湯の里信州鹿教湯温泉を訪ねて 2012年07月22日 (鹿教湯温泉は環境庁指定・国民保養温泉地で、「健康の郷」として知られる) 〒386-0323 長野県上田市小県郡丸子町鹿教湯温泉 昨日の夕刻から、信州上田市の奥座敷、鹿教湯温泉は雨が降り出し、深夜には激しい雨脚に変わる。 純米生吟醸酒「夜明け前」を飲みながら、ホテルに沿うように流れる川音を聞く。 夕刻前までは、瀬音も優しかったが、今は激しい早瀬の響き。 窓外には寂しげに街灯が灯る。 深夜近く、道を通る車もなく、旅館やホテルの灯も落ち、激しい流水の音以外は何も聞えない。 それでも滅多に聞くことのない水量溢れる瀬音が、旅の旅情を愉しませてくれた。 そして翌早朝、目を覚まし窓外を望むと、しとしとと雨が降っていた。 遠くの小高い山の峰々には靄がかかり朦朧と煙り、一幅の山水画のような風情を湛えている。 早速、早朝の露天風呂を愉しむことにした。 広い露天風呂には、すでに2人の先客が気持ちよさそうに湯に浸かっていた。 身体を軽く洗い湯の中へ。 清澄な湯は無色無味無臭の優しい湯である。 信州の湯にしては熱くなく、程良い湯加減だ。 湯は真綿のように、マシュマロのような感触の柔らかさ。 弱アルカリ性単純温泉は、すべすべと絹のような滑らかな肌触りである。 何時の頃のことか、猟師が撃ち損ねて傷ついた鹿を追い求めて行くと、背中に矢が刺さる鹿が、湯に浸かっているのを発見した。 だがその時鹿は消え、文殊菩薩が現れ、信仰深い猟師に、この湯の素晴らしさを、人々に教えるように告げて消える。 それ以来、この湯の霊験が人々に伝わり、人々の健康に資するようになったと、開湯伝説は今に伝える。 鹿が教えた温泉、鹿教湯温泉は、信濃川水系・内村川沿いに、30軒の旅館やホテルが建ち並ぶ温泉郷を形成する。 音もなく降る雨が落ち、湯面に微かに湯紋が広がる。 だが先ほどに比べると、雨脚は弱くなり、空を覆う厚い灰黒色の雨雲が、薄く切れながに広がり始めていた。 天気予報では、曇りから晴れと出ている。 初夏の緑は雨に濡れ、新緑をさらに鮮やかにしていた。 風呂を浴び、そして朝食を済まし、チェックアウトをした頃、夏の強い日射しが降り落ちていた。 ホテルを後に、鹿教湯温泉観光センターへ移動し、無料の駐車場へ車を置いた。 狭い通りに寄り添うように、旅館やホテルが建ち並ぶ。 すでにチェックアウトを済まし、人影のない玄関の敷石に、大きな犬が寝転びながらこちらを見ている。 その顔は人懐こく優しさを湛えていた。 通りに面する道々には、今を盛りに紫陽花の淡紫が、昼近くの陽光に輝いていた。 さらに趣のある湯端通 りを進み行くと、その先に内村川の瀬音が聞える。 そして内村川が眼下に見え、橋に架かる五台橋が緑に包まれていた。 湯坂を折れ曲がると、そこは旧源泉地、清楚に白い共同浴場・文殊の湯(大湯)が建っていた。 5つの源泉を混ぜ合わせた湯は優しく、神経痛やリュウマチなどに効能もあり、肌に優しい癒しの湯と言われる。 またの機会があるならば、ぜひとも訪れたいと思った。 湯坂をさらに少し下ると、木造屋根付きの五台橋に着いた。 橋は思いのほか質素で素朴な佇まいであった。 橋には内村川の初夏をスケッチする初老の男性がいた。 天井の梁を望むと、様々な千社札が貼られていた。 橋から眼下の内村川を眺めると、夜来の激しい雨の所為であろうか、水量は多く急流となっていた。 その川水は奔流となり、川色は濁り褐色であった。 普段ならば、きっとこの川水は清流となり、夏日にきらきらと輝き、たくさんの魚影を映しているであろう。 この橋は彼岸と此岸とを結ぶ懸け橋。 汚濁に満ちたこの世から、神の住む聖域への結界となる。 清らかな気持ちを新たに橋を渡り、文殊堂へ向かった。 橋を渡り切ると、緑深く深遠な空気が漂う。 川沿いに散策道が続き、右手には若葉生い茂る小高い丘が広がる。 見上げると、彼方に五台橋とよく似た木橋が見える。 その橋の下を流れる渓流が、柔らかな水煙を散らしながら岩礁を流れ落ちる。 そして眼前で小さな滝になり、水飛沫が正午の降り注ぐ陽光に煌めいていた。 更に狭い散策道を進むと、文殊堂の参道となる46段の急峻な石段が見える。 だが石段を避け、木立に包まれた、なだらかな上りの迂回路を進む。 道を上り切ると広場に出た。 正面の東屋の中に、雄鹿の銅像が石の台座に鎮座していた。 開湯伝説に因む雄鹿の像が、広場に趣きを添えていた。 その石の台座から、一筋の水が糸を引いて流れ落ちていた。 台座に置かれた柄杓で掬い口に含む。 それは温泉であり、ほのかに硫黄の匂いを感ずることが出来る。 柔らかく円やかで清澄な湯を飲みこむと、身体の細胞が膨らむようであった。 東屋の中から望むと、新緑の木立を映しだし、森厳な森の静寂を描き出していた。 東屋から左手を見ると、歴史を刻む文殊堂が建っていた。 朱色も褪せた元禄年間(1688〜1704)に建立された入母屋造りのお堂は質朴とし、江戸時代中期の面影を伝えていた。 鰐口を鳴らし階段を上り、お賽銭を添えて黙礼をする。 さらに靴を脱ぎ、木目が浮き出た階段を上がり、本堂を正面に見る。 本堂の中には奈良時代の僧・行基(668年ー749年)が彫ったと伝わる、日本三大文殊の1つ、文殊菩薩像が安置されている。 それは1300近い頃のこと、聖武天皇の命により、行基はこの地を訪れ、風光明媚な自然に感動した。 そして奈良に帰った行基は、3体の文殊菩薩を彫り上げ、その1つを弟子の円行へ託し、この地に安置したものであった。 お堂の前の天井を見上げると、江戸の南画家・谷文晁(1763‐1840)作と伝わる巨大な茶褐色の龍が、睥睨していた。 長い間、厳しい風月に晒され、かなり色が剥落し傷みも随所に見える。 だがその様は躍動的であり、夜の帳も落ち静寂に満ちた深夜、天井を抜けだし、川へ水を飲みに出没したという伝説も首肯できる。 長くくねる胴体に無数の鱗が躍り、逞しい足の先に鋭い爪が光る。 見る者を威圧するその迫力に感動しながら見上げれば、龍の顔には愛嬌も漂う。 お堂の脇には、赤地に白が浮き出た模様の涎かけをした、おびんずる様のような像が座布団に座っていた。 階段を下りて薬師堂へ向かう。 振り返り見ると、境内は強い日射しで反射し、素朴な文殊堂の陰翳を深くしていた。 程なくすると先ほど下から仰ぎ見た、屋根付きの橋へ出る。 眼下を見下ろすと、新緑に包まれながら清流が流れ落ち、彼方に五台橋も見える。 橋に置かれた木製の長椅子には、2人の熟年の女性が休み、清涼な空気を愉しんでいた。 月曜の正午頃、人影もなく辺りには、森厳な空気が満ちている。 木々の間から洩れる日が、眼下の木々の緑に輝きを与えていた。 橋を渡ると薬師堂の手前に、たくさんのお地蔵さんが、山肌に沿うように建っていた。 その前を通り過ぎると、寄棟茅葺の薬師堂の前へ出た。 お堂の中には薬師如来と両脇を護る仁王さまが安置され、人々の病平癒と無病息災を願っている。 飾り気のない古色蒼然としたお堂の屋根は苔むし、草が屋根に生え、降り落ちる陽光に緑を鮮やかにしていた。 古錆びて素朴な佇まいが、遥か昔日の思いを伝えてくれる。 人々は数え切れないほどの歳月、このお堂へお参りし、様々なことを祈ったことであろう。 お堂にお参りを済まし、先ほど渡った橋を渡り、文殊堂の境内へ出る。 そして夫婦杉に守られた46段の急峻な階段を下りた・ 下から見上げたよりも、勾配はさらに大きく見える。 階段の先に緑に包まれた五台橋が見える。 先ほど居た絵描きさんは、相変わらず椅子に座り、渓谷の景色を画帳に写している。 階段を下りきり五台橋へ出る。 内村川は相変わらず褐色に濁り、奔流となり、川瀬が陽光に眩く耀いている。 橋を渡り湯坂を上り、湯端通りを歩く。 すると通りのマンフォールに目がとまる。 美しく化粧されたマンフォールの真ん中に、鹿の家族が仲良く温泉に浸かっている。 ここは鹿教湯温泉、マンフォールにも鹿がデザインされていた。 そして駐車場に12時頃に到着した。 正午の陽光は益々強く降り注ぐ。 車に乗り、神秘と伝統の里・鹿教湯温泉に別れを告げ、254号を下り佐久方面へ向かう。 そして鹿教湯温泉の大きな看板が、青空と新緑を背景にして、私たちを見送ってくれた。 |