三春の滝桜と会津鶴ヶ城を訪ねて
2013年4月22日

早朝の7時頃、目を覚まし窓外を眺めると、山襞の空は明るく広がっていた。
昨日の雪の荒天を思いだし、思わず笑みがこぼれる。
早速、朝風呂へ出かけ、湯上りにビールを飲み、そのあと朝食を済ませ、9時半にチェックアウトをした。
 
旅行前の予定では、今日はゆっくりと会津鶴ヶ城巡りであったのだが、昨日見れなかった三春の滝桜へ向かった。
磐梯熱海ICから磐越道へ乗り、20分ほど行くと、郡山東ICへ到着した。
さらに雪景色の山間の道を上り下りして行くと、滝桜の表示版が見える。
 
それは昨日忸怩たる思いで見たものと同じである。
さらに進み表示版に従い進むと、大きな駐車場があり、係員に誘導され車を駐車した。
それは巨大な駐車場で、すでに大きな観光バスが連なって停まっていた。
 
車を下り昨日の雪でぬかった駐車場から広場へ出ると、入場券売り場があった。
入場料金500円を自動販売機で購入し正門を入る。
すぐに地下道のトンネルがあり、通り抜けなだらかな上り道を行くと、広い上りの道が続く。
 
左手に広場があり、たくさんの売店や食事処がある。
さらに進むと左右に民家が建ち、やがて遠くに滝桜が見えた。
滝桜へ向かう狭い上り傾斜の道は、人並みが連なっていた。
 
盛りは過ぎたと言いながら、この見物客の多いことに仰天する。
満開ならばどれほどの人出なのであろうか?
たった一本の桜の老樹が、全国から見物客を引き寄せるのである。
 
なだらかな小高い丘に、滝桜が薄紅に枝垂れている。
遠目にもその老樹の威容が見て取れる。
昨日の雪は残り、昼に近い陽光に燦きながら、丘の中腹に左右前後に枝を広げる。
その豪奢なさまは、確かに滝のようである。
 
滝桜へ続くくねった狭い回遊路を上り行くと、正面に滝桜が堂々と鎮座している。
すでに盛りを過ぎ、3割ほどの花が散り落ちていた。
きっと昨日は雪と桜の幻想風景が繰り広げられたであろう。
  
だがあの雪の深さでは、この地に辿りつけたのは、僅かな人たちであったであろう。
樹齢1000年を越す老樹は、福島の厳しい冬を寡黙に耐え、雪解けて自然が息吹く頃、薄紅の花を絢爛と咲かせ春を告げる。
樹高12メートルにして根回りは11メートル。
幹周り9.5メートルで枝張りは東西22メートル、南北18メートルの紅枝垂桜の老樹が鎮座する。
大地に逞しく根を張り、重層な年輪を幹の中に描き、老木の樹は鎧のように盛り上がっている。
残雪を背景に碧空をいただき、降り注ぐ陽光に照らされるその姿は、神秘的で荘厳でさえある。
滝桜の花びらが微風に舞い落ちるその下で、老若男女が記念撮影をしていた。
 
滝桜を廻る遊歩道を左方向へ周り、緩やかに上り進と、小高い丘へ続く階段に出た。
見上げると丘の上も桜の花が陽光に煌めいていた。
大勢の人が上る後につきながら進むと頂上に着いた。
丘の上は広場になり桜の満開の下、遠く眺めると彼方に町並みが霞む。
昨日の雪の猛威が嘘のように麗らかな、春の長閑な風景が広がっていた。
そよぐ風に春が香るようで爽やかである。
 
そして来た道を下る時、眼下に滝桜が映り、彼方に雪が煌めいていた。
江戸後期の歌人にして国学者の加茂季鷹([1754〜1841)の歌にも詠まれ、その存在が世に知れ渡った滝桜。
やがて1922年(大正11年)には、国の天然記念物に指定され、桜の名所番付では無比1番の人気を誇る。
 
三春藩主の御用木として保護されながら、1000年超にわたり三春の春に光彩を放つ。
例年なら4月の末が満開なのだが、今年の異常気象ですでに盛りは過ぎている。
だがその情報を知りながらも、全国から滝桜を愛でに、この地へ出かけてくる。
 
桜の老樹には1000年を生き延びてきた強い生命力が宿る。
そして歴史の激しい波濤を乗り越え、世界が変転する目撃者でもある。
全て森羅万象の摂理の中で、生き続けてきた老樹には神霊が籠っている。
 
その樹霊に出会うことはまさに、1000年の歴史に触れることにもなる。
それが目に見えない魅力となり、人々を呼び寄せ人々に樹霊を注ぐのであろう。
東日本大震災にも耐え、小枝が折れた程度の軽微な損傷で済んだのは幸運であった。
 
陽光は益々光を増し、滝桜の薄紅が碧空を雅に染めていた。
訪れる人はさらに増し賑わいを見せていた。
滝桜の回遊路を下りながら周り下り、帰路を辿ることにした。

時間はすでに正午近く、路傍に咲く水仙の花の白が眩い。
買い物広場を見物しながら駐車場に着くと、観光バスがずらりと並び、次々と滝桜へ向かって行った。
そして次なる目的地、会津若松の鶴ヶ城へ向かった。
 
長閑な三春の町を、国道288号線で進む。
春が三つの名前が示すように、街道沿いにはたくさんの桜が咲き匂っている。
春の微風にそよぎながら、至るところに咲き乱れている。
 
まさに名前のごとく春が幾つも折り重なっているようである。
やがて船引三春ICに着、磐越道を会津若松ICへ向かった。
昨日の雪が信じられないほどに快晴で、空は蒼く澄み渡っていた。
 
本来の計画では県道9号で猪苗代湖沿いを旅する予定であった。
だが昨日の雪で予定は大幅に変更し、会津若松まで高速で直行し、猪苗代湖は幻に終わった。
やがて正面に雪を頂いた会津磐梯山が、雄壮な景色を見せる。
 
進むに従い会津磐梯山は、右手に移動し裾野も長く広がってゆく。
雪化粧をした会津磐梯山を眺められるとは、この時期には幸運と言えるのであろう。
会津磐梯山が遠くに霞み消える頃、猪苗代磐梯高原ICが見える。

さらに快適に疾走すると、山稜が雪に輝き、山々に包まれた会津若松の市街地が彼方に広がる。
そして市街地が近づき会津若松ICに到着。
インターを降りて国道49号から県道648号をしばらく進と、会津若松の市街地に出た。
さすがに市街地は交通量も多く、鶴ヶ城へ行く道は渋滞していた。
そして12時半頃、白に近い市営の駐車場へ駐車した。
駐車場から出て道路を渡ると、正面に内堀がある。

その堀に古風な橋が架かり、渡りきると苔むした石垣が迎えてくれた。
遠くには薄紅に咲く桜が咲き、陽光を浴びて眩い。
高い石垣を抜けるとさらに深い堀があり、堀の水の深緑と薄紅の桜が風光を演出していた。
堀端の桜の老樹の樹影が、地面に伸びる道を進み、朱塗りの廊下橋を渡る。
巨大な石を組み上げた石垣に囲まれた道を進むと広場に出た。
その前方に鶴ヶ城の本丸が聳えていた。
その城は寛永年間に築城されたものを、昭和40年に復元されたものである。
新政府軍と会津藩との熾烈な会津戦争後、新政府軍が圧倒的な勝利に終わった。
その後明治政府が成立し、鶴ヶ城は廃城となり取り壊された。
奇跡的に損壊をまぬがれた歴史的な建造物を、いとも簡単に消滅させる為政者の歴史観と美意識の欠乏は悲惨である。
やがては神仏習合の世界を破棄し、廃仏毀釈へ向かい、仏教は悲惨な状況を余儀なくされた。
欧化思想に妄執した明治維新は、日本の伝統的な工芸品や美術品などを、無価値なものとして葬ったのである。

今では蒲生氏郷の幼名と蒲生家の家紋にちなんで名付けられた鶴ヶ城の遺構は、苔むした石垣だけである。
本丸へ向かう途中に、かつての会津藩の武士の装束姿の人が、所々に立っていた。
そして鶴ヶ城への入場券を400円で購入し、階段を上り城の中へ入った。
石垣に囲まれた狭い入口を入ると、中は薄暗く冷やりと霊気が漂う。
そこは塩蔵の石室であり、昔ながらの石組みの遺構を示す部屋であった。
この部屋が戊辰戦争の時、新政府軍の猛攻に屈することなく、篭城することの出来た食料庫であったのであろう。
階段を上がると1層に出た。
そこは明るく広い部屋で、歴代領主や武将の兜や鎧が展示してあった。
さらに上ると窓から遠くに、新緑に萌え始める山々が眺められた。
甍越しに見える広場には桜が咲き、昼下がりの陽光に木々が、日脚を伸ばしていた。
階を上るに従い眺望がさらに開ける頃、俄かに空に暗雲が漂い、小雨が降り始めた。
昨日の雪で今度は生憎の雨かと思ったのも束の間、雨は上がり陽光が空に輝く。
そして3層や4層の展示を眺めながら進み、天守閣の最上階を目指して階段を上がる。
階段から吹き抜けを見下ろすと、目が眩むほどに下まで見通すことが出来た。
やがて最上階へ到達した。
袴姿に藩紋入りの陣笠を被った案内係の人が、にこやかに迎えてくれた。
 
遠く見晴らせば山肌に雪を残す山々に囲まれた、会津の市街地が広がっていた。
天守閣は360度のパノラマとなり、会津の風景を明媚に映し出していた。
桜の季節、鶴ヶ城を訪れる人たちが、次々と切れ目なく天守閣を上ってくる。

 
欄干に手を置き遠く望むと、遠く彼方より爽やかに微風が吹き流れて来る。
そして春を告げる陽光が、爽やかに光を降り注いでいた。
昨日の雪は今幻のように記憶の彼方へ消えていった。
 
そして階段を下り降り、1階の土産物売り場を通り過ぎ、城外へ出た。
するとまた空は暗くなり微かに空に陽を残しながら、小糠の雨のように降り落ちてきた。
会津の気候の七変化であろうか、しばらくすると雨は上がり、空には青空が広がった。
 
鶴ヶ城を見上げると、純白の鶴が舞うように、優雅な姿を青空に映していた。
明治7年に石垣以外の全てを破壊され、昭和40年9月に蘇った城は今も会津若松の象徴である。
そして鶴ヶ城を後にして、今日投宿する東山温泉へ向かった。

 
10分ほど進むと湯川沿いに立ち並ぶ、東山温泉郷へ到着した。
かつて松平23万石の城下町であった、会津若松の奥座敷とうたわれた温泉郷。
辿ること1300年の昔、8世紀後半の天平年間に、名僧行基により開湯されたと伝えられている。


かつては豊臣秀吉に遡り、新選組副組長・土方歳三が戦勝を癒し、一時の安らぎをおぼえ、与謝野晶子や竹下夢二などの文人墨客に愛された湯の町。
江戸藩政の時代は「天寧寺の湯」と呼ばれ、山形県の上山温泉や湯野浜温泉とともに奥羽三楽郷の一つに数えられた縁あふれる温泉郷であった。
フロントでチェックインを済まし、6階の部屋へ入る。


そして一休みをしたあと、早速10階にある露天風呂へ出かけた。
風呂は広く透き通った湯に身体を滑り込ませると、湯は優しく身体を包んでくれた。
さららさらと癖のない硫酸塩泉の湯味は、旅の疲れを癒してくれた。

遠く望めば若緑に萌え始める山々が、日陰と日向の斑模様を描き、その山々に包まれるように会津若松の市街が霞んでいた。
夕暮れになれば夕映が空を紅に染め、やがて街明かりが灯り、市街地は燦然と煌くのであろう。
そして会津若松の夜景を眺めながら、会津の山の幸と地酒を愉しみながら、ほろ酔いの一日が終わる。