同じ時代を生きたわが友へ、哀悼の言葉

7月23日が過ぎ、24日(木)と日が変わった深夜1時、店にNさんから電話が入った。
それは芝居の公演の連絡と、さらに付け加えるように、谷さんの入院の知らせであった。
すでに谷さんの病状はかなり重く、清瀬市にある病院のホスピス病棟に入院していると。

私は信じられない思いである。
去年、シアターXで、彼が主宰する劇団の公演を観に行き、彼の娘さんと子供を紹介されたばかりだった。
彼がその日上演した芝居へ、作者から送られたフランス語のメッセージを、作者の友人である漫画家・クリスチャンが読み上げる。

それを谷さんが翻訳し、クリスチャンと会話も流暢に、フランス語で交す姿を見て、谷さんも貫禄がついたなと感心したばかりだ。
その谷さんが病の床についているとは信じられなかった。
私は彼の見舞いに、すぐさま行くべきか迷った。

そしてその日の午後、大阪にいる友人のTさんに電話をした。
その友人も重い病気で、今は寝たきりに近い状態である。
普段は電話をすることも控えていたが、彼は知っているか確認することにしたのだ。

かつて高校時代の演劇クラブの同僚であり、Tさんを谷さんは尊敬し、Tさんから多大な影響を受けていた。
電話をかけるとTさんは、電話口にしばらくしても出ない。
私は心配になってきたその時、Tさんが電話口に出た。

その声は想像していたより張りがあり、元気そうなのでほっとした。
私が谷さんのことを話すと、高校時代の演劇部の後輩から連絡があったと言う。
演劇部の後輩は、谷さんを度々見舞いに行き、Tさんへ報告していたのだ。

Tさんも私に連絡するのを迷っていたようだ。
Tさんによれば、すでに谷さんの病状は末期であり、今月いっぱいもたないだろうとのことだった。
Tさんからの昔の演劇仲間で、ある劇団の製作をしているYさんへ、谷さんの件を私が連絡してくれないかと頼まれた。

さっそくYさんへ電話をすると、谷さんが23日の朝に亡くなったと教えてくれた。
Yさんの劇団で谷さんが著作権を管理する、劇作家・ギィ・フォアシィの芝居を、この春上演した。
その時の関係者から、いち早く谷さんの逝去が伝えられていた。

私は早速大阪のTさんへ連絡すると、彼の元にもすでに連絡が来ていた。
Tさんの愕然とした様子が電話から伝わる。
そして一言「残念だ・・・・・・」と声を絞り出した。

かつてTさんがかなり重い病気になり、現在も状態はかんばしくなく小康状態である。
谷さんと私はTさんの病状が心配であった。
私はTさんに電話をかけるのを控え、私の分も谷さんが電話をかけ、私に連絡をしてくれた。

大阪に谷さんが帰省した時はTさんを見舞い、私にTさんの様子を報告してくれた。
その谷さんが亡くなるとは・・・・・・。

谷さんと最初に出会ったのは、Tさんの実家がある大阪を訪れた、二十歳の夏であった。
谷さんは大学でインドネシア語を専攻していた。
そしてTさんは私と同じ大学へ通い、演劇学を専攻し、卒業後大学院へ進み、演劇の研究をしていた。

谷さんは大学卒業後、当時人気のあった劇団「三十人会」の演劇研究所に入所する。
その後、蜷川幸雄が主宰する「櫻社」へ入り、俳優活動をする。
やがて谷さんは演劇活動を続けるか、それとも演劇を断念するか、悩んでいた時期があった。

その時、コメディ・フランセーズで上演され、絶賛されたギィ・フォワシィの「相寄る魂」(COEUR A DEUX)が、
1971年のアヴァン・セーヌ誌(L'AVANT SCENE)に掲載された。
その作品を放送作家の故・梅田晴夫氏による翻訳で読み感動する。

それが谷さんとフランスのブラックユーモア劇作家・ギィ・フォワシィとの、最初の出会いであった。
谷さんはさっそくフランスに手紙を送る。
「貴方の作品を連続上演する劇団を作りたいので、ぜひ貴方の名前を冠した劇団の許可をお願します」

するとフランスのギィ・フォワシィから、喜んで承諾する旨の手紙が届く。
そして1976年に、劇作家ギィ・フォワシィの戯曲の上演と、日仏文化交流をめざす、劇団「ギィ・フォアシィ・シアター」が誕生した。
それ以来38年間、現在に至るまで85回の上演を数えた。

ギィ・フォアシィはフランス文化省との人的パイプも強い。
フランス政府機関である日仏学院の院長を、谷さんへ紹介してくれ、日仏学院で芝居の稽古をしていたこともある。
そして日仏学院の講堂で、フランスの劇団と谷さんが主宰する「ギィ・フォアシィ・シアター」の公演もあった。

やがて誠実でギ・フォアシイ一筋の谷さんは、日本の文科省からフランスへ派遣され、フランス演劇の現況報告をしていた。
遡れば23年前のことであろうか。
谷さんにとってとて苦しい時期があった。

その時、私は彼に言ったことがある。
「谷さん、あと10年頑張ってみろよ。必ずフランス政府から勲章がもらえるから。フランスはそういう国だよ」
それから10年後の2001年に、私が言ったことが現実になった。

フランス政府からフランス芸術文化勲章(シュバリエ勲章)が、谷さんへ贈られた。
フランス大使館で授賞式が行われ、その後祝賀パーティーがあり、燕尾服姿の谷さんの胸に、勲章が輝いた。
先月から今月にかけて、私のお店のお客さまの三家庭で、元気な赤ちゃんが産声を上げた。

それは長い間、お店を開いていた、私とママへの贈り物である。
そして月末に青春時代を共に生きた友人に、永遠の別れを告げた。
人間の誕生と死、命の深い意味を、あらためて教えられた。