春麗らかな三河、豊川稲荷(円福山 豊川閣 妙厳寺)を訪ねて
2013年2月22日

早朝、奥浜名湖畔に建つホテルの露天風呂へ出かけた。
4階から1階へエレベータで降りると大浴場と露天風呂がある。
露天風呂にはすでに先客が一人いた。

露天風呂に入り湖上を見渡すと、低い山稜の彼方に朝日が上り、薄紫の空を黄金色に明け染め始めていた。
日が昇るのは早い。
やがて空を金彩に染め上げ、漣もない湖上に黄金に輝く一条の光の道を描きあげていた。

さらに空は紺碧に変わり、白雲が陽光に照り返されていた。
今日も快晴に恵まれた。
8時半頃に朝食を済ませ、10時にチェックアウトをし、豊川稲荷へ向かった。

奥浜名湖の猪鼻湖に架かる朱色の瀬戸橋を渡る。
国道151号を進と豊橋や豊川が道路表示版に現れる。
やがて浜松市に別れを告げ愛知県に入り、ほどなくして豊川市へ到着した。

豊川稲荷の有料の駐車場へ車を着けた時は、11時過ぎであった。
空は青く澄み渡りどこまでも高い。
広い駐車場には車はまばらであった。
 
駐車場から見渡すと、緑の木陰に豊川稲荷の社殿の甍が陽に輝いていた。
そして豊川稲荷の石塀に沿って歩き、交差点を左に曲がると、明治17年に改築された総門前に出た。
銅板コケラ葺きの屋根と総欅造りの門は、素朴な佇まいで長い日脚を石畳に刻んでいた。

門を潜ると広い境内に出た。
右手遠くに小さなお堂が、木々の木漏れ日を浴びていた。
さらに広い石畳の参道を左に進むと、彼方に大きな石の鳥居が聳える。
 
その鳥居を守るように、朱色の前掛けを首に掛けた狐が、左右に控えていた。
真っ青に晴れ上がり、浜松とはうって変わって生暖かい微風がそよぐ。
鳥居の彼方、豊川稲荷の本殿が、雄壮な姿を現した。
 
その手前には豊川叱枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)と書かれた幟旗が翻る。
正午間近の強い陽光に照り返された、石畳の参道を真っ直ぐに進む。
正面の本殿の威容が、晴れ渡る碧空にくっきりと浮き上がっている。
 
参道脇には露店も出て、お土産を売っていた。
参道横には大きな高石灯籠が、陽光に照らされ日陰となり、陰影を深くしていた。
参道を進むと右手の境内奥に、祈祷を受け付ける立願書が見える。
その手前右手に鐘楼があり、青銅の釣鐘が重たげに吊り下がっていた。
 
参道を右へ逸れると風雪を感じさせる古風な山門があった。
それは天文年間に今川義元公が寄進した、豊川稲荷最古の建造物であった。
長い歳月を経た建物は、木肌に木目を深く浮き上がらせていた。
  
そして山門の左右には逞しい阿吽の仁王像が、目を剥いて聖なる参内を鎮護していた。
山門を潜ると正面奥に、法堂が簡素な佇まいで控えていた。
瓦葺二重屋根の十一間四面の法堂は、天保年間に再建されたものであった。
降り注ぐ陽光を浴びながら、のんびりと歩き進み、法堂へお賽銭を添えて参拝をした。
そして先ほど参道から望み見た本堂へ続く参道へ戻り、陽光に照り返された石畳を歩き本殿へ向かった。
進むに従い社殿の威風が堂々と迫り来る。
第二の石鳥居を潜ると石橋が架かり、この橋が結界となり渡ると聖域に入ることを記すのであろう。
渡りきるとお線香を燻らせた大きな香炉があり、身体を清め進むとなだらかな上り坂になっていた。
正面に本殿が雲一つない碧空に聳えていた。
 
明治41年に起工され昭和5年に完成された、総欅造妻入二重屋根の御祈祷根本道場は、高さ30メートルを誇る。
その本殿の前にも、朱色の前掛けをした優しい面立ちの狐が、左右に鎮座していた。
石段を上るとそこは本殿、天井から朱色地に黒の墨痕も鮮やかな、巨大な提灯が下がっていた。
そこには豊川稲荷を信奉し大提灯を寄進した、熱心なお講の名が書き込まれていた。
本殿の天井は高く、支える柱は木肌を浮き出し、黒褐色の漆色に輝いていた。
本殿の中には大勢のご祈祷を上げてもらう参拝者が座っていた。
 
そして朗々と僧侶の読経が聞こえる。
ここは神社ではなくお寺であることを改めて実感した・
参拝を済まし三方向拝構造の本殿の右手に歩を進める。
 
すると本殿の祈祷所の前の板の間が、静謐を湛え厳かに輝いていた。
その板の間の向こうには、春を待つ木々の緑が、陽光を浴びて照り輝いていた。
本殿の黒と緑の対照が、美しい絵となって目の前に広がり目映かった。

そして本殿へ続く渡り廊下の下を潜り、千本幟へ向かった。
しばらく進むと森閑とした木立に包まれた小径が続き、その両脇に豊川叱枳尼眞天と書き染められた幟が微風にそよいでいた。
小径は交差しどの路も幟で埋め尽くされていた。
 
叱枳尼眞天は境内の鎮守として祀られて、インドの古代民間信仰に由来する女神であると言う。
日本へ伝来し、稲荷信仰と融合し稲荷信仰となった。
やがて五穀豊穣はもちろん、商売繁盛の神様となり、人々の篤い信仰を集めることになった。

木漏れ日が小径にこぼれる静寂の中、さらに進むと禅堂が正面に姿を現した。
その佇まいは質朴で清楚であった。
お堂の中には豊臣秀吉公の念持仏と伝えられる、不動明王と文殊菩薩の像が奉祀されている。 

さらに逍遙すると森閑とした木立に包まれ、幾つもの堂宇が並び立っていた。
その中に大黒天堂があり、大黒様の石像がにこやかな笑顔で、打出の小槌を振り上げていた。
突き出された太鼓腹は削り取られた無数の跡が残り、福徳開運と繁盛の験を担いだ人たちが その欠片をお守りにしているのであろう。

そして千本幟のはためく小路を進むと、正面に霊狐塚が姿を現した。
正面に鳥居があり小さな祠があった。
その左右に朱色の前垂れを掛けた狐が鎮座し、その奥に信者たちが献納した、数え切れないほどの小さな狐たちが見える。
その狐の石像の数は1000体を超えるらしい。
 
みな一様に朱色の前垂れをして、木漏れ日の中、緩やかな傾斜の岩場から、こちらの方へ向いている。
深い木立に包まれた静謐な空間には、異界の気が流れているようであった。
古来、狐は山と里を自由に行き来することのできる聖獣である。
 
山の神と里の神の仲を取り持ち、山の文化と里の文化を融合する役目を果たした。
正午間近の降り注ぐ陽光は木漏れ日となり、狐たちを濃い班模様に照らしていた。
あるものは日陰となり、あるものは日脚を伸ばし、あるものは強い陽光に照り返されていた。
 
狐塚から先程の小路を戻ると、左手に文化11年(1814年)建立された奥の院拝殿が見える。
拝殿の甍には木漏れ日が降り注ぎ、陰影を深くしていた。
その姿は優美で情趣に溢れていた。
拝殿の軒端、棟組の下や梁には、様々な彫刻が施されていた。
それは名匠と謳われた、諏訪ノ和四郎の傑作と伝わっている。
拝殿の両脇には朱色に黒で書き染められた、豊川叱枳尼眞天の文字が浮き上がる、長細い提灯が飾られていた。
お参りを済まし小路を進むと、安政5年(1858年)に創建された、小さな山門の景雲閣があり、潜り進むと本殿へ続く渡り廊下の下に出た。
廊下の下の彼方遠くに、緑あふれる庭園が陽光に輝いていた。
日影の渡り廊下の下はひんやりと冷気が漂い、潜り抜けると強い陽光が降り注ぎ、光が生み出す陰と陽の変化も楽しかった。
すると右手に池があり泉水は碧色の鏡のように輝いていた。
その泉水を囲む灰白色の岩に、大きな亀が日光浴をしていた。
長く黒い首を甲羅から出し、目を瞑り強い日差しを正面に受けながら、岩に両手をしっかりと置き微動だにしない。
 
その泉水の反対側には石橋が架かり、その彼方に江戸時代初期に作庭された、築山泉水の妙厳寺庭園が望めた。
その広さは約300坪で三笠山や空滝を配置し、池には鯉や亀が優雅に泳いでいるようである。
築山には四季折々に咲き匂う花々が、訪れる参詣者を愉しませてくれている。
 
そして初春の暖かな陽光を浴びながら、約1時間半ほどの逍遙散策を終えて総門の前に出た。
総門の深い影が石畳に落ち、総門の彼方に表参道の屋並みが、色鮮やかコントラストなって望めた。
日は高く空は碧く広がり風は柔らかく、総門を潜り表参道を散策することにした。

日本三大稲荷の一つである豊川稲荷の門前町も、人々の信仰心やライフスタイルの変化により、年々衰退が余儀なくされた。
(日本三大稲荷:笠間稲荷神社(茨城県)、伏見稲荷神社、祐徳稲荷神社という説と
豊川稲荷神社(愛知県)、伏見稲荷神社(京都府)、祐徳稲荷神社(佐賀県)という説だ
)
平成3年には530億3,000万円であった年間販売額も、平成11年には290億6,600万円と半減した。
そして店舗数も482店から336店になり、商店街は危機感を抱き、商店街の若き経営者たちは立ち上がった。

自分たちの手でお金をかけない街の再生計画を策定した。
「できることからはじめるまちづくり」を掲げ、平成14年10月には商店街の若手商店主による、「いなり楽市実行委員会」を発足させた。
そして古い建物の屋並が醸し出す、古き良きレトロな懐かしさを前面に掲げ、様々な趣向を演出した。

「レトロな商店街」「なつかし青春商店街」をテーマに、その地道で自主的な若き商店主の活動により、
今では街は活性化しかつての賑わいを復活しつつあるという。
平成17年には「表参道発展会(いなり楽市実行委員会)」の取り組みが、経済産業省の「がんばる商店街77選」に選定された。

麗らかに降り注ぐ陽光を浴びながら参道を歩くと、お店の人の元気な呼び声が心地よく響く。
にこやかな笑顔を湛えながら、愉しそうに道行く人を誘う。
さすがに稲荷神社の参道、いなり寿司を売る店も多い。

そして街角や看板の上や店先に、黄色も鮮やかな狐の人形や置物が見える。
豊川稲荷は江戸や名古屋とともに、いなり寿司の発祥の地の一つ。
19世紀の初頭の頃、お稲荷にお供えした油揚げの中に、ご飯を詰めてお寿司にしたのが起源とも言われている。
私たちも総門前の喜楽で、いなり寿司をお土産に買った。