秋好日、中仙道の宿場町、熊谷散歩へ!
2014年11月02日


秋の行楽日和、板橋区から北上し、東京から60キロに位置する、埼玉県熊谷市へ向かった。
最近私の店に来店する方の故郷が熊谷。
地元の事を色々と教えてくれる。
熊谷は秩父出身のママが、高校生時代、買い物に出かけた処でもある。
熊谷市は埼玉県の北部に位置し、利根川と荒川に挟まれる。
そして荒川の南側に、熊谷市は広がる、20万都市でもある。
江戸時代の五街道の一つである中山道。
中山道は京都まで六十九宿、熊谷市はかつて、日本橋から八番目の宿場・熊谷宿として栄えた
天保年代の熊谷宿には、3000人以上が住み、本陣が1軒、脇本陣1軒、旅館が151軒が存在した。

現在は猛暑の熊谷として、全国的に有名になっている。
2007年8月16日に、日本国内おける観測史上最高気温となる、40.9℃を観測している。
熊谷市内には熊谷直実所縁の寺もあり、熊谷の地名は平安時代後期に遡るようである。

地名の起こりには諸説あり、一説によれば、熊谷直実の父が、熊を退治したことによると。
また市内に高城明神が鎮座し、神谷(くまけや)となったことによるとも。
さらに熊谷の地は荒川が大きく蛇行し、曲がりくねっていることに、名前の起源とすると言われている。

熊谷の発音は平板だと思っていたが、地元では「くまがや」で、まがやを強く発音するのが、正しいようである。
板橋区徳丸を出て、1時間半ほどで熊谷に到着した。
市街は交通規制が敷かれ、仕方なく少し離れた駐車場に車を置く。

そして八木橋デパートに向けて歩くと、大音響の音楽が流れていた。
そこは国道17号に接した、コミュニティ広場であった。
その広場の手前に「マニアックビデオ」の看板が見え、玄関や壁に原色も鮮やかなイラストが描かれていた。

そこから先には露店が立ち並び、お祭り気分が溢れていた。
広場の正面には「オ・ドーレなおざね」の幕が広がっていた。
コミュニティ広場では、大勢の人たちが、正面特設ステージで繰り広げられる、ダンス・パフォーマンスを眺めている。
どうやらこのお祭りは、毎年11月に開催される「えびす祭り」に始まり、
熊谷商工会議所・熊谷市観光協会・熊谷市商店街連合会が後援しているようだ。
今年は商売繁盛を祈る「 平成26年度第63回熊谷えびす大商業祭」となっている。

早い時間には猿田彦を先頭にした稚児行列や、熊谷祇園会の御輿巡行なども、繰り出したようである。
たしかにあるいて来る途中、遠くで神輿の威勢の良い掛け声が聞えた。
残念ながらそちらの方へ歩いて行った時には、姿かたちは幻と消えていた。
コミュニティ広場では、和風衣装をアレンジした、原色も鮮やかな衣装で、激しいリズムの曲に合わせ、リズミカルに踊り手たち躍動する。
踊り手たちは圧倒的に、妙齢の女性が多く、現代は女性の時代である事を象徴している。
秋の日は傾き始め、気温もかなり下がり始めているのだが、踊り手たちの顔には汗が滲み、踊りは力強く律動する。
激しいリズムに合わせ、踊り手たちのダンス・パフォーマンスは、全員の統一とアンサンブルに彩られていた。
明らかに今はやりのYOSAKOI(よさこい)系の踊りで、ロックやヒップホップのリズムを刻む。
1990年代に北海道札幌市で開催された大イベント、「YOSAKOIソーラン祭」に始まり、全国に広まった踊りである。
地域の若者のコミュニティが、崩れ衰退し始めた時代、若者たちの連帯と表現が、この踊りに結晶したのかもしれない。
大きな旗が振られる。
懐かしいリーゼントに決めた若衆が、右に左に大旗を振る。
若衆の腕にくっきりと血管が浮き出る。
大漁旗のような大旗は、かなりの重さなのであろう。
舞台狭しと旗を振りながら動き回る。
大旗がダンス集団の結束を示し、集団の表現行為を、象徴するかのようである。
踊る者たちの表情は明るく、ステップは軽快に、そしてダイナミックである。
5分位のパフォーマンスであろうか?
踊りが終わると、踊り手たちの顔に、心地よい疲労の表情が浮かぶ。
遠く眺めると、石の大鳥居が見える。
広場から国道17号へ戻り、大鳥居の見える参道へ向かう。
特設ステージの隅に、踊りを終えて談笑する、幼さが残る少女たちの姿が見える。
踊り終えた満足感と心地よさが、その愛くるしい少女の笑顔に溢れている。
少女たちの今日の絆と友情が、やがて懐かしい思い出に変わることであろう。
踊り終えた若者たちが、広場の袖で談笑している。
その様々な色彩のステージ衣装が、傾きかけた陽光を浴びて眩しい。
そして露店が犇めく、17号沿の歩道を歩くと、神社へ続く参道へ出る。
遠く前方中央に、由緒ありげな神社が、鎮座していた。
参道を100メートルほど進み、第二の鳥居を潜り、第三の鳥居を抜けると境内に出た。
大鳥居には大きな注連縄と、注連子が飾られ、ここから先が神域であることを示して
いる。
そしてここが高城神社であることを、大きな石碑が教えてくれた
手水舎で手を清め拝殿に向かい、石畳を真っすぐ進む。
拝殿の格子の向こうに、灯火が厳かに柔らかい光を放っている。
お賽銭を添え、作法通りに参拝した。

境内は霊妙な空気が流れ、神気が漂っているようである。
境内の中央に、大きな欅の老樹が聳える。

樹齢は推定500年、目通幹周り6.3メート 樹高11メートルの大木である。
老樹の根に接する辺りは、くり抜かれた様な祠となり、まさに御神木の風情であった。
高城神社の縁起を調べれば、 神話の神・高皇産霊尊(たかむすびのみこと)を祀り、創建は平安時代初期のようだ。
平安時代延喜5年(905年)に、宮中における延喜式の式内社に指定されている。
くだって天正18年(1590)、石田三成の忍城攻撃の際に、兵火で焼失された。
その後、忍城主となる阿部正能(あべまさよし)によって再建される。
現在は万物を作り出す高木の神(たかぎのかみ)として祀られ、縁結びの神・商売繁盛の神として崇められている。
高城神社で参拝を済まし参道を戻る。
大鳥居の向こうに、ダンス・パフォーマンスを終えた、踊り手たちの姿が見える。
そしてコミュニティー広場の裏手から、再度会場へ入る。
すでに祭もフィナーレを迎え、熱気に包まれている。
最後のエネルギーを発散する、踊り手たちと観衆で盛り上がっていた。
会場には燃えるようなエネルギーが放散され、観る人たちも踊る人たちも渾然とし、脈動する活力が漲っている。
旅の途中で何時も通過する街の熊谷は、偶然にも祭の一日であった。
若者たちのダンス・パフォーマンスのエネルギーに触れ、溢れる元気を頂いたようである。
秋好日、すでに日は大きく傾きかけ、冷気が忍び始めていた。