板橋演劇鑑賞会「百枚目の写真〜一銭五厘たちの横町」
トム・プロジェクト・プロデュース
2013年8月26日


一銭五厘の赤紙により戦地へ召集され、残された家族の写真を兵士へ送るために撮影された写真。
昭和45年の春、桑原甲子雄により撮影された写真集を、ルポライターの児玉は手に入れた。
氏名不詳の99枚の写真をたよりにして、児玉は写真に写る家族を訪ねる。

浅草から上野辺りにある、戦火にも遭うこともなく、奇跡的に残った下町の路地。
微かな人々の記憶をたよりに訪ねあてた家族には、様々な戦争の怒りと悲しみのドラマがあった。
やがて写真に写る家族の一軒に辿り着いた。

そこには戦死した息子の母親と嫁とその娘の3人が、肩を寄せ合いながら住んでいた。
その家族には悲しい戦争の傷跡が刻まれていた。
昭和18年から20年の終戦を迎えるまでの、凄惨な戦争の中で、息子は戦死していた。

昭和20年の或る日、1人の復員兵が根本家を訪ねて来た。
それは出征した息子の戦友であり、息子が南方戦線でマラリアにより病死したことを知らせた。
母親は慟哭し復員兵に「なぜ貴方が生き残り息子が死んだのか」と激しく迫る。

苦しみに耐える父親は、母親の悲しみを包みながら、母親の非礼を復員兵へ詫びる姿はいたましい。
日本は戦争で230万人の戦死者を出し、日本本土は大空襲に焼かれ、沖縄では無辜の民が犠牲になり、広島と長崎に落とされた原爆の悲劇が襲う。
昭和18年から戦死者は急増し、昭和19年中ほどから終戦の昭和20年までに、日本人の全戦死者の9割を占めると言う。

召集されて出征した人たちは、学生から高齢者まで戦地へ送られ、激烈な戦火の中で戦死した。
2010年の夏の日、長野県上田市古安曾にある「無言館」へ出かけた。
雑木林の中に建つ灰色の建物の中に、戦没学生の残したたくさんの絵が飾られていた。

20歳くらいの若者たちが学徒出陣で戦地へ行き、そこで無念にも戦死した学生たち。
その学徒出陣の学生たちが遺した絵や、家族に送られた手紙と絵手紙が展示されていた。
その戦死した日付のほとんどが、昭和19年から20年頃に集中していたと記憶する。

すでに敗戦は決していたにも関わらず、食料も兵器も携行させず、若き兵士を戦場へ送りだした。
多くの戦死者は戦闘で斃れたのではなく、栄養失調と病気により落命した。
舞台は高度経済成長へ向かう、昭和40年代の東京の下町。

終戦の年へタイムスリップするドラマは、観客の心を揺さぶる。
舞台の後半にいたる奈落の中、観客のすすり泣き忍び泣く声が、あちらこちらで響く。
すでに戦争を体験した人たちは鬼籍に入り、戦中派も高齢となっている現在。

私たち戦後生まれも定年を迎え、社会の第一線から退場し始めている。
演劇鑑賞会の観客は圧倒的に、終戦を挟んで生まれた人たちが多い。
自分たちの親の世代の悲しみを思い、今は歴史の彼方に消え始めた、悲惨な戦争を改めて、思い知らされたことであろう。

残された写真は99枚、これからは決して100枚目の写真を残してはいけない。
一銭五厘の命では余りにも軽すぎる。
そんな時代が2度と来ないように、私たちが戦争の悲惨を、次の世代へ伝えなくてはならないであろう。