秋を待つ、草津を訪ねて
2011.09,11

初めて草津温泉を訪れたのは、5年くらい前だろうか。
6月の梅雨時、どんよりと厚い雲が垂れ込め、しとしとと雨が降り落ちていた。
だが翌日は晴天、草津から険しい峠を越え、初夏の白根山へ行った。
その時はまだ、白根の山々に、雪が残っていたのを思い出す。

今年は早い秋の訪れを待つ9月に、再度、草津を訪れた。
一路関越を下り、渋川伊香保ICで降り、中仙道を進み、四万川沿いを進む。
四万川の清流は水量豊かに、朝の陽光に水面を輝かせながら、ゆったりと流れゆく。

やがて緑の深い山道を、時折の木漏れ日を愉しみながら、エンジン音を響かせながら、上り進むと草津に着いた。
さすがに草津、すでに浴衣姿の人たちが、タオルオを持ち、からからと下駄の音をたてながら歩いていた。
早朝の外湯を、浴びに行くのであろう。
 
湯畑からは、懐かしい硫黄の匂いが立ち上り、湯煙りがゆらりゆらりと揺れ流れる。
湯畑を望むと、緑青色に溢れた湯水の中、真っ白に湯の花が固まっている。
遠くを眺めると、旅人達が足湯に足を入れ、のんびりと休んでいる。
 
私たちは、今日、宿泊する予定の、湯畑前のホテルに出かけ、車と荷物を預かって貰った。
そしてタオルとバスタオルを借りて、早速、外湯めぐりに出かけた。
勿論、最初は、湯畑前の外湯、鎌倉幕府を開いた、源頼朝が発見したと伝えられる白旗の湯へ。

源氏の白旗に因んで命名されたとも伝えられる、湯畑の元湯的存在の白旗の湯。
外湯はまだ静かな佇まいをみせていた。
中に入ると、すでに先客が数人いた。
浴室は1間半四方位の木造り、年季の入った風呂は趣がある。
まずは身体に、背中から湯をかけ、さらに頭から湯を浴びる。
相変わらず、驚くほどの熱さだ。

そして、湯の中に、気合を入れて浸かる。
身体中に熱い湯が沁み込み、じわりじわりと、五体が熱さで縛られるようになる。
向かいにはすでに、私より少し若い、小太りの男性が、顔を真っ赤に紅潮し、額に汗を流しながら肩まで浸かっていた。

後から入った私は、まずは、対面の男性が出るまで、肩まで浸かり我慢することにした。
私の体感では、湯温は47度位はあるのではないだろうか。
だが、前回入湯した時よりも、湯温の熱さに、身体が適応しているような気がする。

きっと歳を取った分だけ、体感が鈍くなっているのであろう。
だが、熱いことには間違いない。
暫くすると、前の男性が、我慢もこれまでと、ざぶりと湯から上がった。

私はやったぞと思い、湯から出た。
そして、木目が浮き出た壁に背中を預け、暫く休み、また湯の中へ。
先ほどの入浴で、身体がだいぶ、慣れて来たのであろうか。

熱いことには間違いないのであるが、その熱さが気持ちよく感じれた。
天井を見上げれば、真っすぐに、太い柱の木組みの湯煙り抜きが伸びていた。
やはり、外湯のこの風情が、旅人の旅情を膨らませてくれる。
 
白旗の湯は、かつての来た時の草津の湯の記憶を、はっきりと思い出させてくれた。
湯から出て着替え、外に出ると、湯畑は賑わいを増している。
そして次の外湯、千代の湯へ向かった。
 
岡本太郎が設計したと言う湯畑風景、湯の花を集めるたくさんの箱を眺めながら進み、遊歩道の階段を下りると、かつての大滝の湯。
赤茶けた岩肌に緑の苔が生え揃う間を、幾つもの白糸となった滝が、流れ落ちていた。
その左端の方に目を移すと、木桶の中を、勢いよく熱湯が流れ落ちていた。
その後ろの苔の緑と、湯の花の真っ白な結晶がこびりついた岩から、湯量の多い滝が流れ落ち、湯けむりで霧のように煙っていた。
約23,300リットル/分の湯量は、日本一を誇り、標高1,156mにある草津温泉のシンボルである。
この場所に、1960頃まで、大滝の湯と呼ばれた、草津で唯一、番台のある外湯があったのだ。
すでに草津には秋の気配が漂う。
湯の滝を見渡す広場の前には、ススキの穂が微風に揺れていた。
滝壺に溜まった湯はエメラルド色に染まり、湯面が陽光に煌めいていた。
 
迸る湯滝、噴き上げる湯煙りが、辺りを硫黄の臭いで包む。
この湯滝から滝下通りを下ると、草津の昔の風情を醸し出す「和風村」の一角に出る。
狭い道を挟んで、草津特有の「せがい出し梁造り」の黒い出梁に、出桁と白壁のコントラストが美しい。
さらに窓に施した、幾重にも連なる千本格子が、江戸時代の昔へ思いを運んでくれる。
かつて、この湯畑を中心にした草津温泉には、60軒を越える湯宿が犇めき活況を呈していた。
さらに幕末へ下り、「草津千軒江戸構え」とうたわれるほどに、さらなる繁栄を享受していた。
するとその湯宿街の中に、千代の湯がひっそりと建っていた。
がらりと入り口の扉を引き開けると、簡素な脱衣所があり、服を脱ぎタオル1本を持って湯船へ。
身体を軽く流し、湯に身体を馴染ませ、石造りの飾り気のない湯船の中へ、ゆっくりと浸かる。

湯は無色透明でやはりかなり熱く、微かに硫黄臭が漂い、湯質はさっぱりとして爽やかでさえある。
すでに湯客が2人おり、小さな湯船には程良い人数であった。
草津特有の熱い湯、だが先ほどの白旗の湯に比べ、泉温は低く感じる。

人間の環境への適応力も、たいしたものだなと、我ながら感心する。
出たり入ったりの3回程で、千代の湯を出る。
玄関傍にある大きな甕に流れ落ちる湧水を汲み、ごくりと呑みこむと、口の中にふわりと広がった。

風呂上がりの湧水は甘く、火照った身体の中に沁み落ちていった。
湯畑の周囲に比べれば、この界隈は意外に静かで、ひっそりと湯の町の情緒を醸し出している。
さらになだらかな下りの道を歩き行くと、煮川の湯が控えめに建っていた。

木戸を開けて中へ入ると、小さな階段があり、数段下りると左手に木戸があり、戸を引くと脱衣所があった。
四角く仕切られた木棚に服を脱ぎ、浴室へ。
中には1人だけ先客がおり、挨拶をする。

身体に湯を掛けると、恐ろしい程に熱かった。
ぐっと気を入れ、昔ながらの木造りの小さな湯船の中へ。
煮川の湯とはよく言ったものだ。

煮えるほどに熱い湯と、言うことなのであろう。
湯は無色透明で、微かに硫黄の臭いが漂う。
とにかく熱いのだが、我慢をしていると、身体にだんだんと馴染むから不思議だ。

突き刺すような熱さが、身体の中の活力を呼び覚ましているようで、だんだんと気もちぃ良くなる。
人間の治癒力や免疫力も、このように外からの強い刺激により、強化されるのであろう。
痩せ我慢の頑固者は、都合3回、熱湯と格闘した。

湯から上がると、脱衣所の空気が涼しく感じられた。
服を着て、階段を上がり、扉を開けて外へ出た。
微かに流れる風が、火照った肌をやさしく撫で過ぎていった。

さらに左手奥の日帰り温泉・大滝の湯を眺めながら進み、路地を右手に折れ、なだらかな上りの道を進むと、足湯がある広場に出た。
足湯に足を入れ、のんびりと気持ちよさそうに休んでいる人たち。
その奥には源泉が湧き出る湯池があり、柵越しに覗くと、湯苔のような温泉藻で、エメラルド色に染まっていた。

そして湯池の奥には、由緒のありそうな、古めかしい小さな地蔵堂があった。
木の階段を上り、お賽銭を添え、垂れ下がる紐を引き、鰐口を鳴らし手を合わせる。
歴史を紐解けば、このお堂は文化5年(1808)に建立され、葛城山常楽院という修験道のお堂であった。

そして本尊である石の地蔵は、木曾義仲の護持仏であるとも伝えられ、25センチほどの小さな姿で鎮座していた。
階段を下りて左手を見れば、地蔵の湯の建物が見える。
建物の中に入ると、何故か順番を待つ人たちが大勢いた。

きっとこれから開く外湯を、待っているのであろう。
私も列の後ろに並んで待っていると、扉が開き列が動き始めた。
そして列の人が、次々と扉の中に消え私も中へ。

すると私に熟年の男性が、「ここは湯治の人だけですよ。一般の人はあちらです」と指差して教えてくれた。
外に出て、指差された所を見れば、共同浴場・地蔵の湯の入り口があった。
扉を開けて中へ入ると、そこは湯船と脱衣所が一緒になった浴室だった。

浴室は広く清潔感が溢れ、爽やかに外光が室内を明るく照らす。
浴室の床は茶色い板張りで、滑り止めと水きりの切り込みが入れてあった。
長方形の広い湯船には、先客が3人ほど浸かっていた。

身体を軽く湯で流し中へ。
湯は透明でそれ程臭いもなく、今までの外湯の中では、明らかに湯温は低く、身体を撫でるように柔らかく感じる。
それでも普段の湯の温度から考えれば、相当に熱いはずなのだが、草津の湯の温度に慣れたせいなのであろう。

人間の感覚とは、慣れることにより大きく変わり、感度とは比較の問題なのであろう。
江戸の寛政の頃、徳兵衛さんは眼病気を患い悩んでいた。
或る時、地蔵菩薩が夢枕に立ち、地蔵の湯で眼を洗えば、たちどころに眼病は治ると告げた。

徳兵衛さんは早速、お告げの通り、地蔵の湯で眼を洗うと、眼病は不思議なことに治ったと伝えられる。
それ以来、人々は地蔵菩薩の功徳を称え、この地に目洗い地蔵を建てた。
お湯を両手で掬い眼を洗うと、眼の中が少しひりひりと滲みる。

やはりこの滲みる感覚が、眼病を治す力を持っているのであろう。
草津の湯は、眼病に効くと言われる。
それ故に、草津には1軒の眼医者もいないと聞いている。
 
地蔵の湯を出ると、日は中天にのぼり、強い日差しを降り注いでいた。
少しばかり裏寂しさを感じさせる、湯の町のなだらかな上りの細い路地を進むと、湯畑に戻った。
湯畑の湯煙りが、草津特有の強い硫黄の臭いを、辺り一面に漂わせていた。

昼時となった湯畑は、さらにたくさんの観光客が押し寄せ、観光地らしい賑やかさに溢れていた。
白旗の湯に目をやると、何台ものバイクが停車していた。
季節のよい時期、外湯を求め、多くのバイカーが、湯めぐりのツーリングするのである。
早朝の外湯めぐりを終え、ホテルに戻り、タオルを預け、カメラと三脚を持って、草津巡りを始めた。
そして最初に、湯畑を見渡すことの出来る、真言宗豊山派の寺院、山号草津山、関東薬師霊場第四十四番札所である
光泉寺
出かけた。
湯畑から100メートルほどの距離に、湯畑の源泉がごぼごぼ湧きでる湯池の近くに、お寺への階段がある。
かなり急峻な階段を上ると、朱色の山門があり、門構えの木棟の下に、草津山の扁額が見える。
そして、門の両脇を、厳しい顔をした阿吽の仁王像が護っていた。
門を潜りさらに上ると、さほど広くない境内に出るも、静寂の中、人影はほとんどなかった。
 
境内を少し進むと、右手奥に釈迦堂が見えた。
元禄16年(1703年)、江戸の医師外嶋玄賀宗静の発願により、草津村湯本弥五右衛門が施主となり創建したと伝えられる。
草津の厳しい自然に晒され、こころなしか色あせた朱色の二間四面のお堂。
屋根は茅葺で、茂る木々の緑と、しっくりと調和していた。
 
お堂の中には、奈良東大寺公慶上人作の本尊が置かれている。
、東大寺大仏修造に貢献
した上人が、修復の折、大仏内腹の骨木から、2体の釈迦像をつくった。
その内の1体が、この釈迦堂に納められたのである。

だがそれは伝説として定だかな証拠はなかったのであるが、300年後の平成17年に、それが事実である事が証明された。
それ故、現在は「遅咲き如来」として、改めて大いに信仰を集めている。
するとママ、「遅咲き如来」の由来を記した説明板を見て、「貴方もお祈りした方がいいわよ」と。

これからでは遅咲き過ぎると思いながらも、鰐口を鳴らし手を合わせた。
そして参道を戻り、境内へ出る。
正面に先ほど見た拝殿が、強い陽光に照らされ屋根が眩い。

参道を真っすぐに進み、お賽銭を納め、手を合わせる。
この寺は721年(養老5年)に、僧行基により創建され、日本温泉3大薬師の1つとして有名である。
行基はここで万病に聞くと言う温泉を発見し、その温泉を守るために、薬師如来を刻み、草津山光泉寺を開基し祀った。
 
その湯は人々の病を癒し、「慈悲の泉」と呼ばれ、人々から崇敬を集め、草津温泉郷として発展していった。
参拝を済まし境内を戻り、先ほどの階段に出る。
行き交う人たちも少なく、階段は静かな佇まいをみせていた。
 
左手に目をやれば、朱色の鐘楼があり、その彼方に湯畑が広がっていた。
時間は12時半頃、湯畑前には、さらに多くの観光客が押し寄せていた。
ゆっくりと一段ずつ階段を下り、山門を潜り湯畑の源泉が湧出する、エメラルド色に染まる、先ほどの湯池
の前に辿り着いた。
 

さらに白旗の湯の前から、温泉旅館の間の狭い路地を進むと、土産物屋や食堂が建ち並んでいた。
名物の温泉饅頭を売る、客引きの小父ちゃんや小母ちゃんたちは元気だ。
試食に饅頭を丸ごと1つくれ、店の中ではお茶のサービスもしてくれる。

 
中へ入ってお茶まで頂けば、手ぶらでは帰れない。
申し訳ないと思い、土産に饅頭を買ってしまう。
前回の経験から、今回は試食なし、お茶なしで通過した。

 
これから先、西の河原園池に行かなければならないので、荷物をつくりたくなかった。
すでに1時、途中、蕎麦屋に立ち寄り昼食を摂った。
そして一休みして、目的地の自噴源泉へ向かった。


のんびりとカメラを手に、川沿いの道を進むと、硫黄の臭いが漂って来る。
前方に西の河原園池の看板が見え、その先に荒涼とした風景が広がる。
だが、前回来た時に比べると、西の河原園池はかなり整備されていた。

あちらこちらに、深緑の浅い池の淵に腰を下ろし、足を付けて休んでいる老若男女。
気持ちよさに、思わずこぼれる笑みをたたえて休んでいる。
湯の中に手を入れてみると、意外にも湯は熱くなかった。

奥の源泉から流れ来る湯川の水量は、溢れるように豊かに流れ落ちてゆく。
河原から散策道に戻り進むと、鬼の湯釜があった。
緑の温泉藻で翠色に染まる湯池の中に、たくさんの1円玉、5円玉や10円玉が投げ入れられていた。
見れば、玉銭の中が抜け、縁だけ残したリングのようになっている。

pH2前後の強酸性温泉、1週間ほどで、金属が溶け落ちてしまうらしい。
温泉に手を入れてみると、湯温は想像したよりぬるかった。
前回来た時、手を入れてみたら、火傷するほど熱かったことを思い出す。

やはり3月11日の地震の影響なのであろうか。
流れ出る湯量も、心なしか少なくなっているような気がする。
鬼の湯釜という恐ろしげな名前も、ぬる湯では返上しなければならないかもしれない。
 
そしてさらに進むと、草津穴守稲荷神社の朱色の鳥居の前に出た。
急峻な階段を上がった先に、お稲荷さんのお堂が建っている。
ママは階段を上り、お参りをして階段を下りて来た。

手には縁起物のお砂を入れた紙袋を持っていた。
河原には陽光が柔らかく降り注ぎ、でこぼこした散策道を、三々五々、のんびりと人々が歩いている。
私たちも河原に出て、緩やかな上りの道を歩く。
西の河原、発音の音だけ聞けば、賽の河原と響きは同じだ。
この荒涼とした景色は、娑婆と冥府.を分かつ聖域の趣がある。
やがて上りの道の終着地辺りに、不動明王の石像が建ち、その後ろには、滝が岩肌を濡らしながら流れ落ちていた。
 
その流れ落ちる滝壺に手を入れると、お湯ではなく冷たい水であった。
そしてさらに少し進むと、西の河原大露天風呂があった。
ここの湯は尽きることもなく湯元から流れ溢れる、大量の源泉に満ちた野性味に満ちて、豪快な露天風呂と聞く。
露天風呂の入り口には、入湯する人たちで賑わっていた。
何時の日かまた草津に来た時は、この野趣溢れる温泉に浸かりたいと思いながら、露天風呂を後にして戻りの道を下った。
やがて視界が開けた彼方に、先ほど来た河原の風景が広がり、湯池でのんびりと足湯を愉しむ人たちが見える。
 
すでに時間は午後2時半を回っていた。
これからぶらりぶらり、昼下がりの降り注ぐ陽光を浴びながら歩き行けば、予約したホテルに、チェックイン出来る時間になっている。
そして部屋で一休み後、ホテルの露天風呂を、ゆっくりと味わうことにする。
 
昼下がり、湯畑の眺め
湯畑の夜景