京都への旅@
伏見稲荷、東福寺から、東寺へ
20011.11.27

今年の紅葉狩りは、京都へ2泊3日の旅になった。
それも長女からのプレゼントだから、さらに嬉しさは格別である。
ホテルから新幹線のチケットまで、すべて予約してくれた。

そして、27日(日)の始発6時の、特急のぞみで出発した。
旅と言えば、何時も気儘な車の旅。
旅館はさすがに予約はするが、あとは足任せ気分任せだ。

だが今回は決められた時間の新幹線に、乗らなければならず、少々気がもめた。
乗ってしまえば、あっという間の2時間で、京都に到着した。
京都駅はさすがに広い。


地下鉄に乗り、烏丸御池駅で降り、ホテルのフロントに荷物を預け、また地下鉄で京都駅に戻った。
すでに、京都駅のバスロータリーは、たくさんの観光客で溢れていた。
京都駅で京阪電鉄に乗り、最初の目的地・伏見稲荷へ向かった。
 
電車は思ったほど混んでおらず、ゆったりと座れた。
どうやら、観光客たちの向かうところは、紅葉の名所なのであろう。
30分くらいの乗車時間であろうか、稲荷駅に到着した。


思いのほか小さな、飾り気のない駅であった。
お正月の参拝客の凄さが、嘘のようにのんびりした風情である。
駅を出ると、正面の巨大な鳥居が、出迎えてくれた。


朱色の鳥居は朝の陽光に照り返され、あざやかさを際立たせていた。
参道を潜り、真っすぐに進む。
さすがに日本の稲荷神社の総本社、荘厳な威容を誇る。

 
午前10時前だと言うのに、大勢の参拝客が、本殿に向かって歩いていた。
やがて正面に楼門が構え、右左に阿吽の鍾馗(しょうき)さまが鎮座していた。
通り抜けると、正面に朱色の舞台があり、その向こう正面に、本殿があった。

さらに進み、本殿前のお賽銭箱に、お賽銭を添え、手を合わせる。
本殿の中にも、すでに大勢の人たちが、神主さんのお言葉を頂いていた。
そして、本殿の左横から、延々と続く稲荷塗りの、千本鳥居を潜りながら進んだ。

  
なだらかな上りの回廊を潜り行けど、果てしなく鳥居は続く。
鳥居は想像した以上に大きく、東京の根津権現などの、お稲荷様の鳥居とは、比べ物にならない。
さすが本家の貫禄を感じる。

  
鳥居の外は、常緑樹が茂り、森閑としている。
時折聞える参詣者の私語が、鳥居の中に響く。
さらに進み、鳥居の左側を見ると、細い清流が下り流れていた。

  
やがて回廊が切れ、前方から陽光が、まぶしく射し込んできた。
長い歴史の間、踏みしめられた石段を上ると、そこには狭い広場があり、土産物屋さんがあった。
そのお店の前に、蝋燭の火影に照らされたお堂があり、左右を朱色の前掛けを付けた狐が、鎮座していた。

  
その後ろに熊鷹池があり、水鳥たちが気持ちよさそうに泳いでいる。
すでに時間は、10時半を回っていた。
池の水面に陽光がきらめき、水鳥の作る漣が、美しく耀いている。

 
鳥居の列柱はまだまだ果てしなく続き、上り坂はさらに厳しそうだ。
大勢の健脚そうな人たちが、鳥居の中へ消えていった。
だが私たちは、ここで先を諦め、来た道を戻ることにした。

 
下りの道程は、上りに比べると格段と楽だ。
先ほどに比べれば、すれ違う上りの人たちの数も増えている。
若者や熟年に混じって、老年のご夫婦も、何事もないように、元気に上って行く。
 
老人が元気でいる姿を見ると、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。
朱色の鳥居には、すべて、奉納された日と、名前が刻まれている。
鮮やかな朱色の回廊を歩いていると、人間の根源的な生命力を、蘇らせてくれるようだ。
 
樹木の間から、木漏れ日となって射し込む陽光は、さらに強さを増している。
鳥居の朱色を照り返し、参道に長い影を引いていた。
やがて鳥居の列は終わり、愛くるしい狐さんが出迎えてくれた。

   
本殿に続く階段の脇には、先ほどの狐さんよりも大きく、口に巻物のようなものを咥え、顔も厳つい狐さんが睥睨している。
階段を下りきり、本殿を覗けば、内では神主さんが、厳かにご祈祷をしていた。

約1時間強の伏見稲荷神社、鳥居巡りの散策であった。

そして、伏見稲荷駅から、次の目的地・東福寺へ向かった。
京阪電車で京都方面に戻ると、すぐに東福寺駅に到着した。
すでに駅は大変な混みようで、誘導の駅員らの声が響く。
 
駅を出て狭い商店街を抜けると、広い通りに出た。
そこには東福寺・通天橋の石柱が建っていた。
広い通りでは、信号待ちをする大勢の人と、交通整理の係員の声。

信号を待つ僅かな時間の内にも、さらに路上は人で溢れて来た。
信号は青になり、大勢の人たちが道を横断し、東福寺への路地を歩いて行く。
すでに紅葉見物を済まして、駅方面へ戻る人並み。
 
もちろん道は一方通行で、旗で先導する団体客も行き交う。
やがてひっそりとした佇まい、趣のある門構えの寺に出た。
立て札を読めば、臨済宗東福寺塔頭・退耕庵とあった。

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いでは、この寺に長州藩の陣が置かれ、現在も鳥羽伏見の戦における、戦死者の菩提寺であると記されていた。
さらに、豊臣秀吉の没後、寺内にある作夢軒で、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、石田三成、宇喜多秀家が、関ヶ原の戦いの謀議を謀ったとある。
さすがに京都、至る所に、日本史を揺るがす歴史が、刻まれている。

  
寺町の風情を醸す、東福寺への参詣道を進むと、すでに塀越しに、鮮やかな紅葉が見える。
やがて臨済宗東福寺派大本山・東福寺に到着。
すでに拝観券を求める、長い列が出来ていた。

 
私たちも拝観券を購入、長い人の列の後方に従いながら、通天橋へ向かった。
さらに少し進むと、凄い人の群れが出現した。
そこが噂に名高い紅葉の名所・通天橋であった。

2間もない渡り回廊は、まさに通勤電車の混みよう。
溢れる人の列の進みに合わせていくと、左手には鮮やかな紅葉の朱が広がる。
晩秋の真昼の陽光を浴び、鮮紅色が一面に燃えている。

開山堂(常楽庵)に至る橋廊は、渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)を渡り、見渡せば、彼方にも橋廊が煌めく朱に包まれていた。
その橋廊にも、紅葉を愛でる人たちが溢れている。
この橋廊は、1380(天授6)年、深い渓谷を渡る僧侶たちのために、普明国師により架けられたと言う。

 
中国の南宋径山(きんざん)の橋に倣って造橋し、普明国師が通天橋と名付けたと伝えられている。
九条道家の代になり、九条家の菩提寺として、1236年に建立され東福寺は、2000本の楓の朱色に染まっている。
日本の渓谷や庭園の秋色は、紅葉楓の朱色に尽きるかもしれない。
 
その煌めく朱が、日本の王朝絵巻を彷彿とさせてくれる。
目にも鮮やかな朱色の中に、人は古を思い、遥かな日本の歴史を視覚化し、永遠の自然を愉しむことが出来る。
最近は紅葉狩りに出かけると、若い人たちが大勢いることが嬉しい。
  
自然の美しさに感動を覚えることは、自然を慈しみ、畏敬の念を持つことになる。
その心が自然を大切に守り育てる。
さらに自然と人が共生することを知り、自然と人の生命の尊厳を、発見することにもなる。

  
橋廊から見渡せば、渓谷を流れる細い清流に架かる橋で、紅葉をカメラに収める人たち。
人の流れは途絶えることなく続いていた。
やがて橋廊を渡り終わり、次の橋廊へ向かうと広場に出た。

そして、さらに進むと、先ほど遠景に見た橋廊に到着。
その人出は先ほどと違わず、凄い混みようであった。
橋廊の中ほどから望めば、先ほどの橋廊が遠くに見える。
その姿は先ほど見た絵の移し鏡のように、鮮やかに朱色の光に満ち溢れていた。
まさに朱色が燃え、黄金色が混じり合う、紅葉の華やかな饗宴は、香気を放っていた。
燃え上がる生命が躍動し、観る者の心の滓を、洗い落としてくれる。
地球の温暖化により、四季が少しずつ変調しだしてきた日本。
日本の秋は、こよなく美しい。
だが、この美しさは無償の物ではない。
 
長い歳月の間、この美しさを守り育てた人々がいて、初めて美しい姿を、我々に見せてくれるのだ。
橋廊を渡り終え、庭園に出た。
庭の老木の周りには、枯れ落ちた楓の葉が、朱色の織物のように広がっていた。
咲き誇るような楓も美しいが、地に敷き詰められた楓も、寂の風情がある。
燃えるような生命の躍動に対して、枯れ落ちて土に還る終焉の静に、人間の一生を想起するのかもしれない。
季節の移ろいの中に、人間の生の賛歌と儚さを感じるのであろうか。
庭園をそぞろに歩くと、広場に出た。
そこからは渓谷を見渡し、木々の朱色と黄色の楓が織りなす花宴の彼方に、橋廊が見える。
晩秋を彩る楓の饗宴を愉しむ人々で、溢れかえっていた。

渓谷へ続く下りの散策道を、人は歩き降りていく。
広場では多くの人たちが、渓谷の華やぎを背景にして、記念写真を撮っていた。
人は美しい景色に接すると、童心に帰るのであろう。
  
カメラに向かう姿は真剣であり、純真な心持が伝わって来る。
すでに時間は正午を回り、渓谷を射す日は強く、雅の世界を演出していた。
そして、東大寺の東、興福寺の福にあやかり名付けられたと伝えられる、東福寺の山門を潜り、煌びやかな渓谷の彩美に別れを告げた。

  
京阪電鉄への帰りの道、さらに人出が増え、東福寺駅は、大勢の人が犇めいていた。
電車に乗り、京都駅には15分程で到着した。
駅の案内係の人に、食事するところを訪ねると、構内の11階に食事するところがあると教えてくれた。
延々と続くエスカレーターで、4階から5階へ上がる時、下りの家族とすれ違った。

瞬間、Oさんだと分かり、私は手を振った。
すると、当人も私たちを、瞬時に理解したようだった。
そして、私たちは4階へ降り、踊り場で再会した。
Oさんは、15年くらい前だろうか、私のお店の近くの研究所に勤め、私のお店に度々来店してくれた。

だが10年位前に、国立K大学の研究所に転勤になり、学会で上京した折に来店してくれていた。
数年前に、結婚をし、そして子供さんが出来たことは、年賀状で知っていた。
だが、今回の偶然の遭遇、初めて、奥さんと子供さんに会うことができた。

世間とは本当に狭く、確率としてはゼロのことが、現実には度々起こる。
だからこそ、人はいついかなる時も、堂々として、再会を喜べるようにして、いなければならないのであろう。
Oさんもこれから、友達に会う約束があるようなので、ここで別れることにした。

私たちは食事を摂り、次の目的地へ、地下鉄で出かけた。
地下鉄の東寺駅で降りて、九条通を暫く歩くと、右手の彼方に、五重塔が姿を見せた。
さらに進むと微かに水を湛えた浅い掘があり、その掘の向こう岸に、真言宗総本山東寺の石碑が建っていた。
 
堀に掛る橋を渡ると、高さ13メートル、幅18メートルの切妻造本瓦葺の南大門が、雄壮な姿で迎えてくれた。
教王護国寺の正門、長い歴史が刻まれた南大門の柱には、深い木目が浮き出ていた。
この素朴で剛毅な門を潜ると、正面北に金堂が控え、右手東に五重塔が聳えていた。

  
壮大な金堂は古色を湛え、傾き始めた秋の日差しに、甍が照り映えていた。
さらに北へ進むと講堂があり、横目に見ながら行くと、入母屋造本瓦葺の食堂があった。
創建は9世紀末から、10世紀にかけてと伝えられている。


だが、慶長伏見地震(1596年)で倒壊し、寛政年間に再建されるも、昭和5年(1930年)の火災で焼失し、昭和9年(1934年)に再建された。
堂内へ入ると、179センチメーターの木造の十一面観音菩薩が、極彩色に耀いていた。
作は美術院の仏師・明珍恒男氏、平安時代の仏像様式を忠実に再現したものであった。

食堂を出て、講堂へ戻ると、ここからは有料となり、拝観券を500円払い、講堂へ向かった。
東西南北255メートルの広大な寺域は、奈良時代の建築様式を伝え、南から北へ、仏・法・僧の配置で、大伽藍が並ぶ。
食堂では生活の中に修業を見出す「僧」、講堂では密教の教え「法」を、金堂に於いては、本尊の「仏」を顕現する。

その聖域の中心に存在するのが、単層入母屋造の講堂である。
石段を上がると、変哲もない木戸が在り、開けると中は驚くほどに広く、そこは羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)の世界が出現した。
須弥壇中央の五智如来に囲まれた大日如来、西に位置する五大明王、東には金剛波羅蜜多菩薩を中央にした五大菩薩。

それらの須弥壇の15体の菩薩を守護する四天王の一人・持国天が、睨むように睥睨していた。
高い天井の建物中は静寂に包まれ、清涼な空気に満ちていた。
講堂の端に添えられた細いえ縁席に座り、中央の大きな大日如来を眺める。

如来は金剛界の大日如来印、すべてのものを智恵で包む智拳印を結すんでいた。
大日如来を囲む四如来は質素にして簡素であるが、大日如来は金彩の宝冠を戴いていた。
その尊顔は穏やかで、慈愛に満ちていた。

講堂の21の尊像たちが醸し出す霊気は、豊饒な聖域を演出している。
重要文化財や国宝を、まさに、手を伸ばせば届く距離で観れたことの感動は大きい。
けっして、民衆から乖離することなく、歴史を刻んできたことが、まさに文化の質の高さであろう。

素晴らしいものを見た時の感動の大きさに比例して、人は沈黙する。
美味しい酒や料理を食べた時、人は無口になる。
能弁であることは、感動の薄さの証明でもある。
私も尊像たちを前にして、豊かな沈黙の時を過ごした。

講堂を出ると、昼下がりの陽光が、目にも眩しい。
そして南へ進むと、東寺の本堂・金堂の入り口に着く。
石段を上がり、無造作で飾り気のない扉を開けて中へ入る。
 
すると構内の広さに圧倒されると同時に、巨大な尊像に驚愕させられた。
中央に高さ3メートルになる薬師如来坐像が、日光菩薩と月光菩薩の両脇侍像を置き、幽暗の中、鈍い黄金の輝きを放っていた。
薬師如来坐像の台座の四面を、ぐるりと薬師如来を守る十二神将が、彩色も鮮やかに彫り込まれていた。
 
その姿は今にも動き出しそうなほど、リアルであった。
金堂が創建されたのは、弘仁14年823年頃だと推定され、文明18年(1486年)に焼失。
だが慶長8年(1603年)に再建され、仏師康正が造仏した、室町時代の秀作であった。
  金堂を支える太い柱
金堂を出て遠くから望めば、一重裳階の付いた入母屋造本瓦葺の建物は、2階建てに見える。
和様と天竺様の折衷を特色とする金堂は、午後3時過ぎの秋の日を受け、さらに荘厳さを増していた。
平安遷都により建立された東寺の本堂は、朝廷が造営した官寺にして、当時より格調と荘厳を求められていた。

そして金堂を出ると、東寺の聖域の東南に位置する、東寺を象徴する国宝の五重塔が、紅葉した樹木の彼方に聳えていた。
弘法大師が天長3年(826年)に創建した後、50年の歳月を費やし、9世紀の末に完成された。
だがやはり他の堂宇と同じように、度々の火災により消滅し、現在の塔は、徳川家光の寄進により、寛永21年(1644年)に再建されたものだ。
  
創建より5代目の五重塔の高さは、約55メートルあり、木造塔としては、日本一の高さを誇っている。
弘法大師が唐から持ち帰った仏舎利(釈迦の遺骨)が納められ、内部には極彩色の密教空間が広がっている。
さらに、各層を貫く心柱は、真言密教の中心尊・大日如来を象徴しているのだ。

秋の日の傾きは早く、高く澄み割った空の輝きも、薄れ始めてきた。
日の薄くなった空に向かって、地水火風空を表す五重塔は、古雅な姿で聳え立っていた。
その姿は壮麗で、崇高な気韻を漂わしている。
 
残念なことに、大改修のため、建物の廻りを、場違いで無粋な足場が取り囲んでいた。
塔の軒裏を見れば、年輪を刻んだ組木が軒を支え、屋根の甍の先には、文様が浮き上がっていた。
五重塔を後に、境内を散策すると、秋の花々が、楚々として咲いていた。