデンティティーを持つことが、一番大切なことである。

さて話を佐多稲子「私の東京地図」へ戻す。
本所向島で育った佐多稲子は、16歳の時に上野不忍池畔の料亭「清涼亭」で、仲居として働いた。
そこは上野寛永寺のお膝元であり、上野清水堂にも近い。

料亭の窓を開ければ、初夏には蓮の花が、不忍池の一面に、薄紅の花を咲かせている。
彼方には初夏の薄靄に包まれ、月明かりを浴びた朱色の弁天様が、風雅な佇まいをみせる。
そして柔らかな涼風が、料亭の窓辺に涼を誘う。

江戸下町の情緒を残す料亭で、佐多稲子は「おいねさん」と呼ばれながら、仲居として立ち働く。
その当時の池の端や上野広小路界隈や仲町の描写が愉しい。
上野山下も度々登場する。

今ではその名は上野山下公番の名前と、天ぷら「山下」くらいであろう。
界隈一帯は須賀一族が、昔から幅をきかせている。
かつての「上野のれん会」の会長で、洋品店アダムス菊屋の主人・須賀さんもその一族である。

須賀さんはなかなかの文化人で、上野のれん会発行のタウン誌「うえの」の表紙を、度々長谷川利行の絵で飾っていた。
さらに「東京地図」には「揚げだし」が登場する。
その店は江戸時代から300年以上続く名店であった。

だが最後の主人である洋画家小絲源太郎は、東京美校(現在の東京芸術大学)を卒業後、絵に専念するために閉めてしまった。
その近くの仲町には蕎麦屋「連玉庵」があり、看板には久保田万太郎の篆刻が飾られていた。
つるつるとして上品な蕎麦で、店内に「お酒は2合まで」と書かれた短冊が、壁に貼られていた。

この蕎麦屋は森鴎外の「雁」にも登場し、主人公の岡田が食べている。
「鰻伊豆栄」の主人の土肥さんが、或る席で「蓮玉庵」の蕎麦が「雁」に登場するのに、なんで俺の店が出てこないのかと言った。
すると同席の旦那衆が、「そりゃ、伊豆栄さん、貧乏学生の岡田は、蕎麦を食えても、高価な鰻は食えませんや」
豪放磊落な伊豆栄の旦那も納得した。

連玉庵からさらに仲町通りを進むと、1680(延宝8)年創業の守田宝丹がある。
その隣に堺屋酒店があり、大きな袖看板の文字は、彫刻家・朝倉文夫の書である。
その前には組紐の「道明」があり、宮内庁御用達で、主人は古代組紐の研究者もであった。

佐多稲子が仲居をする料亭「清涼亭」の親戚が、上野広小路にあった。
明治の文人墨客たちが通う「三橋亭」と、パン屋「永藤」があり、その2軒に挟まれ、親戚の駿河屋がある。
その3軒と隣り合わせの店が、私がかつて支配人をしていた料理屋であった。

私が勤務していた当時、「駿河屋」はすでになく、両店の旦那たちと「上野のれん会」の会合で、度々同席した。
今から40年くらい前のことであろうか?
その当時、「上野精養軒」隣にある、「五条天神」の銅瓦の葺き替えがあり、寄付の回覧があった。

そこで広小路商店会の御意見番「石井スポーツ」の大旦那に、注進に出かけた。
「親父さん、私どもは奉賛金を、いかほど包めばいいでしょうか?」
「そうだな、『永藤』が50で『三橋亭』が30だから、お宅は30万でいいだろう」

その頃はまだ広小路にも、大久保彦左衛門のような御意見番が居たので、物事がすっきりと簡単に収まった。
残念なことに老舗洋食屋「三橋亭」は今はない。
当時広小路の商店会会長でもあった、「三橋亭」のご主人・塚原心丸さんは、大変な好人物で信望があった。

ちなみに娘さんは音楽家の小椋 佳の奥さんである。
佐多稲子「私の東京地図」を読み進めると、さらに懐かしい池の端の風景が明瞭に蘇る。
当時は佐多稲子にとっての東京とは、黒門町と湯島と向島と浅草辺りであり、根津権現も本郷も知らない。
もちろん銀座・日本橋などへ出かけることはなかったと書いてある。

その池の端の仲居時代に、芥川龍之介(1892年-1927年)と出会う。
まだ芥川龍之介は新進作家で、顔がそれ程知られていない時代のことである。
菊池 寛や久米正夫らと度々訪れた芥川を一目見て、仲居の稲子は店の朋輩へ語った。
「あの人、作家の芥川龍之介よ」

そのことを朋輩が芥川に伝えると、芥川は何故自分のことを知っているのであろうかと興味を持ち、稲子を座敷に呼ぶ。
文学少女であり美貌の持ち主である稲子を、それ以来、芥川は懇意にしたと言う。
稲子はやがて「清涼亭」を離れ、21歳の歳に窪川鶴次郎と結婚するがうまくゆかず、度々の自殺を試みる。

その後離婚し再婚しながら執筆活動をし、作家生活に入った。
稲子の度々の自殺未遂の経緯を知る芥川は、或る日のこと、佐多稲子の元へ電話を掛けた。
「おいねさん、死ぬ時、どんな気持だった?」

その電話を最後にして、芥川龍之介は数日後、帰らぬ人となった。
佐多稲子「私の東京地図」を読んでいると、当時、軍需工場の町だった板橋区十条辺りの、薄暗い町の情景が描写されている。
その工場街で非合法の組合活動をする、筆者たちの姿が、濃密に描かれている。

さらに小林多喜二(1903年-1933年)が刑務所で虐殺され、高円寺の小林宅へ遺体が戻って来た時の、凄惨な情景も記されていた。
身体中はみみずばれで腫れあがり、小林多喜二の遺体は無残な姿であった。

そこで私は小林多喜二の作品が読みたくなり、「党生活社・独房」を読む。

1930年代はすでに冬の時代であり、言論の自由が弾圧され、統制されていたかを、思い知らされた。
圧倒的な権力が情報を支配し、反対勢力の言論を弾圧し、権力を持って圧殺したか。
かつて80年前の姿が、現在に重なって見えることに、恐怖をおぼえた。

80年前から確実に、日本は第二次世界大戦へ向かっていたのだ。
佐多稲子著「私の東京地図」を読みながら、様々な過去の暗い歴史が呼び覚まされる。
芥川龍之介のことを書いたついでに。

私が20歳位の学生の頃、劇団の演劇教室に通ったことがある。
日本演劇史に名をとどめる有名な演出家から、スタニスラフスキーなどを教示して頂いた。

演出家のお父さんは、かつて府立第三中学校(現在の都立両国高校の校長で、
教え子が芥川龍之介であり、新田次郎のお父さんとも親交があったと聞く。

新田次郎(1912年-1980年)が新進作家で登場した時、懐かしそうに、そして嬉しそうに新田次郎のことを話したことを思い出す。
あれやこれや思い出しながらふと思う。
明治や大正は遠い歴史の彼方にあるのではなく、厳然と現代へ流れ続けていることを再認識した。