我が町、板橋宿とハッピーロード「大山ダルマ市場」
2012年03月06日


私の住む町板橋、「義経記」にも、平安時代の昔より、その名前は存在したことが記されている。
江戸時代になり、交通網整備も進み、東海道、甲州街道、奥州街道、中仙道が整備された。
そして、江戸4宿が作られ、それぞれに、品川宿、内藤新宿、千住宿、
そして中仙道には板橋宿が、日本橋から2里の距離に置かれた。

板橋宿は三つの宿場からなり、日本橋から来ると、平尾宿を下り、さらに観明寺付近を境に仲宿がある。
さらに石神井川に架かった、歌川広重の浮世絵にも描かれ、名前の起源にもなる板橋があった。
それは長さ約16.4m、幅5.5mの木造りの太鼓橋。

その橋を渡ると、上宿になり、上宿の大木戸を出ると、そこはすでに江戸の御府内の外となった。
当時、仲宿には本陣が1軒置かれ、各宿には脇本陣がそれぞれ1軒ずつ置かれ、旅籠も54軒が犇めいていた。
天保時代、1841- 1844年に行われた、道中奉行の記録「中山道宿村大概帳によれば、
3宿内人口は、2,448人、家数は573軒存在していた。

さらに、平尾宿は江戸からの脇往還、川越街道(川越・児玉往還)は平尾宿を起点として、平尾追分として栄えた。
その平尾追分から下り、少し進み行けば、川越街道と千川上水が交差する地点に大山があった。
川越から江戸へ、人馬により運ばれる、大量の物資が行き交う、交通の要所でもあった。

さらにこの地には、相模の国、現在の神奈川県伊勢原市にある、大山阿夫利神社への参詣道でもあった。
享保年間(1716年ー1735)間には、大山阿夫利神社へ詣でる大山講が盛んになる。
そして大山詣で、大山阿夫利神社に向かう道は、大山道と呼ばれ、各地に誕生した。

相模の国の大山は、富士山のようになだらかで、美しい山容を誇り、丹沢山系の中に屹立している。
その山は、「阿夫利(アフリ)山」とも呼ばれ、
また「雨降(アフリ山」として信仰を集め、阿夫利神社は、雨乞いの神様を祀っていた。

さらには、アフリは天から神が降る事を示し、アフリはアフギ、つまり、扇をも意味する。
扇は神を招く標しでもあり、扇は神を招く神事や、まじないをする祭具でもあった。
山頂には大山寺が建ち、大山はその秀麗な姿から、民衆の山岳信仰の対象であった。

まさに板橋の大山は、大山詣での参詣道の一つであり、
多くの庶民たちが、大山阿夫利神社へ、白装束に手甲脚絆、菅笠を被り、輪袈裟を下げて出かけた。
そして時は下り、第二次世界大戦。
精密機械やや化学工場などの軍事産業が盛んな板橋は、連合軍の空爆を受けた。

かつて古老に聞いたところ、現在の健康長寿医療センターにも、たくさんの死傷者が運ばれたと聞く。
やがて戦争も終結し、焼け跡から市が建ち、大山にはたくさんの商店が復活した。
戦後の混乱期、現在のハッピーロードには、たくさんのマーケットが乱立していた。

やがて間もなく、昭和21年、駅前を中心にして、「大山銀座駅前通り商和会」を、
さらに昭和22年にも、川越街道寄りに、「大山鋸座商和会」を結成された。
そして戦後復興の急速な経済成長の下、この地も急激に住宅化が進み、人口も膨れ上がった。
さらに板橋区の人口も急増加し、板橋区は勿論、東上線沿線に住む人たちも、大山の商店街を訪れて、買い物をするようになった。
ハッピーロード商店街
さらに沿線の住宅開発も進み、ますます大山の商圏も広範囲に拡大した。
まさに大山は板橋区の一大商業地区となり、大山は板橋の商業のメッカとなる。
そして昭和27年、東京都内で初めてとなる「日専連のクレジットカード」の利用を可能にし促進した。

日本は高度経済成長を迎え、日本社会は好景気に沸き、大山商店街も活況を呈する。
やがて。 昭和52年になり、駅よりに位置する「大山銀座商店街」と、川越街道よりの「大山銀座美観街」が合併する。
それは名実ともに、板橋区最大の商店街が誕生した。

そして翌年の昭和53年、雨の日も傘をささずに買い物を楽しめる、旧アーケード商店街が完成し、「ハッピーロード大山」と命名された。
さらに昭和58年には、正式名称が「ハッピーロード大山商店街振興組合」と変更される。
池袋に出かけずとも、すべての生活用品が揃え、たくさんのレストランや食堂などが活況を呈していた。

だがやがて日本経済にも陰りが見え始めた頃、ハッピーロードのアーケードも老朽化していた。
平成8年3月、さらに魅力に溢れ、明るく美しい美観を創造するために、
新たな環境装置を備えたアーケードへ、全面リニューアルを断行した、
同年の12月、道路もカラー舗装に彩られ、明るく華やぎ溢れる、近代的で快適なアーケードに、装いを新たにした。

そして、板橋区最大のショッピング街は、「一生づきあい」の標語の下、21世紀へ向けて、晴れ晴れと再出発を果たした。
そんな晴れやかなハッピーロードの入り口に、戦後のマーケットへタイムスリップしたような一画がある。
東武東上線の踏切寄りにある「ダルマ市場」だ。

この場所に「ダルマ市場」が出来たのは、昭和12年の戦前。
だが戦後の昭和30年1月1日に、マーケットは火事で全焼、その5年後の昭和35年になり再建された。
それ以来この地に存在し続け、ハッピーロードの変貌を、このビルは見続け、数少なくなった時代の証人でもある。
大山駅踏切からから眺める「ダルマ市場」
なかに入っているお店は、大山育ちの地元の商店が中心となり、マーケットを構成していた。
私が28年前に、初めて「ダルマ市場」を訪れた時、入り口に果物屋さんがあった。
店員の男女の呼び込みの声も賑やかで、活気に満ちていた。

その元気と威勢に誘われて、季節の果物を購入した。
もちろん、値段は破格で新鮮、店頭は何時でもお客で溢れていた。
レジなどは無く、売上金と釣り銭が、天井から吊るされた笊に、無造作に入れられていた。

その隣にはパン屋さんが、のんびりと店構え。
その奥隣に、様々な地方の味噌の量り売りと、味噌漬けを商うお店があった。
御主人は言葉訛りもあり、紺地の前垂れ姿で趣があった。
 
そのさらに奥には鶏肉屋さんがあり、その奥に、今も変わらず盛況な「鮮魚渡辺」があった。
その右隣には豆腐屋さんがあり、その前の通路の左側には、乾物屋さんがあった。
その通路を挟んだ前に、服飾雑貨と手芸用品の専門店「川越屋手芸店」さんがあり、今でも盛業中である。
 
ここには手芸用品、ボタンの種類は1万を越し、糸の種類も200点以上揃え、ほとんど全てのニーズに応えられると言われている。
その後、「鮮魚渡辺」と「川越屋手芸店」さん以外は店も変わった。
今では入り口に位置した果物屋さんの跡地は空き地。
豆腐屋さんの跡地は倉庫に 「川越屋」さんの前はシャッターが降りていた、
何とも無残で寂しい姿を晒している。
「渡辺」の右隣にあった豆腐屋さんもすでになく、鮮魚屋さんの倉庫に化していた。
さらに、かつての鶏肉屋さんの後に、何代かの後に収まり、大人気な繁盛店「ユータカラヤ肉源」も、2月26日をもって閉店。
かつての果物屋さん跡
現在も盛業中「おおくぼ青果」
広い店頭のショーケースには、青いビニールシートが張りめぐらされ、哀しげな姿を晒していた。
夕刻まぢか、「鮮魚渡辺」の店頭の商品は売り切れ、僅かに残る鮮魚や刺身を求める人たちが、店前に並ぶ。
見れば、かつての威勢の良かったお兄さんも、今は白髪交じりの親爺さんになっていた。
果たして、このマーケットは、再開発になるのであろうか。
古くからあるマーケットの人に聞けば、この建物の再開発計画はないとのこと。
建物の床を見れば、長い歳月の間、たくさんの人々が訪れた証として、あちらこちらに、剥き出しのコンクリートに、ひび割れと補修の跡が刻まれていた。
 
灰白色に塗り込められた天井に、空調設備が迫り出し、薄らと滲み浮かぶ。
表通りには、今風の「写真屋さん45」と「やきとり本舗ハマケイ」が、昭和のレトロとは対照的な店舗を構えていた。
大山からまた一つ、昭和の面影を残す市場が消えて行きそうである。