思い出の長谷川利行
2011年12月24日


今週の日曜日、板橋区立美術館へ出かけた。
昔、湯島に住んでいたころは、すぐ近くに西洋美術館やら、都立近代美術館、西洋博物館などがあり、時間を見つけては訪れた。
だが、板橋に引っ越してからと言うもの、なかなか都心まで足が向かず、美術館通いも少なくなることしきりになる。

だが、今回は是非とも行かねばと思い、「池袋モンパルナス」展へ出かけたのだ。
下赤塚の大仏様のすぐ近く、赤塚山を配した池畔の静寂の中に、板橋区立美術館は、ひっそりと建っている。
玄関から中へ入り、2階へ階段を上ると会場が広がる。

入場券を600円払い中へ進む。
会場の中央には、大きな寺田政明の抽象画「芽」(1938年)が展示してあった。
やはり板橋区を代表する洋画家なのであろう。

今回、私が見たいのは、長谷川利行の絵だ。
私が上野で料理屋の支配人をしている時、私の店は上野のれん会に加盟していて、毎月、本支店合わせて、会報の「上野」が200部届いた。
その当時、上野のれん会の会長は、アダムス菊屋と言う洋品屋の主人・須賀さんであったと記憶する。
上野の広小路では有名な須賀一族の出で、東大文学部卒業の氏は、芸術の造詣も深い、ダンディーな紳士であった。

その須賀氏が気に入り所蔵していた絵が、長谷川利行の絵で、上野のれん会の会報「上野」の表紙を飾ることも多かった。
そして、私が板橋に引っ越して来て、バーを開いたのが、偶然にも板橋区大山であった。
そこは池袋から、徒歩でも30分程の距離にある。

私の生まれたのが豊島区椎名町で、今の南長崎。
手塚治虫や多くの漫画家が住んだ、トキワ荘のすぐ近くだった。
その当時、南長崎から池袋、要町辺りは舗装もされず、雨が降れば道は泥濘であった。

その南長崎を中心にして、多くの貧乏画家が集まり始めた。
上野には美術学校があり、上野桜木町には、鏑木清方塾などの画塾もあり、多くの画学生なども住んでいた。
だがいかんせん、上野は家賃が高く、借家も狭い。

その頃の池袋周辺は、沢山の空き地や野原があった。
そして、旧長崎町を中心にして、アトリエ付き貸家が建ち始め、やがては、「桜ケ丘パルテノン」と呼ばれる集落も形成された。
さらに「すずめヶ丘」などが、ぞくぞくと建ち並んでいった。

そこには、画家だけではなく、詩人、俳優、ダンサー等、様々な人々が集まり始めた。
場所柄、住宅の家賃も破格に安く、多くの貧乏芸術家たちが、集まり交流する村を、形成するようになった。
それは大正の末期から、第二次世界大戦が終結するまでの暗い時代だった。

そして芸術家が屯する飲み屋では、夜を徹して、喧々諤々、芸術論が戦わされ、時には喧嘩で血が流された。
まさにそこは、未来の芸術を担う、若者達の梁山泊であった。
やがて、詩人で画家の小熊秀雄が詩上で、「池袋モンパルナスに夜が来た」と、芸術の都に倣い「池袋モンパルナス」と表現した。

それ以来、まだ名もない芸術家たちの住む辺り一帯を、人々は「池袋モンパルナス」と呼ぶようになる。
今回の美術展は、1930〜1940年代を「池袋モンパルナス」で過ごした画家たちの作品が、展示されていた。
それぞれに、ヨーロッパの空気を、遠い日本から鋭敏に感じ取る、まだ若き20歳から30歳代の峻烈な感性が迸る。

だが時代は第二次世界大戦に突入し、画家たちも過酷な宿命を負わされる。
その戦時下、吉井忠により、克明な日記が、簡略ではあるが、心情溢れる小さな字で、綴られていた。
さらに、戦地に赴いた
古沢岩美が、戦場から家族に送った絵手紙には、
家族を思い親友を気遣いながらも、絵描きの魂を守り続ける姿が映されていた。


さらに、第2会場へ歩を進めると、そこには長谷川利行の「自画像」に並んで、「水泳場」(1932年)展示されていた。
その作品は大作で、夏の日、隅田川を仕切って造ったと言う、特設プール風景である。
水面はエメラルド色に輝き、真夏の空は鮮やかな色彩に満ち溢れていた。


泳ぐ人、岸辺に佇む人、そして空を滑空するように、プールへ飛び込む人。
実生活においては、まさに赤貧の生活と、流浪と無頼、酒と破滅の世界に生きた長谷川利行が、キャンバスの中で生の賛歌をしている。
眩き煌めく色彩が、生命の躍動、自由への歓喜を表現しているようだ


その長谷川利行も、酒と無頼の日々、1940年5月のこと、胃癌に侵され、三河島の路上で行き倒れる。
そして、東京市養育院へ運ばれるも、治療を拒否し、同年の10月に、49歳で鬼籍に入った。
その時、画家の所持していたものは、スケッチブックも含め、すべて、養育院の規則の下に焼却処分された。

壮絶な人生を送り、終焉の地となった病院は、現在は独立行政法人「健康長寿老人医療センター」であり、
私の店から100メートルほどの距離にある。