関東三大不動尊の一つ、高山不動尊を訪ねて
2013年12月1日

真言宗智山派・高貴山常楽院 通称:高山不動尊
〒357-0002埼玉県飯能市大字高山字西の下346番地


師走に入り寒さも厳しくなった1日、埼玉県飯能市にある高山不動尊へ出かけた。
昼過ぎに家を出る。
空は碧く澄み渡り、12月の空気は清涼感に溢れていた。

環八を進み練馬ICから関越へ。
真っ直ぐに進む関越は気持ちが良い。
やがて川越を越すころから、彼方に秩父の山並みが霞む。

その山並みに歪な富士山のような山が、ひときわ高く聳えている。
その山は秩父の象徴・武甲山である。
山の姿は360度の表情があり、秩父市内から眺める武甲山と、様相が異なるのも楽しい。

やがて鶴ヶ島ICに到着し、関越を降り国道407号を進むと、道は長閑な景色に変わってゆく。
やがて道は県道114号から県道30号へ入り、上りの道になる。
道は鬱蒼とした森に包まれ、坂道は急峻になる。

さらにり九十九な坂道を上って行くと、顔振峠の茶屋の前を通過する。
この茶屋に来るのは何年ぶりであろうか。
顔振茶屋でお酒を酌み交わしたお爺ちゃんは、すでに80歳を過ぎていた。

日も落ちた夕刻、私たちをベランダから、私たちの車の姿が消えるまで、見送ってくれたお爺ちゃん。
今でも元気でいるであろうか。
あの人懐こく優しそうな笑顔が、今でも思い浮かぶ。

時間が許せば立ち寄りたいところだが、山の日は落ちるのが早い。
寄らずに行くことにして、さらに山深い坂道を進んでゆく。
すれ違う車もなく深閑と物音しない道に、エンジン音が軽快に響く。

山はさらに深く、黄葉紅葉の枯葉が、行き過ぎる車に巻かれ飛んでゆく。
すでに山々の秋は終りを告げ、冬枯れの世界へ変わろうとしている。
左手の窓外を見渡すと、深い谷が眼下に広がり、その彼方に集落が小さく日に輝いている。

人家はすでに消え、深い常緑樹に包まれた、険しい峠の傾斜道を上り行くと、小さな集落に出た。
人間とは逞しい。
どんな深い秘境のようなところにも人は住む。

そして人々は独自の生活をし、特有な文化を育み、連綿と歴史を刻んでゆく。
すると高山不動尊の案内板が見え、さらに下ると右手に駐車場があった。
すでに2台の車が停めてあり、私たちも車を置いた。

駐車場から見渡すと、杉木立の彼方は紅葉に染まっている。
昼下がりの陽光に照らされ、鮮やかに照り映えていた。
そして右手前方に木立に包まれるように、堂宇の朱色の屋根が見えた。

それはきっと高山不動尊であろう。
駐車場から道に出ると、素朴な標識板が高山不動尊を案内していた。
下りの道を少しゆくと右手に入る道があり、前方に高山不動尊が鎮座していた。

想像していたよりか建物は、威風堂々としていた。
境内には人影もなく、木々に包まれ森閑としていた。
高山不動尊の創建は古く、白雉5年( 654年)に遡る。

草創縁起縁起によれば、藤原釜足の子・長覚坊上人、三輪神社の別当・宝勝坊上人、藤原氏の臣・岩田三兄弟により、開山されたと伝えられる。
今では成田不動や高幡不動とともに、関東三大不動と称されている。
 国指定重要文化財に指定されている堂内には、霊亀2年(716年 )に行基菩薩により彫り上げられたと伝わる、
像高228.8cmの軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)木造立像が祀られている。

古くよりこの地は山岳修験道の聖地でもある。
その修験の儀式を色濃く残す、山伏秘法火生三昧(かしょうざんまい)「火渡り式」が、4月15日の春季大祭に高山不動尊の境内で執り行われる。
境内にはすでに枯れ落ちて錆色の葉が、寂しげな風情を晒していた。

江戸幕末に再建されたと言う堂宇の、木目の浮き出た階段を静かに上る。
上り切るとお堂の前は思いのほか広く、鰐口を垂れ下がる綱で打ち手を合わせる。
お堂の棟下には高山不動と刻した扁額が飾られ、お賽銭箱の横に素朴な風情のお賓頭盧(おびんずる)さんが鎮座していた。

長い歳月に晒された顔の表情はかなり変容し、かつては朱色の漆も美しいかったであろう像も、見る影もなく色褪めていた。
だがその表情は優しく、人々の安寧と健康を見守っているようである。
堂宇の太い柱を見ると、たくさんの千社札が貼られていた。

そして境内に目をやれば、少し傾きかけた日が木々を照らし、枯葉の赤銅色の絨毯に樹影を映していた。
お堂の階段を降り、名残の紅葉に包まれた境内から、急峻な石段を降りる。
長い間風雪に晒され、幾千万の人々に踏みしめられた石段は、凹凸が剥き出し、少し歪に傾いている。
石段は狭く傾斜が厳しく、用心をしながら下る。
石段にはすでに枯れ落ちた、色とりどりの木の葉が、散り敷かれていた。
その枯葉を踏む瞬間、立ち上る微かな匂いに、秋が過ぎ去ったことを知らされた。

この階段を下り降りれば、関八州見晴台(かんはっしゅうみはらしだい)があるのであろう。
先程の標識がそのことを教えてくれている。
そして石段を降り切り、不動尊へ振り返り見上げると、紅葉の木々の彼方に、陽光を浴びた堂宇が、陰影を深くしていた。

石段を降りた正面の広場は、枯れ落ちた銀杏の葉が敷き詰められ、金彩の絨毯のようであった。
それは正面奥に控えた、樹齢800年の大銀杏から舞い落ちた、木の葉なのであろう。
縁起によれば前記した長覚坊上人が植えたと伝えられ、昭和22年3月に「埼玉県指定 天然記念物」に指定されている。
 
太い樹は目通り10メートルあり、途中で二股に別れ、雲一つない澄み切った碧空へ、真っ直ぐ屹立している。
その樹高は37メートル、金彩に輝く葉を陽光に光らせながら、18メートル四方の枝張りは見事である。
さらにその樹幹を支える根は、ごつごつと逞しく地中へ伸びていた。

  
その大銀杏の脇に、木製の螺旋状の階段が下へ伸びていた。
それは関八州見晴台へ続くのであろうかと思い階段を下る。
すると小さな祠が左手にあり、お地蔵様が鎮座していた。
  
その上を見上げると、大銀杏から大きな瘤が、糸瓜のように垂れ下がっていた。
その乳柱の形は老婆の乳のようで、碧空に不思議な姿を映し出していた。
高山不動尊の大銀杏は、又の名を「子育て銀杏」と言われることを思い出した。
  
この大銀杏へ、産後の乳の出に悩む人や、乳房に病を持つ女性が祈願すると、快癒すると信じられ、その名前が言い伝えられたと言う。
階段を下りきると、そこには関八州見晴台への道は見当たらなかった。
どうやら勘違いだと思い直し、階段を上り大銀杏のある広場に戻った。

  
すると軽登山姿の親子連れが通りかかった。
そして関八州見晴台への道のりを聞くと、笑顔で親切に教えてくれた。
それは先程の高山不動尊から、さらに上ったところにあることが判明した。
 
高山不動尊は標高600メートルにあり、関八州見晴台は標高771メートルにある。
単純計算しても、階段を下ることはなかったのである。
しかし下ることで大銀杏に出会えたのだから、それはまた大きな感動を頂いたことになる。
 
今度は階段を上らずに、なだらかな迂回路を通りながら眼下を見渡す。
すると先ほどいた広場は、敷き詰められた銀杏の枯葉が、きらきらと陽光に照り返されていた。
一面の金彩とどこまでも碧い空が、王朝絵巻の世界のように輝いていた。
そして駐車場に戻り、車で関八州見晴台へ向かった。
 
しばらく上り進むと前方に茶屋があり、店は閉まっていたが、関八州見晴台入口の木札が立っていた。
その木札の前の駐車場に車を停め、山道を登ってゆく。
すでに冬枯れた雑木林に開かれた上り道は、根株が剥き出し足元を掬われそうである。
 
滑らぬように用心しながら急坂を上るが、頂上へ辿り着く気配がない。
少し不安になりながらさらに上ると、関八州見晴台への標識が目に入る。
この道に間違いなしと確信をし進むが、やはり目的地は視界に現れない。
 
雑木林を進み遠く見渡すと、木立越しに折り重なる山々の眺望が開ける。
すでに日はかなり傾き始めている。
さらに上り進むが目的地は未だ遠いようだ。
 
果たして目的地に到着できるのか不安になった。
すると頭上に車のエンジン音が聞こえた。
どうやらこの先に街道があるようだ。
 
そして坂道を上りきると、そこは舗装された道路。
なんということか、道路を渡ると関八州見晴台入口の石碑が立っていた。
ここまで車で来れば、こんなに苦労をすることはないのにと愕然とした。

しかしものは思いようで、一見無駄な雑木林の散策が、初冬の名残の紅葉を、愉しまさせてくれたのだ。
たくさんの行楽客やハイカーが踏みしめた、赤土にまみれた山道を上り7分程上る。
雑木林を抜けて降り注ぐ木漏れ日が、山道に日溜まりの文様を刻んでいた。

さらに息を大きく吐きながら上ると、関八州見晴台に到着した。
埼玉県飯能市と入間郡越生町の境界に接する、標高771.1メートルの山頂には、小さく素朴な佇まいのお堂が立っていた。
そのお堂が奥の院であり、堂内は空洞で投げ入れられたお賽銭が床に落ちていた。
格子戸越しにお賽銭を奉じ、鰐口を鳴らし手を合わせる。
かつて江戸時代、関八州と呼ばれた相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の360度のパノラマの絶景が眺められた。
日が高ければ、富士山、武甲山、南アルプス、筑波山、丹沢など、関東の名だたる名山が眺めることができるであろう。
だがすでに山の日は落ち始め、夕日は山の端に消え始めている。
見える山々は富士山と秩父山系に君臨す、る武甲山の山影だけである。
やがてみるみる内に日は滑り落ち、山の稜線を茜色に、鮮やかに染め上げてゆく。
  
日が沈み始めると、山の冷気が急速に辺りを包み、人気ない山頂の静寂を深くする。
さらに日は稜線に落ち、山陵も峰々も残光で金色が滲む茜色に輝いている。
空に微かに残る青色は消え、銀灰色の雲も墨色を溶かし、黒く変容していった。
 
右手には甲のような形をした武甲山が、秩父山系から際立ち、黒い影を映していた。
さらに左手に目を移すと、富士山が峰々を支配しているかのように聳えている。
やはり富士山は日本の象徴であり、神々が宿る霊峰なのであろう。
 
その姿は優雅でどこまでも高貴である。
幾重にも折り重なる山々は、紫色を溶かす漆黒に変わり、空は燃えるような茜色に染まる。
そして瞬く間に色を失って行った。