京都へ紅葉狩りA
嵐山天龍寺・渡月橋・清涼寺、そして大覚寺へ

2011.11.28
 
昨日の伏見稲荷から、東寺への旅はかなりハードだった。
あれ程に混雑しているとは、とにかく驚いたに尽きる。
今日はゆったりとした気持ちで、嵐山へ出かける。

ホテルを10頃出て、烏丸四条から、四条通を四条大宮まで歩き、嵐電に乗る。
昔懐かしい路面電車で、京都の市街地を進む。
やがて太秦映画村駅を抜けて、始発から20分程で、嵐山嵯峨駅で降りる。

踏切を越して、緩やかな上りの道を進むと、嵯峨野観光鉄道・トロッコ嵯峨駅に着いた。
構内はすでに大賑わい、搭乗券を購入する長い列が出来ていた。
我々も搭乗し、保津峡の渓谷沿いから、渓谷の紅葉を愉しみにしていたのだが、諦めることにした。
 
余りの混雑と時間待ちを聞いて、急遽、計画は変更。
天龍寺へ向かうことにした。

案内地図を持ちながら歩く人の流れに従い、暫く歩くと天龍寺の総門に出た。

東寺の南大門の剛毅さに比べれば、こじんまりとし華麗な気品を帯びている。
やはり門を潜る人の多さに、驚かされる。

この時期の京都は、何処へ出かけても、人で溢れているのであろう。
遠くから総門を眺めれば、門が額縁となり、遠くの紅葉し始めた山や、庭木の楓の朱色を映していた。
総門を潜ると、参道の石畳が真っすぐに、モザイク模様を描きながら伸びていた。
紅葉に包まれた参道を進み行くと、右手に竜宮城のような白亜の門が、「来福門」の扁額を飾り建っていた。

 
低い天井の門を潜ると、天龍寺の塔頭・慈済院が、素朴な佇まいで、正面に控えていた。
そのお堂は、元治元年(1864)の天龍寺大火を、幸運にも免れた、弁財天を祀る堂宇であった。
数々の戦火や火災により、京都に存在する歴史的な建物は、私たちが想像している以上に焼失している。
 
この慈済院の本堂は、天龍寺七福神の一つであり、室町時代の建築様式を色濃く残している。
参道を進み、石段を上り、大鈴を鳴らして手を合わせる。
そして参道を戻ると、右手に素朴な床几があり、腰を下ろし休んだ。
 
天龍寺境内の喧騒は、この堂宇の境内には響いてこない。
時折、唐様の門に惹かれて、参拝客が訪れる

そして、席を立ち山門を眺めると、門の奥は朱色に耀いていた。
 
門を潜り境内に出ると、先ほどの静寂が、別世界に感じるほど、賑やかであった。
境内は広く、木々が密集していないせいなのであろう、紅葉は散漫な風情を醸す。
見事な紅葉を愉しむのであるのなら、夢窓国師が、約700年前に作庭したと言われる、池泉回遊式曹源池庭園へ、行くべきなのであろう。
 
やがて、天龍寺の庫裏へやって来た。
白壁は木枠で升目に仕切られ、禅宗の建物であるにも関わらず、上高地にあっても不思議でない様な、モダンな景観を呈していた。
切妻造の庫裏は、明治32年(1899)に建立されたもので、台所兼寺務所の役目を持つ。

そこに住職を始め、家族の生活の空間があり、天井には煙り出しを持つ、特異な様式を持っている。
庫裏の前には、庫裏への拝観を待つ人の長い列が続いていいた。
さらに庫裏の前の広場横には、わが国で最初に、史跡・特別名勝に指定された、池泉回遊式曹源池庭園があった。


やはりその入り口には、入園券を購入する人の列が続き、垣根越しに園内を望むと、沢山の人たちが見物していた。
私たちは列に並ぶこともなく、少し残念な心を残しながら、足利尊氏を開基し、夢窓疎石が開山した、臨済宗天龍寺派の総本山・天龍寺を後にした。
境内の楓は日に照らされ、朱色はさらに鮮やかさを増していた。
 
屋根の甍の彼方には、秋色に色づいた小高い山々が霞んでいる。
参道の石畳を、背中に日を浴びながら、のんびりと歩きながら、総門を潜った。
そして次の目的地・渡月橋へ向かった。

 
程なくして、桂川の岸辺の道に出た。
川には川下りの猪牙舟に、屋根を付けたような姿の遊覧船が浮かぶ。
川面はきらきらと陽光に輝いていた。
 
遥か遠くを眺めると、渡月橋が見える。
橋の上には、沢山の人たちが歩いている。
その橋に向かう人、橋から戻って来た人たちが、岸辺の道路の歩道を行き交っていた。

 
桂川の水量は豊かで、流れも意外に早いようだ。
亀岡盆地から、京都盆地を抜け、淀川に合流する川の全長は、京都府最長の114キロメートル。
堰を流れ落ちる川水は、絹糸のような輝きで流れ落ちてゆく。

 
平安の往古から、数々の天皇や公家たちが、春は桜、秋は紅葉と謳い、この地で舟遊びをしたと言う。
紅葉の嵐山はさすがな人出。
人々の流れに従いながら、渡月橋へ向かった。

すると前方から、舞妓さんが歩いて来た。
正面から写真を撮りたかったのだが、余りにも近すぎるため、後姿を撮影した。
最近は個人情報保護とかで、写真を撮るのにも、面倒な気を使うことも多い。

やはり舞妓さんは、京都の象徴的存在なのであろう。
舞妓さんを見るだけで、時代が遥か昔に、遡るような感興を覚える。

やがて橋に近づくに従い、さらに賑わいは増し、橋のたもとには、股引き脚絆に菅笠姿の、人力車夫が客待ちをしていた。
 
そして渡月橋に辿り着くと、橋の欄干横の歩道は、人の波であった。
勿論、道路は公道、引きも切らない車が続き、人力車も走っていた。
橋から桂川を眺めると、きらきらと川面が銀鱗となって、煌めいていた。
 
その彼方の小高い山肌が、柔らかな色彩で紅葉してる。
渡月橋を境に、右手を大堰(おおい)川、下流の左手側が桂川となる。
承和年間(834年 - 848年)
僧・道昌が大堰川堤防を改築し、渡月橋を架けたと言われる。
 
下って戦国時代、京都の豪商角倉了以が、私財を投じて、現在の地に架け替えた。
橋を渡り切ると、前には旅館があり、広場には土産物屋や休憩所があった。
河原近くの土手に行くと、風もなく穏やかな日和、橋の上を人と車が溢れている。

 
広場をぶらりと散策したあと、来た道則を戻る。
渡月橋の賑わいの中、橋を渡り切ると、嵐山駅に続く街道は、たいへんな人混みであった。
道を挟む土産物屋や食堂などが犇めき、見物する人や買い物客などで、膨れ上がっていた。
 
街道を人力車が、お客様を乗せて走りぬけて行く。
説明の言葉は柔らかな京都弁で、爽やかに名所の解説をする声が流れて来る。
人力車夫の顔は日に焼け、精悍な印象を受ける。

 
どの車夫も若く、容姿端麗であった。
老婆心ながら、この若者たちは、何時までこの仕事を続けてゆくのであろうか。
それに季節や天候にも左右される、不安定な仕事であろうに等と、余計なことを考えてしまう。

 
そして、ぶらぶらと日和に誘われながら進むと、清涼寺の仁王門に到着した。
見上げれば華麗な姿の二層の楼門は、安永6年(1776年)に再建され、楼上には十六羅漢像を祀っている。
門の左右には、朱塗りの大きな阿吽の金剛力士像が構えていた。
楼門を潜り真っすぐと参道を進むと、左手に多宝塔(たほうとう)が優美な姿で建っていた。
元禄13年(1700年)頃、江戸に始まり各地へ、清涼時のご本尊の出開帳が行われた。
その時、江戸の奇特な大勢の人々が、この多宝塔を 寄進し建立した。
寺院の秘仏は、本来は決められた縁日や、御開帳の周年に、寺院内で開帳される「居開帳」(いがいちょう)である。
江戸時代になると、様々な所へ出張し、御開帳する「出開帳」がはやっていた。
  
それ程に大きな塔ではないが、境内の隅に密やかに、均整のとれた姿で、澄み切った青空に映えていた。
多宝塔の中には、多宝如来を祀り、東を向いて建っている。
その多宝塔の裏手に回ると、
疎林の中、寂しげな墓所の宝篋印塔があった。

それは源融(みなもとのとおる822年ー895年)の墓所であった。
嵯峨天皇の十二男にして、河原左大臣(かわらのさだいじん)と謳われ、「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルの一人であると言われる人物である。
さらには下って、世阿弥作の能「融」にもなった、大納言の墓所にしては、いささか簡素で、素朴な佇まいであった。

そして、多宝塔を後に、境内を進み
元禄14年(1701)に再建された、本堂(釈迦堂)の前に出た。
そのお堂の中には、三国伝来栴檀瑞像、釈尊の生身のお姿を写したと伝わる、
釈迦如来像があり、その前
法然上人は7日間参籠し、衆生のために祈念したという。
  
本堂の階段を上がり、靴入れへ靴を納め、素足で廊下を歩く。
本堂の正面の天井下の欄間には、
栴檀瑞像の扁額が、藍色の中に金彩で浮き出ている。
さらに廊下を進むと社務所があり、そこから境内見渡すと静寂を湛えていた。
拝観料¥400円を払い中へ入ると、高い天井の下に、薄明かりの中、荘厳な空間が広がっている。

 
その中央正面に、「三国伝来の釈迦像」と呼ばれている木造釈迦如来立像が、仄かな明かりの中にたっていた。
板の間に進み尊像を間近に見れば、その顔は柔和で、高雅な気品に溢れ、静かに瞑想しているようである。
高さ160センチの像の衣文は、肌を包むように流麗に流れていた。

 
開祖「然(ちょうねん938−1016)は中国から帰国の時、釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという尊像を模造し日本に持ち帰った.。
その像はインドからヒマラヤ山脈を越え、遥々と中国へ伝えられたと言われる、「三国伝来の釈迦像」であった。
その時、五人の中国の尼僧は、絹布で縫われた五臓六腑等を、釈迦如来像の体内に納めた。

そしては長い歳月の後、納められた五臓六腑等が、昭和28年に発見された。
その時、千年の昔、すでに内臓が腑分けされていたことに、医学関係者は愕かされた。
本堂の左に位置する、展示されている、肌色の五臓六腑等を見るにつけ、千古の昔が蘇る。
さらに奥の
脇壇には、厄除地蔵尊が、ほの灯りの中に祀られていた。
そして、本堂の中央に戻り、東側に位置する、開祖・「然の木像に手を合わせ、本堂の裏手にある渡り廊下へ出た。
するとそこには、鮮やかな紅葉が広がっていた。
他にはほとんど人はおらず、静寂が漂っている。
 
廊下の板を踏みしめ、古の歴史を懐古しながら進むと、正面の水面に紅葉が映っていた。
その池に石橋が架かり、宝形造の屋根に、正面を唐破風の弁天堂が見える。
渡り廊下は右手に折れ、さらに進み、小さな階段を下りると、そこは書院。
 
書院の廊下に腰を下ろし、手入れの行き届いた庭を眺める。
昼下がりの華やかな陽光に、庭の木々の黄葉と紅葉が秋を綾なしていた。
庭石は苔の緑に包まれ、木々の秋色と、趣のある対照をなしていた。

  
人気のない書院で、ゆったりと紅葉を愉しみ、静謐な空気を吸い込み本堂へ戻った。
渡り廊下の軒下を見れば、屋根から鐘が釣り下ろされていた。
扉を開け、薄明かりの本堂へ戻り、五代将軍綱吉の生母、桂昌院の遺愛の品が並ぶ展示室を見て、本堂を出た。

本堂の前の廊下の板を見ると、木目の中に、節が瘤のように浮き出ていた。
長い歳月の間、数え切れないほどの、多くの人がこの廊下を踏みしめたのだ。
柔らかい木の部分が擦り切れ、石のように固い節が、レリーフのように残ったのであろう。
まさに、この盛り上がった節が、長い歴史を証明しているのだ。


清涼寺境内に出て、境内を散策する。
すると左手に、京都名物のお豆腐料理の店があった。
庭先のテーブルを囲んで、4人ほどのお客様が、料理を摘まみながらお酒を飲んでいた。


緋毛氈を敷いた長床几で少し休んだ後、二層の楼門を出て、大覚寺に向かった。
傾き始めたとはいえ、まだ秋の日射しには力がある。
のんびりと鄙びた道を進むと、道端に黄色と朱色も鮮やかな、観賞トマトが生っていた。
さらに進むと、コスモスが清楚な佇まいで咲いていた。
やがて、遠くに大覚寺が見え、門を潜り境内へ。
境内には、常緑の松が地面すれすれに、数メートルの枝ぶりを見せていた。

平安時代の昔、この地に嵯峨天皇が離宮を建て、皇后との新居とした。
そして嵯峨天皇と親交も深い空海も、敷地の堂宇に安置された、五大明王のもとで、修法に励んだとも伝わる。

下って鎌倉時代後期、大覚寺統持明院統が、交替で帝位着いたが、やがて分裂し南北朝に分かれた。
やがて元中9年(1392年)のこと、大覚寺に於いて、講和会議が開かれ、南北朝が統一された歴史を持つ。
 
現在も天皇か皇族が住職に就く特定の寺院、格式の高い門跡寺院となっている。
境内は物音もなく、静謐な空気が漂う。
すでに、秋日は傾き始め、静寂を増していた。


境内を出て遠くを眺めると、石橋の彼方に、緋毛氈の床几が見える。
その床几に座り、景色に魅入る人や、カメラに収める若者たちがいた。
嵯峨天皇が憧れの地、遠く中国にある洞庭湖に倣い築いた、日本最古の庭池・大沢池の水面が光っていた。