2012.4.22(日)-23(月)
三重県二見浦から伊勢神宮を訪ねて

4月22日(日)の早朝の7時頃、秩父の親戚と上尾に住む親戚とが、我が家へ迎えに来てくれた。
そして車に荷物を持って乗り込む。
私たちを含めて3組の親戚夫婦で、伊勢志摩へ向かう。

首都高から東名高速に乗り、ひたすら早朝の高速道を南下する。
東京を発ち1時間半位たった頃、右手にくっきりと、雪をいただいた富士山が、朝日に輝いていた。
何時見ても冠雪した富士山は、秀麗にして神々しい。

5月も近い今日、さすがに裾野は灰黒色に晒されている。
何時もは運転手のママ、心置きなく富士山の威容を愉しんでいる。
空には青空が広がり、雲海が陽光を浴びて眩しい。

やがて御殿場が近づき、開通して間もない新東名へ進む。
道は広く起伏も少なく、真っすぐに伸びる。
新東名は予想に反して空いていた。

沼津を越し、静岡を通過して、浜名湖へ出る。
とにかく静岡は横に広い。
東京から沼津の距離と、同じくらいの距離が、沼津から浜松まである。

そして三ヶ日から、東名へ合流する。
やがて愛知県に入り、豊川稲荷を通過し、豊橋を過ぎると、名古屋も目前に迫った。
そして豊田ジャンクションから、伊勢湾岸道路を突き進む。

左手には伊勢湾が広がり、ナガシマスパーランドをみながら、果てしなく続く、緩やかにカーブする湾岸道を進む。
すると左手や右手に、薄墨色の煙を吐く、工場群が姿を現す。
そこは巨大工業都市の四日市であった。

四日市には、明日合流する予定の、親戚一家が住んでいる。
みえ川越インターで東名高速を降り、四日市の市街地を抜け、富田へ向かう。
富田には明日合流する親戚が住み、かつてはカフェレストランを、長い間開いていた。

やがて親戚の家の前を通過し、立ち寄らずに鳥羽へ向かった。
静岡辺りから、空には重い雲が垂れ込め始めた。
南下するに従い、空一面、鼠色に変わり、やがて雨が降り落ちて来た。

湾岸道を進む頃は、すでにフロントガラスへ、雨の礫が打ち始めた。
そして富田を通過する頃は、雨は本降りに変わっていた。
時間はすでに午後2時。

雨が降りさえしなければ、伊勢神宮の外宮だけでも、お参りが出来たのだが・・・・・・。
この遣らずの雨で、お参りもおはらい町やおかげ横丁の散策も、中止を余儀なくされた。
ながい車の旅、車を降りて、傘をさしながらのお参りは、さすがに難儀なことなので諦めた。

そして真っすぐ、伊勢湾を一望に見渡せる旅館へ、直行することにした。
東名阪高速道に乗り、途中、御在所サービスエリアで食事をし、二見浦へ向かった。
やがて1時間ほどで、二見浦へ到着した。

駐車場に車を停め、前方を眺めれば、洋々たる海が広がり、静かに凪いでいた。
宿は明治20年に創業の、純和風のホテルであった。
部屋数も28室で、全てバリアフリー。

全館は廊下に至るまで、すべて畳敷きであった。
宿泊する6階の部屋は広々として、全面の窓から望めば、二見浦の海が広がる。
降り続ける雨脚は、幾条の糸を引き流れ落ちてゆく。

空は暗い鼠色に垂れ込め、灰色混じりの碧色の海の水平線と溶け込んでいる。
沖から寄せ来る波は、海岸に近付くに従いうねり、波は高さを増して浜へ押し寄せ、白い泡沫となって消える。
二見浦の夫婦岩を眺望する、海に突き出した人工の突堤は、寄せ来る波に洗われている。
 
一休みした後、一日の汗を流しに大浴場へゆく。
まだ時間が早く、ほとんど人影もなかった。
身体を洗い剃刀で髭を剃り、大浴場へ入り、そして露天風呂へ。

大きな酒樽を輪切りにした様な、木製の露天風呂から、雨に煙る伊勢湾を望む。
お湯を頭から浴びると、木の香りが優しく漂う。
今日一日、無事に来れたことに感謝しつつ、旅の心地よい疲れを癒した。

翌日早朝の7時に目が醒める。
昨日の食事とお酒が程良く、ぐっすりと熟睡した所為か、目覚めが気持ちよい。
早速、風呂へ出かけた。

身体を洗い露天風呂へ入る。
木桶の風呂は少し温めの湯で、身体に馴染む。
足を伸ばし外を望めば、昨日以上に強い雨が降っていた。
 
一面に広がる海は暗く、空は墨を滲ませたような色で覆れていた。
露天風呂を覆う屋根は、雨が数千騎馬の蹄のような音を響かせている。
それは途絶えることなく激しく落ちる、礫のようでもある。

天気予想の通り、今日も1日、雨模様のようだ。
食事を9時頃までに済まし、10時前に宿を出て、雨の中、二見浦の神社へ向かった。
宿から見えた大鳥居を潜り、沖合から吹き寄せる、雨交じりの風を受けながら進むと、右手に夫婦岩が見える。
 
宿から歩いて、5分程の所に、猿田彦大神と宇迦御魂大神(うかのみたまのかみ)を祭神とする興玉神社はあった。
晴れているならば、雲海は陽光に輝き、空は蒼く澄み渡る。
果てしなく広がる海は、碧を帯びた群青色に、染まっているであろう。

夫婦岩を襲う波は千路に飛び散り、朝の陽光に輝き、白い霧となって消える。
ところが今は雨に煙り、強い波に洗われ、夫婦岩は寒々とした光景を晒していた。
夏至の季節の晴天ならば、この夫婦岩に掛けられた注連縄の上に、ご来光さえ拝められると言われる。
 
風は時折強く、雨も横殴りに吹き付ける。
神社にお参りする前に手水舎で、柄杓で水を掬い、左右の手を灌ぎ口を漱ぐ。
前を見れば大石に囲まれた水場があり、そこには大小の蛙が鎮座していた。
 
立て札を見れば、その蛙に水を掛け願を掛けると、願いが叶い満願すると書かれていた。
そして二見興玉神社に参拝をする。
参拝の後、神社の横にある、夫婦岩への散策道を、傘を差しながら進むと、薄暗い海に夫婦岩が浮かぶ。
 
すると突然、関西なまりの年配の女性に、声を掛けられた。
その表情は異様に真剣な眼差しだったので、一瞬、驚いた。
「どちらから来たのですか?」
「東京からですが・・・・・・」
「カメラの電池が無くなり困っています。この子、モンゴルから来てます。写真を撮って下さい!」
 
その言葉は私に縋るように、哀願するようであった。
私は即座に了承し、雨に煙る夫婦岩を背景にして、2人の記念写真を撮ってあげた。
すると女性はメモ帳に、住所を書いて私に手渡す。
 
私は自分の名刺を、女性に渡して別れた。
その時モンゴルからやって来た若者の顔に、はにかみを含んだ純朴そうな笑顔を見た。
注連縄に結ばれた夫婦岩は、強い雨交じりの風に吹かれ、寄せ来る波に洗われ、寂寥感が漂っている。
 
遠くの海は暗く沈み、海の色と空の色が溶け合う。
更に奥に進むとお社が見える。
だが雨と風は強く、時折斜めに吹き付ける。
 
すでに先行く人影もなく、寂寞とした風情の中、来た道を戻ることにした。
すでに親戚の人たちの影は無く、歩を早めてゆくと、大鳥居の辺りで我々を待っていてくれた。
そして合流し、旅館に預けていた車に乗り、伊勢神宮の外宮へ向かった。
 
車で20分程で、伊勢神宮外宮に到着した。
時間は11時を少し回っていた。
広い駐車場には、ぎっしりと乗用車が停まり、大型バスもずらりと並んでいた。
 
そして大勢の参拝客が、外宮に向かって、大鳥居を潜る。
雨の平日だと言うのに、この人出に今更ながらに驚く。
人の流れに従い進むと堀川が流れ、火除橋(ひよけばし)を渡ると、第1の大鳥居が待ち構える。
 
鳥居を潜り、雨に濡れた参道の小石を、さくさくと微かな音を響かせながら進む。
そこには樹齢数百年の杉木立が、鬱蒼と繁っていた。
ここはすでに神域であり、橋を渡った時に、すでに結界していたのである。

手水舎で口と手を清め、さらに森厳な参道を進むと、社務所の灯りが橙色に漏れ零れる。
右に曲がり進むと、人だかりがあった。
4隅に木が地面に打ち込まれ、注連縄で囲まれている。
 
中を見ると薄翠色を帯びた大石が3つ、土の中から顔を出していた。
かつてこの地に宮川の支流が流れ、ここは今でも川原祓所(かわらのはらいしょ)と呼ばれている。
そして現在も遷宮の時、この場所で川原大祓が連綿と行われている。

するとボランティアガイドの人が、参拝客に傘もささず、雨に打たれながら、流暢に説明をし始めた。
その名は三ツ石と言い、手をかざし、手に磁力を感じる人は、霊感の強い人だと語った。
それはテレビでも特集され、その霊力は美輪明宏さんと江原啓之さんの、お墨付きだと力説していた。

私も手をかざすと、掌が温かくなり、若干の痺れを感じた様な気がした。
それは私の思いすごしかもしれないのだが、何か不思議な磁力が漲っているように思われた。
そしてその場を後に、来た道を戻り外宮に向かった。
 
先ほどの社務所の前を通り、さらに進むと、森は深く厳粛さを増す。
すると大きな石積みの階段が雨に打たれ、黒く鈍く光っていた。
その階段を背に、参拝客がそれぞれに記念写真を撮っていた。

段差の大きい階段を上りながら望むと、正面に大きな木組みの鳥居が見える。
上り切るとさほど広くない境内に出た。
境内には雨に濡れた玉砂利が敷かれ、歩くと微かな踏み音がする。

雨に濡れ光る若碧も美しい、苔むした萱葺屋根の拝殿で、参拝を済まし境内を歩く。
玉垣越しに中を覗くと、御正殿が厳かに雨に煙る。
今から1500年前の5世紀、第21代雄略天皇の御代22年、天照大御神の内宮御鎮座から、481年後に御正殿はこの地に建てられた。

或る日のこと、雄略天皇は天照大御神のお告げを夢の中で見る。
そして丹波の国よりこの地に、
豊受大御神(とようけのおおみかみ)を迎えられたと伝えられる。
その神の名前の「(うけ)」は食物を表し、豊受大御神は食物や穀物を司る神である。
天照大御神の召しあがる大御饌(食物)を司り、衣食住は勿論のこと、産業の守護神でもある。

唯一神明造りと呼ばれる建築様式の御正殿は、切り妻造り平入の萱葺屋根。
屋根の千木(ちぎ)は鼠色の空に貫き、屋根の棟に9本の鰹木が、等間隔で素朴に並んでいる。
勿論その神聖な聖域に人影は無く、棟持柱に両端を支えられた御正殿は、音も無く降る雨に煙りながら、気韻を響かせていた。

昨日からの雨は今だ止む気配もない。
雨の中を来た道を戻る。
深い木立が雨に濡れ、辺りの空気を柔らかな木香で包んでいる。

ミントのような清涼感と、シナモンのような匂いが、参道に漂い流れる。
参道には行き交う参拝客が、切れることなく続く。
やがて堀川にかかる、火除橋を渡り、駐車場に到着したのは、正午過ぎだった。

 
駐車場は相も変わらず車で溢れていた。
そして車に乗り込み、次の目的地の内宮へ向かった。
広い参道は一条となり、真っすぐに伸び、遥か彼方は雨に煙っている。
 
石畳の参道は雨が沁み込み、薄暗灰色の鈍い光を放っていた。
その参道を傘を差して進むと、無垢檜の木色も鮮やかな、高さ7.44mの大鳥居が立つ。
その大鳥居は式年遷宮の4年前に架け替えられ、外宮旧御正殿の棟持柱が使用されている。
 
さらに20年後の建て替え時には、桑名の「七里の渡し」の神宮遥拝の鳥居の用材となり、累計で60年のお勤めを果たす。

そのすぐ後ろに宇治橋が見え、左右の欄干の擬宝珠が、私たちを招いているようだった。
宇治橋を渡りながら五十鈴川を眺めれば、雨で増水した川水が、灰褐色の濁流となって逆巻いていた。
 
無情の春雨に咽ぶ五十鈴川の川幅は広がり、流れは川底の窪みで弾け、白泡が川面に揺れる。
雨さえ降らなければ、この川は清流となり、静かに緩やかに流れ下る。
長さ101.8m、巾8.42mの檜造りの宇治橋は、雨に濡れ、檜の光沢が眩しい。
  
雨降りにも関わらず、多くの参詣人が行き交う。
鈍く響く靴音を聴きながら、橋を渡り進むと、足裏に木の温もりが感じられ、檜の木香が仄かに匂いたつ。
この橋を渡ることで結界し、人は俗界を離れ、聖域に足を踏み入れる。
  
遠く川縁に目を移すと、岸辺の石の上に、1羽の白鷺が降りていた。
雨に濡れて黒光りした石の上に、白鷺の純白がひときわ浮き立つ。
そして宇治橋を渡り来ると、先ほどと同じ大きさの大鳥居が立っていた。
  
この大鳥居には、内宮旧御正殿で使用された、棟持柱が使われている。
そして20年後には鈴鹿峠「関の追分け」の神宮遥拝の鳥居となり、内宮旧御正殿から60年の使命を果たす。
宇治橋から振り帰り見れば、欄干の木肌が雨に濡れそぼち煌めく。
  
擬宝珠は翠色に輝き、遠く彼方に芽を吹く新緑の小高い山が、朦朧と煙りながら、美しい色調を映し出す。
橋を渡り切り大鳥居を潜り、右に折れ、広い参道を進む。
そして防火のために掘られた溝川に架けられた火除け橋を渡ると、 ここからは93ヘクタールの広大な神域となる。
 
すると右手に黒い岩で囲まれた手水舎があった。
そこで手と口を清め、第1の大鳥居を潜り歩き進むと、右側に御手洗場(みたらし)が姿を見せた。
見れば五十鈴川は濁流となり、流れは奔流となって、近づくことさえできない。
 
晴天であれば、川は清流となり、緩やかな流れに錦の鯉が泳ぐ。
古来から、神官や参詣者たちは、その清澄な川水で、心身ともに清める。
雨に濡れて鈍く光る石畳は、徳川綱吉将軍の生母・桂昌院が、元禄五年(1692)に寄進したと伝わる。
そして更に進み、左手方向に直角に曲がると鳥居があり、その向こうの靄の中に社務所が灯る。
深い木立に包まれた鳥居を潜り、社務所の前を左に折れて進むと、苔むした老木が参道へ迫り出していた。
進むに従い更に森は深くなり、深遠な森の匂いが漂う。
 
やがて参道には厳粛な空気が漲り、雨に柔らかく霞み、幽玄でさえあった。
小さな玉石が敷き詰められた参道を進むと、漸く 御正宮に辿り着いた。
30段以上の階段は雨に濡れ光沢を増し、森厳な空気が参詣する者の心を清めてくれる。
 
この階段から上は、全て写真撮影禁止とされ、参詣者がここで参拝記念の写真撮影をしていた。
ゆっくりと一段ずつかなり急峻な階段を上ると、生絹の御幌(みとばり)と呼ばれる御幕を垂らす、外玉垣南御門で参拝をする。
右手には厳めしくも凛々しい、正装の警護の人が、無表情で立っていた。

参拝を済まし玉垣の中を望めば、 御正宮が雨に濡れながら、厳粛に簡素だが秀麗な姿で立っていた。
先ほど訪れた外宮と同じく、唯一神明造りと呼ばれる建築様式
屋根は切り妻造りの平入の萱葺き破風板の先端は屋根をつらぬく千木(ちぎ)となっている。
 
だがこの千木の先は、外宮の大地と直角の外削ぎに対し、内宮では大地と平行な内削ぎになっている。
そして棟の上に連なる鰹木も、外宮の9に対して10本である。
素朴な素木のままの棟持柱は、大地から湧きたつように凜然として立っていた。

まさにこの内宮が日本神道の核となり、日本の神社8万社を総括する皇大神宮(こうたいじんぐう)である。
「日本書紀」や「古事記」に基づけば、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を、この地に祀って約2000年の時が降る。
参拝を済まし、指定された帰路の階段を下りると、右手に白いシートを被った建物がある。
 
それは、統天皇4年の690年の古来より、20年毎に繰り返される式年遷宮の内宮であった。
来年の2013年に、「第62回正遷宮(神体の渡御)」の新宮への遷御が完了する。
雨はあいも変わらずそぼ降り続ける。
 
だが木の間より顔を出す空には、幾分明るさを増し始めた。
広い参道に迫る古木の苔が雨に光り、緑を濃くしていた。
先ほど渡った火除け橋を渡り、やがて濁流に洗われる御手洗場を左手に見て更に進む。
 
前方に宇治橋が雨に濡れ、木肌が美しく照り映えている。
その彼方、春雨に染まる山々が、萌黄色の春色を強め、やがて来る初夏の到来を予感させる。
我々の伊勢神宮参拝は無事に終わった。

 
そして駐車場へ戻ると、先ほどにも増して駐車場は、車で立錐の余地がない程に溢れていた。
駐車場に車を置いて、おかげ横丁の散策をすることにした。
少し歩くとおはらい町の屋並みが見えた。
空はいまだどんよりと灰色に覆われている。
だが雨雲は薄くなり空も少しづつ明るくなって来た。
そろそろ昨日来の雨は上がるのであろうか。
雨傘を差しながら人々が行き交う。
切り妻妻入りの店から、客寄せの声が気持ちよく響く。
道筋に並ぶ家々の切り妻妻入りの建物が雨に濡れ、明るさを増し始めた薄明かりに耀いている。
屋根は本を伏せたような簡素な形で空を指す。
外壁の「刻み囲い」と呼ばれる壁囲いや出格子は、黒塗りの化粧が眩い。
雨の多い地方と言われる伊勢路の切り妻造り、雨に煙る姿に情趣が漂う。
 
時折、玄関の軒下に〆飾りが飾ってある。
この地方の風習として、〆飾りは1年中飾られており、注連縄は左から右に向けて細くなっていた。
黒塗りの板壁や軒に、注連縄の薄黄色と橙の橙色と紙垂(しで)の白が映える。
 
さらに「蘇民将来子孫」のお札が、真ん中に飾られている。
それは遠い昔、伊勢を旅した須佐之男命が、一夜の宿に困っていた。
その時、貧しい生活をしていた蘇民将来が、須佐之男命を温かく迎え入れ、心からのもてなしをした。

それにいたく感動した須佐之男命は、蘇民将来に言葉を残して立ち去った。
それは、疫病が流行る時は、茅の輪を腰につければ、疫病から免れることが出来ると。
それ以来、伊勢地方に疫病が蔓延しても、教えを守る蘇民家だけは、疫病に掛からなかったと伝わる。
そして何時の頃からか、注連縄に「蘇民将来子孫」の札を飾り、魔除けとするようになった。
 
やがて細く糸引く雨は、薄日に照り映えながら、微かに振り落ちる。
おはらい町の昔日の面影を愉しみながら進み、200メートルくらい行くと、家並みも疎らになって来た。
引きかえして行くと、中ほど右手に、「ようこそ伊勢へ おかげ横町」の看板が立っていた。

見れば切り妻造りの建物が並び、広場が開け、真ん中に、真四角な山門思わせる建物が建っていた。
その建物の下には、雨宿りしながら、横町の風情を愉しむ人たちが休んでいた。
見れば近くに伊勢うどんの大きな藍色の出幕に、うどんの白字が浮き出ていた。
 
すでに昼時は遠くに過ぎていたが、店に入り休むことにした。
帳場で注文券を購入し、席で待つ。
やがて生ビールと伊勢うどんが運ばれてきた。
 
たまり醤油に鰹節や昆布汁を合わせた汁は黒く濃厚、白く太いうどんが、丼の中で盛り上がっている。
はられた汁と絡めて口へ入れると、うどんは太いわりに硬くはなく、かといってコシが残っているから面白い。
味は淡白であり、汁は見かけと違いさっぱりとしたうま味があった。

一休みして外へ出ると、雨が上がっていた。
晴れ晴れとした気持ちで、またおはらい横町を散策する。
傘を差す鬱陶しさから解放され、散策する人達の足取りも軽い。

すると右手に造り酒屋「 伊勢萬 内宮前酒造場」があった。
早速中へ入ると、店の中は明るく、磨かれた天井や梁の木香が匂い立つ。
カウンターに座り、ここでだけ飲める「おかげしぼりたて生原酒」を注文する。

厚手の青磁で出来た利き猪口へ注がれた酒は、蛇の目の染付呉須の藍色に、照り返されて光る。
猪口の周りには、うっすらと霧が滲む。
程良い冷たさが、酒器から手に伝わる。

口に寄せると、酒の香が仄かに漂う。
口の中へするりと滑らせると、口内に爽やかな香りを含ませながら広がる。
さらに口の中で緩やかに波打たせると、磨き上げられた酒米の精華が浮き出る。

ぐびりッと呑みこむと、冷たい酒はするすると腑臓の中へ落ちてゆく。
そして少し遅れて、柔らかな酒の匂いが戻り香となり、鼻先に揺れる。
日本一小さな酒蔵、そして伊勢市内唯一の蔵元の酒は、伊勢巡りに花を添えてくれた。
 
先ほどの生ビールと、生酒でほろ酔い機嫌で外に出る。
石畳は雨に濡れ、降り注ぎ始めた陽光に黒光りしている。
切り妻造りの屋根や袖瓦の黒色は濃さを増し、建物の板壁は雨が滲み、ツガの木目が浮き出ていた。
おかげ横丁が作られる前の平成4年(1992年)には、おはらい町を訪れる観光客は32万人に落ち込んだと言う。
江戸時代には、日本人の人口の5分の1が、お伊勢参りをしたと伝えられる。
19993年には赤福社長が中心になり、(有)伊勢福を設立し、おかげ横丁を完成させた。
そして江戸時代末期から明治時代の建物を、おかげ町へ移築し町の再興を実現した。
 

それ以来、観光客が徐々に回復し、今では400万人に達すると言う。
すでに時刻は午後3時近くにも関わらず、観光客が益々溢れて来ている。
門前町の建ち並ぶ屋並みを愉しみながら、おはらい町の往来を抜け、駐車場に戻る。

駐車場には、沢山の乗用車や観光バスが溢れていた。
そして車に乗り込み、今日泊まる鳥羽シーサイドホテルへ向かった。
爽やかに、そして柔らかく降り注ぐ春日を浴びながら、伊勢路を進んだ。
50分程伊勢から南下すると、ホテルに到着した。
ロビーで手続きを済まし、ロビーから外を望むと、広いガラス窓に、傾きかけた長い日陰が射しこんでいる。
その彼方に、鳥羽湾の海と島々が見渡せた。
エレベーターで11階に上がり、部屋の扉を開け中へ入る。
窓から眺めると、波一つない鏡のように静かな湾は、柔らかな水色に染まり、青い空が広がっていた。
窓を開けると、爽やかで生暖かい磯風が吹きわたる。
先ほどまでの雨が嘘のように晴れ渡り、静かな湾を観光船やフェリーが行き交う。
海には白い航跡を残し、振り落ちる日で耀く海を、静かに切り裂いて進む。
空の青と細長く棚引く雲海が、日に照り映え黄金色に輝いていた。