木県那須茶臼岳・八幡崎ヤマツツジ園&殺生石を訪ねて 2011年5月22日 爽やかに晴れ渡る、早朝の那須高原を抜け、上りの坂道を進む。 道沿いの木々の若葉が眩いほどに、朝の陽光を浴びながら、微かにそよいでいる。 遠くに聳えていた山々の山肌も露わに見え始め、やがて目的地の茶臼岳東野交通那須ロープウェイの山麓駅に到着した。 (那須ロープウェイ:栃木県那須郡那須町大字湯本字那須岳215) 時間は7時、まだ始発時間の8時には時間があった。 駐車場には何台かの車が、すでに停車をし、車内で始発を待っていた。 せっかくの好天気、茶臼岳は真っ青な空を背景に、荒削りな山肌を見せていた。 所々に色落ちしたような、灰色まじりの白い残雪を残していた。 標高1900メートルは、やはり尋常な高度ではないのだろう。 降り注ぐ陽光に誘われながら車から降りると、清涼な空気が流れていた。 駐車場から道路を渡ると階段があり、それを上ると石畳が続く。 その上りの道は、茶臼岳へ続く山道のようだった。 入り口には幾つかの簡素な、丸太を割って造った長椅子が置いてあった。 そこに横になりながら空を仰ぎ、微かに流れ来る風を愉しむ。 澄んだ空気の中、朝の陽光が顔を照らし、肌が少し痛いほどだ。 毎日の生活が夜行性の身にとって、強い朝の陽光を浴びるだけでも、感謝の気持ちが湧いてくる。 階段を降りて、道路を渡り、ロープウェイが運行する那須山麓駅へ。 那須山麓駅前の広い駐車場脇に、黄色いタンポポの花が、可憐に咲いていた。 顔を近づけて見ると、黒い小さな虫が花にとまっていた。 駅の中に入ると、構内には人はいず、閑散としていた。 そして時刻表を見れば、始発は8時半とあった。 さらに30分の待ち時間が出来てしまった。 物音もない静かな構内から外に出ると、那須連山の主峰茶臼岳が、荒々しい山容を見せながら屹立していた。 清々しい空気を吸いながら駐車場に戻ると、さらに車は増えていた。 そして軽装備の登山姿の人たちが何組もいた。 やがて、ロープウェイの案内が放送された。 車を置いて駅に行き、構内へ入ると、すでに売店は開かれていた。 往復1100円の搭乗券を購入し、出発5分前に改札が始まり、7合目に位置する那須山頂駅へ行くロープウェイへ向かった。 全長812メートル、高低差293メートル、最大勾配29度、運行時間4分弱、 乗車定員111人乗り(車掌1名含む)のロープウェイは、ゆっくりと音もなく滑るように動き始めた。 すると驚いたことに、高度をあげるやすぐに濃い霧に霧包まれ、進行方向を見れば、霧はさらに深くなっている。 本日の頂上の天候の状態は極めて不安定であり、山頂駅から頂上へ登る登山客へ、構内放送で注意を呼び掛けていた事を思い出す。 後方を見渡せば、那須山麓駅はみるみるうちに小さくなり、霧の中に消えて行った。 前方を見渡せば、山頂は霧に煙り、眼下の岩肌さえ見えない。 先ほどまで、那須山麓駅から見た、あの真っ青な空に浮かび上がっていた茶臼岳の雄姿は、何処へ消えたのであろうか。 山の気象の変化に、今さらながら驚かされた。 僅か4分弱の空中遊泳の旅が終わり、9合目に位置する終着駅に到着した。 高低差293メートルとはいえど、かなり気温が違うようで肌寒い。 駅構内を出て、展望台へ行く。 晴れているならば、絶景の大パノラマが広がるはずなのだが、今はただ灰色の霧が広がるだけだった。 そしてこの時期、彼方の八幡崎に、八幡ツツジが朱色や薄桃色の絨毯になって、山肌を染めているという。 だが今は濃霧の中を、たくさんのイワツバメが、霧を切り裂く様に、飛び交っているだけだった。 展望台から駅構内へ戻り外へ出ると、深い霧の中、強い硫黄臭が漂う。 見上げれば、関東唯一の活火山、茶臼岳の山頂に続く岩肌は、荒涼とした風景を晒す。 かつて噴火した時、溶岩流や火砕流に抉り取られた山肌がその激しさを物語っていた。 そしてその霧の中を、登山者たちが列をなしながら、山頂へ続く登山道を上り、霧の中へ消えて行った。 時折霧が切れ、強い陽光が振り落ちる。 だがその光は、束の間に消えた。 18分ごとに上って来るロープウェイに乗り、次の乗客たちが降りて来て、山頂駅は賑やかになった。 登山愛好グループなのであろう、駅の前で準備体操をしてから、頂上を目指して山道を登っていった。 早朝のこの時間、殆どの乗客は登山客のようだ。 乗客は私たちだけの貸切だった。 そしてにこやかな車掌さんと話しながら、山麓駅へ降りた。 ロープウェイを降りて、山麓駅構内の切符売り場の女性に、次の目的地への案内をしてもらった。 女性は説明の後、せっかくのロープウェイなのに、何も見えなくてご免なさいねと、優しく謝られた。 ここの駅員たちは、さりげなく爽やかな笑顔が気持ちがよかった。 構内から外へ出ると、山頂の天候が嘘のように、爽快な青空が広がっていた。 駐車場へ行くと、車の数がさらに増えていた。 きっとこの車の元へ、先ほど登山に向かった人たちが、ふたたび戻って来ることだろう。 そして、女性が教えてくれた通り、県道17号を少し下ると、那須七湯の一つ、大丸温泉があり、 左にハンドルを切り緩やかにカーブする下り坂の先に、八幡ツツジ園があった。 (那須七湯:那須湯本温泉・湯本温泉・大丸温泉・北温泉・高雄温泉・板室温泉・三斗小屋温) 駐車場に車を停め、木造りの散策道を歩く。 天気予報によれば、今日の栃木県は、午後から本格的な雨になるらしい。 だが幸いにも今は快晴、雨の気配はなく、清々しい空気に溢れている。 だが山の天気に油断は禁物、何時天気が崩れるか分からない。 ここ八幡ツツジ園は、栃木景勝100選、かおり100選にも選定される景勝地である。 23ヘクタールの広大な園内には、20万本のヤマツツジやレンゲツツジが咲き匂う。 園内には3.6qにわたる散策路が整備され、所々に展望台が造られている。 その散策道をくまなく周遊すると、約1時間15分位かかるらしい。 那須町公式ホームページの開花予想は、本日の22日頃からとあった。 だが、まだまだ開花には早いのであろう、私が見た処、3分咲きくらいであろうか。 それにしても、この広大なツツジの群生は見事である。 だが今咲き始めているピンク色のヤマツツジには、強い毒性があるのだそうだ。 その毒性ゆえに、かつて牛や馬の放牧地であったこの地が、牛馬が食べ残してくれた結果として、壮大な花園が誕生した。 つぼみの様子が、蓮華に見えることから、レンゲツツジとも呼ばれ、牛や馬が食べ残すことから「ウマツツジ」「ベコツツジ」の別名をもつ。 この花園はまさに偶然が生み出した、壮麗な群生なのだ。 散策路を歩く人たちが時折立ち止まり、それぞれにアングルを考えながら写真を撮っている。 さらに進むと、散策路を包むように、色とりどりのツツジが咲いていた。 満開を待ちきれない大勢の見物人が、整備された散策路を行き交う。 薄紅に咲くヤマツツジの花弁が、強い日差しを浴び、さらに紅を鮮やかに色どり、長く伸びた花心が微風にそよぐ。 まさにここは鮮やかな色とりどりに染まる花の海。 展望台に上り、遠く眺めれば、那須連峰が聳え、茶臼岳や朝日岳は厚いい霧に霞んでいた。 展望台を降り、花の匂いに包まれながら、降り注ぐ陽光を愉しみながら進む。 するとテレビで見慣れたお年寄りが、白いワイシャツにズボン姿で、ビニールのサンダルを履きながら、ゆっくりと展望台に向かって歩いて来た。 すれ違う時、その人は民主党の御意見番、渡部 恒三氏であった。 彼の選挙区は山を越した福島県の会津。 選挙区の後援会の人たちと一緒なのだろう、セキュリティーもいない、和やかな雰囲気で花々を鑑賞していた。 そして戻りの散策路を歩い行くと、年配の女性たちが、木道の散策路から身を乗り出し、漏れるような感嘆の声をあげていた。 薄紫に白で化粧したその小さな花は、可憐にそして楚々としていた。 名前を聞いてみればイワカガミの花と言い、高山植物に疎い私は、初めて聞く花の名前だった。 そして9時半に始まった早朝の八幡崎ツツジ園の散策は、約一時間の周遊で終わった。 陽光はますます強く輝き、身体にはうっすらと汗が滲んでいた。 そして駐車場に戻り、本日宿泊予定の那須湯本へ向かった。 緩やかにカーブしながら、下りの高原の道は爽快である。 およそ15分程で、目的地の殺生岩前の駐車場に到着した。 駐車場から遠く眺めれば、硫黄の臭いが漂い、赤茶けて荒涼とした風景が広がる。 その手前には湯川の細い流れが、小さな滝になって流れ落ち、陽光を浴びて水面が煌めいていた。 湯川に掛る広い「いでゆはし」を渡ると、木造りの散策道が伸びる。 ことことと靴音を響かしながら、240メートル先の殺生石に向かい進む。 この辺りは那須の湯元に辺り、近くには有名な古湯「鹿の湯」も湯川沿いにある。 1300年ほど前のこと、茗荷沢村の住人・狩ノ三郎行広は、白鹿に矢傷を負わせ、白鹿を追いつめた。 だが逃げ延びた傷ついた白鹿、山中の温泉で傷を癒していた。 狩ノ三郎行広がその時発見した温泉が、「鹿の湯」と伝えられる。 白鹿を射止めた三郎は、発見した温泉近くに、温泉神社を建立し、崇敬の誠をつくしたと言われる。 散策道を進むほどに、硫黄の臭いは強く、散策道を挟んで、ごろごろと大きな溶岩石が威容を晒す。 さながらこの世の果て、地獄谷の様相を見せる。 すると左手前方に、赤い被りと襟巻を着た、石地蔵群が見えた。 その名前は那須の千体地蔵。 那須町芦野の石工・櫛田豊櫛田豊の手により、昭和50年頃に始まり、30有余年の歳月をかけて彫り上げられた、700体以上の石地蔵群であった。 おおらかに掘られた顔には、あどけなさが残り、ほのぼのとした表情を浮かべていた。 このような寂寞とした場所にあるお地蔵さんには、不気味な風情が漂うものだが、どこか懐かしい親しみさえ感じる。 地蔵の衣の襞は柔らかく流れ、顔の前で合掌する大きな手には数珠が掛け、「大きな御手の地蔵さん」と呼ばれ慕われている。 さらに行くと、ひと際大きなお地蔵さんが、千体地蔵群を守るように鎮座していた。 そしてそのすぐ近くに、教傅地獄があった。 説明板を読めば、1318年の第96代後醍醐天皇の頃、奥州白川在の五箇村に、蓮華寺と言う寺があり、教傅(伝)と言う住職がいた。 子供の頃から乱暴者の教傅は、28歳になり蓮華寺の住職になるが、狼藉はいっこうに治らなかった。 亨元元年(1336年)、教傅(は友人と連れ立って、この那須の地へ湯治にやって来た。 すると今まで晴れ渡っていた空は、俄かにかき曇り、雷鳴が天地を揺るがし、大地から火災熱湯が噴出した。 天罰を受けた教傅は、逃げることも出来ず、火炎地獄の中、息を引き取る。 その教傅が呻き苦しみながら死んだ場所には、ぶつぶつと泥流が湧いていたが、その後山津波に飲みこまれ、跡かたもなく消えた。 だが下って享保5年(1721年)、那須湯元の有志が、教傅の供養のために、この地に地蔵を建立した。 それ以来、親不孝への戒めとして、多くの人が教傅地獄跡を訪れるようになったという。 殺生石の前に着いた時、今までの晴れ空が俄かに曇り始め、空からぽつりポツリと雨が落ちて来た。 小高い丘の上を見渡せば、木々は緑に萌えていた。 だがその下の山肌は、抉り取られたような斜面を晒し、噴火口の大きな溶岩石が、荒々しい景観を見せていた。 この砕け散った岩石の集積を、九尾の狐(きゅうびのきつね)と呼ばれている。 (九尾の狐とは、中国の神話に登場する、9本の尻尾を持ち、数万年を生きると伝えられる白面金毛妖狐) 九尾の狐は日本に渡って来ると、鳥羽上皇が寵愛した絶世の美女「玉藻の前」に化け、様々な危害を人々に与えた。 やがて九尾の狐は陰陽師阿部泰成に、正体を暴露され、その後、三浦介や上総介の3000の兵(一説によれば15000とも)により追われる。 そして逃げ込んだ下野の那須で退治されたが、執念深く毒石に変わり、激しい毒気を吐き散らし、動物や人々に危害を与え続けた。 だが至徳2年(1385年)、そのことを知った曹洞宗の高僧玄翁和尚((1329年ー1400年)が、 毒石を打ち砕くと、岩石は3つに割れ、1つはこの地に残り、2つは高田と呼ばれる他の地に飛散した。 今でも那須のこの地一帯には、硫化水素や亜硫酸ガスなどの有毒ガスが噴出し、「鳥獣がこれに近づけばその命を奪う、殺生の石」と恐れられている。 殺生石の前の石段に座り、歩いて来た散策道を見渡せば、荒々しい岩石の川は、賽の河原のように、異様な寂寞さを漂わせていた。 やがて空からの雨足が強くなって来た。 傘を持たずにきたので、足早に駐車場へ向かった。 そして、車に辿り着いた時には、雨は本降りとなり、先ほどまでの青空が嘘のようだった。 車から傘を取り出し、雨の降る中、那須温泉神社へ向かった。 駐車場の傍らに、温泉神社に続く石の急峻な階段があり、傘をさしながら登る。 何段あるのだろうか、雨に濡れた石段を用心しながら登り切ると、神社へ伸びる参道の横に出た。 2段の石段を上り、ゆったりとV字形の注連縄を掛けた大きな鳥居を潜ると、真っすぐ伸びる石畳の参道を進む。 すると右側に大きなミズナラの古木が、雨に濡れながら聳えていた。 説明板には、「御神木「生きる」と書かれ、古木に関する謂れが書かれていた。 「このミズナラは、悠久の時を経て直、樹勢旺盛にして力強く「生きる」と命名されている。 活力、蘇生力、生命力等のパワーが授けられる巨木として崇められている。」 樹齢:推定800年、樹高:18m、胸高周囲:4m。 紙垂(しで)を垂らした細い注連縄を巻いた古木の樹には、ごつごつとした岩のような瘤が、数百年の歳月を生き続けた生命力を象徴していた。 この古木が神が天から降臨する、依り代となっているのであろう。 さらに参道を進むと、数段の石段があり、上り行くと境内に出た。 雨に煙る神社はこじんまりとし、素朴で静謐な佇まいであった。 拝殿前の梁には大きな注連縄が垂れさがり、そこからが拝殿の聖域であることを示していた。 賽銭箱へ小銭を供え入れ、大きな鈴を振り鳴らし手を合わせる。 天井の棟下には、第34代舒明天皇の御代630年に創建され、上撰されている延喜式神名帳 式内社であることを証する、 「延喜式内温泉神社」と書かれた扁額が飾られ、拝殿内には誰もいず、静寂の中、神器の鏡が祀られていた。 平家物語によれば、屋島での源平の合戦において、弓の名手那須与一(1169年? - 没年不詳)が、 平家が掲げる扇の的へ命中するようにと唱えた「那須湯前大明神」が、この温泉神社であると言われている。 古来から、温泉は湯神・温泉神として祀られ、人々に崇敬されている。 境内を濡らす雨足はさらに強くなり、まばらだった人影も今は消えている。 傘をさし神社の裏手へ歩くと、狭い石段の奥の朱色の鳥居は雨に濡れ、その最奥にお稲荷さんが鎮座していた。 そしてさらに進むと、先ほど歩いた殺生石への散策道と、千体地蔵が遠くに見え、その奥に殺生石が雨に煙っていた。 さすがに強い雨脚の中、参詣する人影もなく、雨に濡れた境内は寂しげだった。 境内脇から下りの道へ向かう途中、時期遅れの薄桃色の桜が咲いていた。 青葉若葉の季節に桜に出会え、思いがけない季節の贈り物を頂いたようで嬉しくなる。 雨に打たれ、微風にそよぎながら、桜花は重たげに微かに揺れていた。 雨に濡れながら、神社の片隅に、遠慮がちに咲く桜に、愛おしいような情趣が湧いてきた。 先ほど登った急峻な階段は、雨が沁み込み、片手に傘を差しながら注意深く降りた。 駐車場に降り立った時、さらに雨は激しく降っていた。 湯川の水量も増し流れも早く、湯川に掛る橋の彼方、五月雨に霞んでいた。 |