京都へ紅葉狩りB
銀閣寺&清水寺を訪ねて

2011.11.29

京都の旅も最終日になった。
午前10頃にホテルをチェックアウトし、地下鉄に乗り、京都駅へ向かった。
京都駅は平日の朝にも関わらず、その人の多さには、今更ながら驚かされる。

新幹線の改札口の貸ロッカーは、完全に塞がっていた。
駅の売店のお姉さんに、他のロッカーを教えてもらい、荷物をロッカーに納める。
そして広いバスバスターミナルへ歩く。

ターミナルには、沢山の長い列が出来、私たちの行き先である、銀閣寺行きの列に並んだ。
行き先ごとに違う停留所から、次々とバスが発着する。
程なくして、銀閣寺行きもやって来た。

長い列の最後方に並んでいた私たちは、乗りきれないのではと、諦めていたが、なんとか乗車することが出来た。
バスは発車し、京都の市中を走る。
意外とバスは滑らかに走り、危惧していた渋滞に、巻き込まれることもなかった。

京都の市街を進むと、学生時代、日本史で学んだ、名所旧跡が次々と現れる。
滅多に乗ることのない、乗合バスからの眺めはとても楽しい。
やがて40分程で、終着駅の銀閣寺に到着した。

 
土産物屋や食堂などが並ぶ、狭い参道を進むと、程なくして、銀閣寺の山門に着いた。
拝観料を払い中へ進むと、灰白色の砂の庭が、目の中に映る。
白砂が庭一面に広がり、段々と層をなし、幾何学模様を造り出していた。


その庭の様式は、遠く中国の西湖を想像して作られたと言う。
銀沙灘(ぎんしゃだん)が緩やかに、リズムを刻むように、波打ちながら広がる。
そしてその奥に、頂点を平らにならした、円錐形の砂山、向月台が据えられていた。
銀沙灘を眺めながら歩くと、寛永年間(1624〜44)に建てられた本堂があった。

その本堂に腰を下ろし、庭と銀閣を眺める。
昼間の強い日差しに、白砂が反射し、裏手の紅葉との対比には画趣がある。
夜になれば、砂紋に月の光が落ち、幻想的な空間を造り出すであろう。
 
向月台に月光が煌めき、その光が反射し、柿葺宝形造、二層楼閣の銀閣を照らし出す。
漆黒の空から降り落ちる月明りを、自然の砂を鏡面にして照り返し、幽玄な世界を現出させるとは、何とも典雅な遊びであろうか。
室町の古に思いを馳せながら、本堂を離れ庭園を散策する。
 
歩くにつれ、散策道は蛇行しながら、緩やかに上ってゆく。
やがて右手彼方に、先ほどの銀閣が姿を現し、その先には秋空に霞みながら、東山の市街が遠望できた。
銀閣を包む松や杉の緑の中に、紅が燃え盛る。

 
さらに上り進むと、銀閣の前に鈍い翠色に沈む池が見え、その右手に銀沙灘が銀色に光っていた
そしてさらに上ると、見晴らしの良い、狭い展望所に到着した。
ここから暫く上ると、下りの散策路に変わった。

 
中天に昇った秋の陽光は強く、木々の黄葉紅葉を照り返し、朱色の楓からの葉漏れ日が、鮮やかに葉裏を映しだす。
やがて下りの道も終わり、木々に包まれ、苔むした庭園の平坦な散策道を歩くと、銀閣寺を見渡す池の前に出た。
さすがにここは、銀閣寺で一番の見所なのであろう。

 
たくさんの人たちが、銀閣寺を背景に、カメラのシャッターを切っていた。
二層楼閣の観音殿・銀閣は、薄墨色に佇み、柿葺の屋根は陽光に照らされ、頂上の鳳凰が銀色に輝いていた。
一階書院造と
二階禅宗様の観音殿は、創建当時のままに、前方の池泉・錦鏡池(きんきょうち)に、逆さ絵となって映っていた。
 
そして正面に銀閣を眺めながら、左手に周り銀閣の裏手に向かう。
銀閣に近づくに従い、観音像が安置される、潮音閣(ちょうおんかく)の二階の羽目板や軒板や棟木が、かなり傷んでいるのが露見して痛々しかった。
かつて江戸時代や大正時代に、大改修工事が行われたようではある。

  
戦後の26年のこと、初の国宝指定があり、その時に、銀閣寺は国宝指定され、平成6年には世界文化遺産にも指定された。
だが文化遺産の保存管理の難しさを、銀閣を見ることにより、日常性における管理保存の難しさを、思い知らされた。

東山慈照寺銀閣寺、足利家8代将軍足利義政が造営した銀閣、義政亡き後、臨済宗相国寺派の寺となった。
 
その寺を後にし、山門を潜り、参道から琵琶湖疏水脇の石畳の道、「哲学の道」を散策する。
緩やかにカーブしながら続く、2キロほどの散策道を、かつては哲学者・西田幾多郎が愛し、その頃は「思索の小径」と呼ばれていた。
その後、西田門下生の田辺元や三木清が歩く頃より、「哲学の道」と言われ、1972年に正式名称となった。


現在も日本を代表する哲学者、梅原猛もこの地を愛し居を構えている。
琵琶湖から京都へ、取水された疎水は浅く、水は澄み、降り注ぐ正午過ぎの陽光にきらめく。
見れば枯れ葉色に、染まり始めた川草の陰に、二羽の鴨が仲良く隠れていた。


疎水の両岸には、小洒落たカフェやレストランや食事処が顔を出す。
桜の季節になれば、疎水岸に並ぶ桜は咲き乱れ、疎水は桜の回廊になるのであろう。
だが今は冬近き秋、木々の葉は落ち、寂寞とした風情を見せる。


若王子神社までの2キロほどの散策道、意外に長い。
ふと疎水に目をやれば、真鯉や緋鯉が泳いでいた。
さらに進むと立て札があり、この辺りはゲンジボタルの生息地であると、記されていた。


それも人工孵化して育てたホタルではなく、自然のままにゲンジボタルが生息できるほど、この地は自然環境が整備されているのであろう。
毎年、葉桜になった5月から6月にかけて、ゲンジボタルの艶麗な光が、疎水の闇を魅惑的な世界に変える。
この琵琶湖疏水沿いの小径は、日本の道100選にも選ばれている。


やがて若王子神社に到着したが、さらに石川五右衛門の名台詞でも名高い、南禅寺へ向かう。
暫く歩くが、まだまだ南禅寺は、さらに先のようだ。
最終の目的地は清水寺。

東京行きの新幹線は、午後の5時10分。
現在すでに、12時半を回っている。
日本三大門の一つに数えられ、地上22メートルの威容を誇る、国宝南禅寺山門を訪れたいのだが・・・・・・。

境内を染める南禅寺の紅葉は、素晴らしいと聞く。
さらに、その先には、聞きしに勝る紅葉の名所、永観堂もある。
だが、足取りも重い我らは、ここでリタイヤし、散策道に別れを告げ、横町から広い街道へ出た。

あまり人気もない道だが、待つこともなくタクシーが流れて来た。
そして乗り込み、清水寺へ向かった。
さすがに観光都市の京都。

タクシーの運転手の口舌も滑らかに、通り行く名所の数々の説明も愉しい。
乗車して15程で、清水寺の参道へ続く清水坂前で、タクシーを降りた。
さすがに、京都を代表する清水寺への門前、凄い人出であった。


犇めく土産物屋さんや、お休み処に囲まれた、参道のなだらかな坂道を進むと広場に出た。
そこはすでに、清水寺の境内。
石段を上った広場では、団体客が記念撮影をしていた。

遠く平安遷都前より、日本有数の観音霊場であり、古来、西国三十三箇所巡礼行の、第16番札所でもある。
現在は古都京都の文化財として、ユネスコ世界遺産に登録されている。
世界に日本文化と伝統を発信する清水寺。

さすがに修学旅行の学生たちや外国人も多い。
広い石段を上り
入母屋造り、檜皮葺(ひわだぶき)、丹塗りの朱も鮮やかに、威風堂々とした仁王門が迎える。
楼門の左右には、像高が3.6メートルを超す、阿吽の金剛力士が控えていた。

棟高約14メートルの清水寺の正門・仁王門を潜ると、前方に三重塔が、秋日に照らされていた。
そしてその三重塔に向かい、階段をさらに上がると、正面に古雅な趣を湛える轟門が構えていた。
天上の棟木の下の扁額には、金文字で普門閣と刻まれていた。

ここで拝観料を払い、門を潜り中へ進む。
そこには広大な本堂が広がり、太い柱の奥に、紅葉した山を背景にして、清水の舞台があった。
遠い記憶の中の清水の舞台のイメージと、紛うことなく一致した。
 
舞台には、大勢の観光客や、修学旅行の学生たちで溢れていた。
舞台の欄干に手を寄せ、右の方面に目を映すと、音羽山の山麓の彼方、微かに霞んで、京都の市街地が見渡せる。
舞台の下を望めば、音羽山山麓の深い谷が、紅葉に燃えながら広がる。
 
清水の舞台では、紅葉した音羽山の木々を背景に、記念写真を撮る人たちで賑わっていた。
さすがに京都を代表する清水寺、内外の観光客が押し寄せていた。
清水の舞台の欄干に手を添え、眼下の先を見ると、3本の筧から、細く糸をひくような滝が、流れ落ちていた。
 
この滝は音羽の滝と呼ばれ、清水寺の名前の起源ともなっている。
或る日のこと、当時105歳にして壮健、清水寺の管主・大西良慶師(1875年- 1983年)は、長寿の秘訣を語った。
それは住職が毎日、ミネラルたっぷりの音羽の滝の水を、欠かすこともなく飲んでいるからではないかと。
 
その時以来、早朝の5時、観光客もいない静寂な内に、ポリバケツを持った参詣の人が、
音羽の滝の水を汲んで帰るのが、流行していると、瀬戸内寂聴著「寂聴巡礼」に書かれていた。
 
さすが、日本の大名水の筆頭格、延命水とも呼ばれているだけのことはある。
見れば、次々に参詣の人たちが、滝口で流れ落ちる滝水を、柄杓に受け、水を口に含んでいる。
左手に目を映すと、紅葉に抱かれるように、奥の院が見える。
 
寛永10年(1633年)徳川家光の寄進による再建以来、長い風雪を刻んだ柱に支えられた、高い天井の本堂には、霊妙な空気が流れていた。
その奥に毘沙門天立像と、地蔵菩薩立像を左右に、千手観音立像の三体の秘仏が安置されていると言う。
そして本殿前の回廊を進み、釈迦堂へ向かった。

回廊には太い柱が建ち並び、天上を支える木組みが、素朴で剛健な佇まいをみせる。
この柱が400年近い歳月を、変わることなく支え続けて来たのだ。
やがて回廊を出ると、左手に地主神社があった。
 
見上げれば、こじんまりとした朱塗りも鮮やかな、お伽のようなお堂が建っていた。
そこには何故か、若者達が溢れていた。
そのお堂は、かつて清水寺の鎮守社であり、創建は日本建国以前の、神代に起源を持つとも言われる。

 
社殿は、徳川家光が寛永10年(1633年)に造営し、明治の神仏分離により、清水寺から独立したのであった。
祭神は大国主で、現在は縁結びの神さまとして、若者達の人気スポットになっていたのだ。
境内には2つの守護石の「恋占いの石」が鎮座していた。


地主神社にお詣りを済ませ、石段を下りて、奥の院へ向かった。
やがて、遠方に先ほど訪れた清水の舞台が、燃え上がる紅葉の朱の中に見える。
その姿は、優雅で気品に満ちていた。
寄棟造りの寺は、左右に入母屋造りの翼廊を広げ、優美な姿で、昼下がりの斜光を浴びていた。
さらに進み奥の院の前を歩いて行くと、清水寺が谷へ張り出した舞台が、正面に姿を変えた。
眩い日射しを受けて、清水寺が朧に霞んでいた。

やがて展望がきくスポットに辿り着く。
そして紅葉に燃える清水寺を背景にし、それぞれに記念写真を撮っていた。
なだらかな上りの道も終わり、下りの道を、清々しい空気を吸いながら降りてゆく。
 
木漏れ日の落ちる、なだらかな小道を下り、見上げれば、澄んだ秋空の中、清水の舞台が、頭上高く広がる。
さらに進むと、清水の舞台から見下ろした、音羽の滝の前に出た。
滝へ続く石段には、音羽の滝水を汲む順番を待つ列が出来ていた。

その列の最後尾に並び、順番を待った。
程なくして滝口の前に来た。
細く糸を引くように流れ落ちる滝水は冷たく、口に含むと柔らかく、仄かに甘さが広がった。
柄杓を置き階段を降り下り、散策道を歩き見上げると、清水寺を支える欅の柱が聳えていた。
 
その柱の数は139本、横に渡した力柱には、雨よけの屋根が被さっている。
巨大な清水寺の舞台を支える柱には、一本の釘も使われることもない、懸造(かけづくり)の、豪快で荘厳な構造に威圧される。
高さ18メートルの清水の舞台で、紅葉を愉しむ人たちの顔は小さく、高く清澄な空が大きく広がっていた。

小文書によれば、1694年から1864年の間に、この舞台から234人が飛び降りたと記される。
その生存率は85パーセント。
だが明治5年に、政府は飛び降り禁止令を出したと言う。


見上げれば、背筋が寒くなるほどの高さ、まさにその行為は、自殺行為に匹敵する。
だが、飛び降りに成功すれば、その人の願いが、成就すると信じた人たちの、聖なる蛮行なのであったのであろう。
最年少は12歳、最年長は80歳を過ぎ、女性も3割もいたと言うのであるから驚きである。

 
清水の舞台にも別れを告げ、門前の坂に出ると、先ほど以上の人出であった。
さすがに清水寺、大勢の人たちが、ぞくぞくと坂を上って来る。

来た道とは違う坂道を下り、八坂神社に向かう途中、古雅な昔日の俤を残す町並みに出くわす。

その細い石畳の道の先に、五重塔が秋空を背に聳えていた。
しっとりとした風情を醸す道を進むと、五重塔の前に到着した。
その塔は聖徳太子創建、その後足利義数により再建された、法観寺の五重塔、別名・八坂の塔だった。
 
高さ46メートルの優美な姿は、京都東山の丘陵に建ち、優美な姿で、秋空に舞っているようであった。
そしてさらに続くなだらかな坂の彼方に、舞妓さんの姿があった。
ここは京都なのだなと、改めてしみじみと、遠い歴史への思慕を募らせる。