福島県会津若松市・飯盛山と南会津・大内宿を訪ねて
2013年4月23日

昨日は会津の奥座敷・東山温泉で会津料理をいただき、さらりとした湯味を愉しんだ。
露天風呂から眺めた、会津の市街地の夜景が、とても美しかった。
そして今日も快晴、最高の行楽日和となった。

チェックアウトを10時前に済まし、今日の目的地・飯盛山へ向かった。
旅館を出てしばらく行くと、飯盛山の参道下に到着した。
土産物屋さんの女性が、笑顔で誘導してくれ、駐車場へ車を停めた。
 
ありがたい事に、どうやら無料である。
そして私たちを「行ってらっしゃい」と言って、元気に送り出してくれた。
人間の心意気、それならば帰りは、ここで何かお土産を買って行かねばと思う。

駐車場の斜め前には、飯盛山へ続く急峻な石段が、頭上高く伸びていた。
早朝からの強い日差し、石段は照り返っていた。
一汗かきそうなので軟弱にも、石段の右端を上り動くエスカレーターに乗ることにした。

搭乗券250円を支払い乗り込むと、緩やかに滑るように上って行く。
左手の階段を上る人は殆どなく、右手彼方には会津若松の市街地が広がってゆく。
5分ほどすると上り切り、境内に到着した。
 
さっそく白虎隊が自刃した地へ向かった。
表示に従い進むと急傾斜の下りの石段があり、辺りは墓地となり、遠く会津若松の市街地が、陽光の中に霞んでいた。
階段を下りきると狭い広場があり、左手に白虎隊の少年の石像があった。

1868年(慶応4年)に戊辰戦争が勃発。
新政府軍と幕府方の会津藩は一戦を交え、会津戦争となる。
最新兵器を装備した新政府軍と、旧弊の兵器で武装した会津藩では、歴然とした戦力に差があった。

新政府軍の猛攻にさらされ、会津藩の戦況は日を追うごとに悪化した。
その時、会津藩子弟の少年たちも、会津藩のために自発的に決起したのが白虎隊であった。
だが時はすでに遅く、部隊は勇敢に戦い抗戦するが、敗走を余儀なくされた。

戸ノ口原の戦いに敗れ、士中二番隊は敗走する。
そして命からがら逃れてきた場所が、子供の頃から慣れ親しむ、標高314m飯盛山であった。
だがそこで見たものは、難攻不落の鶴ヶ城が燃え盛る姿である。
それは鶴ヶ城下の武家屋敷が灰燼に帰す様を、少年たちが錯覚したものであった。

白い翼を広げる鶴ヶ城が炎上したと思い、白虎隊士は攻めて出て討ち死にするか、ここで自刃するか運命を決する討議をした。
そして選んだ結果が、悲劇となる全員の自刃であった。
会津藩士の子弟は6歳から9歳まで、「什 (じゅう)」と呼ばれる10人前後の集まりを作り、「什の掟」を守った。

そして白虎隊の志士たち・上級武士(上士)の子供達は、10歳になると藩校・日新館で文武両道を学んでいた。
もともと会津藩は学問の盛んなところ。
寛文4(1664)年、庶民のための学問所・稽古堂(けいこどう)が、民間により日本で初めて創設されている。
やがて会津戦争は激烈を極め、最初は玄武隊・青龍隊・朱雀隊の後方を守る、予備隊であった白虎隊にも、出撃命令がくだされた。

そして敗走の果、会津藩へ永久の忠誠を誓い、16歳から17歳の少年たちは自刃したのであった。
彼方に会津若松市街地が広がり、鶴ヶ城が微かに見え霞む。
空は蒼く広がり市街を包むように、新緑も萌え始める山々の山稜が、幾重にも重なる。

下って来た石段を上りきると、広い境内に出た。
右手に趣の違う異国風な塔が建っていた。
塔上には鷲の彫刻が勇姿を見せている。

それは昭和3年、白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市が、送ったものであった。
石碑は花崗岩の円柱で、ベスビアス火山の噴火で埋没した、ポンペイの廃墟から発掘された、古代宮殿の柱であった。
境内にはお線香の香りが漂い流れている。
 
その流れくる香りと香烟に誘われ進むと、「白虎隊十九士の墓」の墓が並んでいた。
石段を数段上ると緑の木々に包まれ、お線香の烟がゆらゆらと煙っていた。
右手の端で観光ボランティアの人が、団体の観光客に淀みなく説明をしていた。
 
自刃した19人の隊士は3ヶ月の間、新政府軍の命令により、自刃したままに放置された。
そのために放置された遺体は腐敗し、どの隊士の遺骨か判明できなくなっていた。
そのため19基の墓に名前が彫られているが、お骨は正確に埋葬されていないそうだ。

まだ幼さの残る少年たちは、無念の終焉の地に静かに今も眠る。
彼らは武士として、家名を守り藩に忠誠を尽くし自刃した。
今も勇敢に戦い己の志を全うした隊士を偲び、大勢の観光客が訪れる。

彼らは死した後も、会津若松に大いなる貢献をしている。
境内からさざえ堂へ続く道を下る。
左手に会津若松の街並みが広がり、桜の花々が陽光で薄紅に煌めいていた。

緩やかな坂を下ると、程なくして広場に出た。
そこは会津さざえ堂の境内だった。
正面に小さな、入母屋造り・銅板葺きの堂宇が建っていた。
 
扁額に宇賀神と彫られ、寛文年間(1661ー1672)に、会津藩三代藩主松平正容が、宇賀神を勧請し創建したものであった。
桁行3間・梁間2間の堂宇の中に、弁財天を祀るとともに、飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置されている。
そのお堂の隣の建物で、さざえ堂の入館料400円を支払い、さざえ堂の中へ入る。
 
入口で鰐口を鳴らし拝礼し、木の階段を上った。
この不思議な形をしているお堂の正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)と言い、高さ16.5メートルの六角三層のお堂。
その外観がさざえに似ていることから、いつの頃かさざえ堂の愛称となった。
  
遡ればかつてこの地に、正宗寺(しょうそうじ)というお寺があり、その住職の僧・郁堂(いくどう)が考案し、1796年にさざえ堂を創建した。
境内には修学旅行の生徒たちだろうか、背中に大きなリュックを背負った、制服姿の男女の生徒たちが大勢いた。
堂の中へ入ると冷やりとした空気が流れ、緩やかな傾斜の通路が螺旋状に上層へ伸びる。
 
廊下の左手側に明かり窓が切られ、外光が優しく室内を照らす。
すると右手にかつては観音様が鎮座していたはずの空間が、箱型に切られていた。
扇のような姿に広がり上る傾斜の廊下を進む。
すると踏みしめる床の音が、軽く心地よく響く。
 
上りゆくに従い、各所に先程のような寂しげな箱型の空間が、幾つも現れてくる。
天井を見上げると、色あせて趣のある沢山の千社札が貼られていた。
最近は千社札を禁止する神社仏閣も多いが、私は千社札が好きだ。

子供の時から慣れ親しんでいるからなのであろう、千社札を見ると何故か古の郷愁をおぼえる。
やがて三層の最上階になり、ここから下りになる。
ここまででこのお堂を1回転半したことになる。

窓から外を見下ろすと、境内に咲く桜の花が、陽光に煌めいていた。
これからさらに1回転半の螺旋を下ると、都合3回転することになる。
つまりさざえ堂の正式名称・三匝堂の「匝」の「匝」は、「めぐる(匝る)」という意味であり、
仏教の礼法・右繞三匝(うにょうさんぞう)に則り、右回りに三回匝る(めぐる)り、三十三観音参りをすることなのである。


上り下りの回廊を歩くが、人とすれ違うことがない。
狭い廊下を上り下りの大勢の人がすれ違う危険を避けるために、考案されたユニークな構造なのだ。
上りと下りが別の一方通行の順路で、安心して三十三観音をお参りすることができる。

江戸時代中期、民衆に観音信仰が広まり、観音霊場巡りも盛んになる。
しかしそれは貴族階級や裕福な者たちができることであり、一般民衆には夢の世界である。
一つのお堂の中に三十三観音を祀り、一巡りする事で三十三観音霊場を参拝する夢の実現であった。

関東を始め全国にさざえ堂は存在するが、会津さざえ堂の形状は特質し、建築史においても重要な存在である。
その建築史上でも珍しい構造が認められ、平成8年に重要文化財に指定されている。
下るに従い右手にかつて存在したであろう観音様の祠が、無残な箱型の小部屋の姿で幾つも現れる。

明治になり神仏分離令が発布され、廃仏毀釈により
正宗寺は廃寺された。
その時、さざえ堂から全ての観音様が、取り外されたのである。
回廊の窓から柔らかく陽光が差し、窓外を望むと境内のお堂が見える。

入母屋造りのお堂は陽光を浴び、境内に影を落としていた。
人気ない回廊を下りゆくと出口に着いた。
境内へ出ると振り注ぐ陽光で眩かった。
 
さざえ堂を見上げると、陽光を浴びた姿はユーモアに溢れていた。
そして猪苗代湖から水を引き込むトンネル・
戸ノ口堰洞穴へ続く階段を降り、戸ノ口堰水神社に参拝して駐車場へ向かった。
細いなだらかな下りの参道を行くと、正面に駐車場があった。

先ほどのお店の女性が、気さくに笑顔で迎えてくれた。
その好意に応え土産物を購入し、会津の旅の最後の目的地・大内宿へ向かった。
市街地を抜けると、長閑な会津の風景が広がる。

県道131号を進むと、疎らな民家の彼方、山々の新緑が美しい。
すると大内宿こぶしラインの立て看板が出現した。
右手に折れこぶしラインを進むに従い民家は消えていった。
 
だんだんと上り傾斜も強くなり、深い雑木林は雪景色に変わっていった。
一昨日の雪が雑木林を、荒涼とした景色に変えていた。
車窓を開けると、山間の冷たい冷気が吹き込んできた。
 
前にも後ろにも車の姿は見えない。
さらに雑木林は続き、やがて下りの道へ変わった。
民家なき街道を進むと、やがて大内ダムが碧の湖水をたたえていた。
 
そして民家が街道沿いに現れる頃、大内宿へ到着した。
大内宿は会津若松と日光を繋ぐ、下野街道(会津街道)に面した宿場町。
会津若松よりも標高が高く、人里離れ独立した宿場町であった。
 
江戸時代には街道も整備され、参勤交代で会津藩・米沢藩などが通い、廻米道としても繁栄した。
火曜日とは言え駐車場には車が溢れ、通りを渡ると正面に大内宿が開けていた。
赤土の路面が続き、道の両脇の溝には、透き通った水が流れていた。
 
昔ながらの茅葺き屋根に、古さびた木造りの家の板や柱が、木の模様を浮き出させていた。
家々の前には様々な土産物が並べられ、大勢の観光客が眺めたり、手に取っていたりする。
昼下がりの陽光が、宿場の賑わいに華やぎを与えている。
  
すでに三春の滝桜は散り、鶴ヶ城の桜は満開であった。
だが山深き大内宿の桜は咲かず、山里は春を待つ。
降り注ぐ陽光は柔らかく、暖かな日差しを落としていた。
 
宿場の所々に鯉のぼりが、濃褐色の茅葺き屋根を背景にして、微かに吹き流れる風にそよいでいる。
人里離れて孤立する宿場は、長く厳しい冬に閉ざされる。
そして雪が溶け春の花が清楚な花を咲かせ、やがて桜が爛漫と咲き匂う。
 
その春を謳歌するように、端午の節句を祝う鯉のぼりが、家々の前で流れ泳ぐ。
やがて山々は新緑に変わり、葉叢を陽光に翻しツバメが飛び交う。
そして会津若松と南会津下郷町を結ぶ、大内峠の南に面する大内宿にも初夏がやってくる。
 
見上げれば茅葺き屋根に、強い陽光に照れされながらも、僅かに雪を残していた。
すでに時間は正午を大きく過ぎ、1時に近かった。
民家をそのまま使った食事処は、お昼を頂く人たちで賑わっていた。
 
さらにかつての会津西街道を進むと、旅籠の看板が見える。
江戸時代の往還を彷彿とさせ、時代の温もりを感じる。
その軒を連ねる茅葺き屋根の建物群は、昭和56年(1981年)に、
重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 
街道筋に江戸時代の町並みを残すこの宿場町は、妻籠宿や奈良井宿に次いで、全国で3番目の指定であった。
だがこの宿場町も明治維新後は街道制度も廃止され、近代化の浪が押し寄せた。
そして交通手段の変化とともに、急速に衰退の憂き目に翻弄され、茅葺き屋根の家も消失し始める。
 
やがて道路も舗装され、家並も変貌し始めたこともあった。
だが宿場町の住民たちは、歴史的遺産はかけがいのない財産であり、豊かな観光資源であることを再認識した。
そして道脇の水路を整備し清流を流し、舗装は剥がされ赤土の道となり、茅葺き屋根の家々が復活した。
 
その懐古的な郷愁に、訪れる人たちの心が癒されるのである。
さらに進むと大きな茅葺きの屋敷が、正面に構えている。
その横に湯殿山と刻まれた石碑が立っていた。
 
左手に回ると急峻な石段がある。
昔ながらの石段は狭く、長い間、人々に踏みしめられて凸凹としていた。
一段一段と踏みしめるに従い、空気も清涼となり、降り注ぐ陽光で汗が滲み始める。
 
そして上りきると、正面に小さなお堂が建っていた。
きっと湯殿山に上る人たちは、このお堂に参拝し身を清め、山道を上って行ったのであろう。
お堂で振鈴をし拝礼したあと、一昨日の雪で泥濘んだ登山道を右手へ歩く。
 
するとそこは大内宿を見晴らす絶好の場所であった。
茅葺き屋根の屋並みが遠く連なり、現代から江戸時代へタイムスリップしたかのようである。
家々の屋根は苔むし、時間が止まったかのようである。
 
その家並にまっすぐと赤土の街道が伸び、色とりどりの人の影が、日足長く路上に映っていた。
その彼方に新緑を待ちわびる山々が霞んでいた。
その景色は絵葉書から抜け出したような風情であった。
 
そしてお堂へ戻り石段を避け、隣にある迂回路を下り街道へ戻った。
相変わらず空は澄み渡り、燦々と陽光が大内宿に注いでいた。
街道沿いの食事処で、食事を終えた人達がのんびりと歓談している。
 
私たちも大内宿名物のネギ蕎麦を食べることにした。
昔ながらの民家をそのまま使った座敷で食事を待つ。
部屋には先祖の仏壇が飾られ、微かに開かれた障子戸から、街道の風景が眺められた。
やがて大きな漆椀に山菜たっぷりの蕎麦が運ばれ、その椀の上に、真っ白なネギが置かれていた。