爽やかな初夏、 埼玉県飯能市竹寺へ
2014年5月11日

風薫る初夏、竹寺へ出かけた。
関越から圏央道へ出て、狭山日高ICで降り飯能方面へ向かい、県道70号から県道350号を行く。
途中で子の権現と竹寺へ分かれる二差路、竹寺へ進むと、道は狭く緑深い森となる。
 
右手は山の緑が迫り出し、左手を望むと深い谷となる。
険しいつづらな坂道を上り切ると、竹寺の駐車場に到着した。
駐車場には何台か、車が駐車してあった。

車を降りると森の精気が漂っていた。
駐車場の傍らの草叢に、柔らかな色彩に染まる野の花が、木漏れ日を浴びて晴れやかである。
駐車場から上りの砂利道を行くと、正面に鳥居が見えた。
 
鳥居を潜ると牛頭天王へ続く参道が伸びていた。
お寺に鳥居の組み合わせは今では珍しい。
だが歴史を遡れば、日本は古来より神仏習合の世界であった。
神と仏とが仲良く祀られていた。

来生は仏の世界へ導き、今生は神さまが見守ってくれる。
明治維新により政府の強権が、廃仏毀釈により神道へ一元化させた。
竹寺は中央集権から閉ざされた遠隔の地にあり、幸運にも神仏習合のまま残った珍しい寺である。

鳥居を潜り行くと左手に弁財天が見える。
ひっそりと緑に包まれ、木漏れ日を浴びていた。
弁財天で鰐口を叩くと、鈍く柔らかいい音が響いた。
 
そして無心に手を合せる。
軒下の板や壁には、たくさんの千社札が貼り付けてある。
最近は神社仏閣に、千社札を禁止するところが多い。
だが壁や梁に貼られた千社札を見ると、不思議と歴史の郷愁を感じる。
弁財天の横には初夏の緑に包まれた、淀んで底の見えない沼のような池があった。
池へ続く入り口につくばいがあり、竹の筧から一筋の水が流れ落ちていた。
 
筧から落ちる水で、手を清め弁天池へ。
するとポチャッ! と何かが飛び込む音がした。
だが池の水面に水紋もなく、木々の樹翳を映すのみ。
 
すると暗緑色の池に、錦鯉の姿が見えた。
それにしても先ほどの音は、何であったのであろうか。
蛙の姿も亀の姿も見えない。
 
池の真ん中に架かる石橋を進み池を渡る。
そして参道へ出る途中に、牛頭明王の厳めしい銅像が建っていた。
右手に大きな斧を持ち、左手に羂索を握り、正面を威嚇するように睨んでいる。
その姿は逞しく全ての悪や穢れを駆逐するようである。
その像は平成4年、中国から寄贈されたものである。
光り輝く新緑を背に、荘厳に満ちた銅像が、毅然と立ち尽くしていた。

 
そして参道をしばらく進むと、前方に本坊が見える。
路傍にはツツジの花が、今は盛りに咲き匂っていた。
さらに行くと本坊境内の長椅子に、昼下がりの陽光を愉むように、初老の男女が長椅子で談笑していた。
境内の横手に竹の鳥居の回廊があり、入り口に本殿への参道であることを標す、木札が立っていた。
低い竹の鳥居を潜り、なだらかな勾配の上り道を進むと、ツツジとテッセンが迎えてくれた。
柔らかな日射しの中、奥武蔵にも初夏が訪れている。
大きな剥き出しの石段を上ると、右手にひと際急峻な石段があり、朱塗りの鳥居の奥に、稲荷神社があるようだ。
更にごつごつした石段を大股で上ると、新緑燃える頭上彼方に、大きな茅の輪が見える。
遠くで野鳥の鳴き声が聞え、彼方から吹きわたる風が清涼を誘う。
そして石段を上り切り、神妙に茅の輪を潜る。
正月から
半年の間の罪穢れを祓う、夏越しの大祓い。
心や身体の罪穢れが洗われ、新たな生命を頂いたようで、霊気が身体の中に漲る。
茅の輪を潜ると更に、先ほどより整備された石段が続く。
それは竹寺講中たちの寄贈したものであった。
石段には去年の枯れ葉が赤銅色を晒し、寂寥を醸している。
  
やっとのことで牛頭天王前の境内に到達した。
お社は朱色も鮮やかに、降り注ぐ陽光に輝いていた。
お社の前には阿形と吽形の獅子が、きっと瞳をみひらき、お社を守っていた。
その姿は凛々しく威厳に満ちている。
縁起によれば天安元年の慈覚大師の開基に起源を持つはずのお社、この真新しい姿はどうしたことなのであろうか?
それは平成11年に火災が起こり、お社は燃え落ち、平成15年に再建されたものであった。
 
堂宇の前の右手に蘇民将来と、朱色と墨で書かれた六角形の木彫りの御守りが飾ってあった。
それは遠い伝説の世界、牛頭天王が一夜の宿を借りた礼に、蘇民将来の家に厄除けの茅の輪を授けたことに始まると言われる。
善行を施した民が神に選ばれ救われる信仰、ユダヤ教にパスオーヴァー(過ぎ越しの祭)が3月から4月にあり、世界各地にも同様な信仰がある。
境内には訪れる人影もなく、深い木立に包まれたお堂に静寂が漂う。
杉の古木が鬱蒼と空を覆うように伸びている。
だが古木を見ると杉の樹肌が灰色をおび、何処か木々に精彩がない。
 
樹肌が抉られ灰色の肌を晒している。
それは平成11年の火災による、後遺症なのであろうか?
樹木医が木々の生命を守るために施した、治療の痕なのであろうと想像した。
 
お堂の横へ回ると、晴れ晴れと視界が広がる。
青空に牛頭天王を彫り込むトーテムポール屹立する。
するとそのトーテムポールと向き合うように立つ、漆黒の牛頭天王のトーテムポールが立つ。
 
その姿は異様で凄みさえ帯び、碧空に影絵のように浮かび上がる。
よく見るとトーテムポールの木は焼け爛れていた。
火災の時に焼けおちた老木に、牛頭天王を彫り込み、二度と災厄に遭わないための守り神に復活させたのであろう。
お堂の建つ地は海抜490メートルであることを木札が示す。
境内には災禍を逃れた杉の老木が、永い風雪を耐える生命力見る者に与える。
境内に根を張る銀杏の木から枝が垂れ、銀杏の葉が風に揺れながら、陽光を浴び光の交響曲を奏でていた。
遠く山間から吹きわたる風は優しく、夏の匂いを乗せている。
遠くには幾重にも山並が広がり、朦朧と霞む彼方に、飯能の市街が蜃気楼のように輝いていた。
そしてお堂の裏手に回ると、杉木立から木漏れ日が注ぎ落ちる。
その木漏れ日の中、白や黄の野花が可憐に咲いていた。
さらにお堂の脇から下りの道を降りる。
すると右手に竹林が広がり、竹の緑が瑞々しく眩しい。
その竹林の中に成長した竹の子が、愛らしい姿で木漏れ日を浴びていた。
梅雨時になれば竹の子も大きく成長し、雨に濡れた竹林は、幽玄な佇まいを見せるであろう。
さらに下ると先ほどの茅の輪が見えた。

階段を下り竹の鳥居を潜ると、本坊境内に着いた。
境内には僅かな人影が立ち、初夏の日射しを浴びて長閑な風情が漂う。
本坊には土産物売り場があり、蘇民将来の護符や地元特産が並べられていた。
そして本坊と回廊で繋がる庫裏では、精進料理を愉しむ人の姿が覗く。
その建物の前には、大田道灌が植えたと伝わる樹齢400年、幹回り3.86メートル、樹高26メートルのコウヤママキが威容を見せていた。
その向こう屋根越しに、銀杏の老樹が陽に輝いている。
 
初夏の山間の空気は爽やかで、甘い味が薫るようで美味しい。
境内には野点傘が広げられ、長床几が置かれている。
朱色の野点傘が陽光を浴び、鮮烈な色彩で照り映える。
その奥に竹林が若緑を湛えていた。
竹林へ続くふかふかの赤土の道は、なだらかな下り坂。
心地よい木漏れ日が射し、若竹が初夏の匂いを醸している。
道から竹林を望むと、下りの散策道はつづらに折れ曲がりながら、彼方遠くへ続いている。
終点は遠く遥かな道のりのようだ。
滅多に踏むことのない、柔らかな土の道は大地のクッションのようで、足裏を心地よく刺激する。
 
竹林の中には沢山の竹の子が伸び、生命が躍動していることを教える。
途中で竹林の道を戻り、先ほどの竹林の入り口へ辿り着く。
遠く境内には軽登山姿の初老の男女が、コウヤママキを見上げていた。

 
竹林の静謐で幽玄な世界から一転、強い日射しが降り注ぐ境内に出ると、目が眩むようだ。
境内には俳句寺と謳われるように、あちらこちらに俳句の石碑が建っている。
するとその鏡のように磨かれた石碑に、ママの姿が映っていた。
 
初夏の陽光がもたらす、光と石のいたずらが愉しい。
そして境内を出ての戻り道、瑠璃殿が昼下がりの陽光を浴びていた。
そして右手に弁財天が木々の緑の奥に見え、その手前には牛頭明王の銅像が、木漏れ日で斑模様を映す。
すると左手に赤茶けた鐘が、竹に結わえられ無造作に吊られていた。
そして横にベニヤ板に墨書された立て札が建ててある。
それは第二次世界大戦の時に、フィリピンバギオに落とされた不発弾で、作られたものであった。
  
フィリピンの映像作家が広島長崎の原爆慰霊碑で、世界の平和を祈願し、その後作成したものであった。
その鐘をそっと打ち鳴らす。
すると静寂を破るような金属音が鳴り響いた。
そしてさらに歩くと、第一の鳥居の手前左手に、牛頭天王を彫り込むトーテムポールの姿が見えた。
さらに行くと鳥居の近くに様々な竹が植えてあった。
さすがに竹寺、今まで見たこともない種類の竹たちが、陽光に輝いている。
その植え込みの一角に、お掃除姿の小坊主さんのにこやかな笑顔。
穏やかな笑みを湛えたお地蔵さまが、竹寺の情趣を深めていた。
山岳信仰の聖地・竹寺にも初夏が訪れている。