小さな旅&日記
箭弓神社&荒川土手のポピーを訪ねて
2011年5月8日
 
五月晴れのドライブ日和、お昼前に家を出て、埼玉県東松山市箭弓町2-5-14にある、創建は銅五年(712年)と伝わる箭弓稲荷神社に向かった。
関越自動車道を進むと、遠くに秩父の山並が、青空の中、くっきりと浮かび上がっていた。
やがて東松山ICで降り、川越・川島方面へ5分ほど行くと、目的地に着いた。

箭弓神社
誘導員の指示に従い、境内前の無料の駐車場に車を停め、散策を始めた。
時間は1時15分、強い陽光が降り注いでいた。
手水舎で手を清め、口をすすぎ、本殿へ進む。

大きな注連縄で化粧した朱色の鳥居を潜り、参道を進むと、天保6年(
1835)に造営された、権現造りの拝殿が正面に鎮座していた。
さほど飾り気のない、素朴な風情さえ漂う拝殿に親しみを覚える。
お賽銭をあげ、二礼二拍手一礼をする。
 
注連縄の上を見ると、透かし彫りに囲まれた、扁額が飾られていた。
扁額には箭弓稲魂社と彫られていた。
さらにその左手の棟組みの下には、絵馬が飾ってあった。

参拝を済まして境内を進むと、特設の居酒屋さんが、何軒か店開きをしていた。
店内を見れば、何組かのお客様が食事をしている。
こんな風景を見ると、何処か心は祭りの気分になる。
 
さらに少し歩くと、そこが牡丹園の入り口。
この牡丹園は、大正12年(1923年)、東武東上線坂戸ー東松山間の延線竣工を祝い、
東武鉄道()初代社長・根津嘉一郎が、藤や松とともに、牡丹を箭弓神社へ奉納した事に始まる。
 
昭和49年当時には、関東随一のボタン園とうたわれ、東松山市制20周年の時、「市の花」に指定された。
現在、約3500uの園内に、1300余株の色々な種類の牡丹を花咲かせている。
見上げれば、大きな木製の看板が青空に浮かび、園内に入ると、たくさんの牡丹の花が咲いていた。
 
だが、ボタンの開花期は、過ぎているのだろうか。
すでに枯れ落ちた花や、花弁が落ちかけている花の方が、多いように見える。
それに反して、牡丹園の向こうに見える藤棚から、藤紫の花が匂い立つ。
  
園内の手入れをしている植木屋さんによれば、今年のボタンの盛期は、4月20からの10日間くらいだったとのこ。
色々な種類のボタンが、その間、順番に咲いて行くと言う。
その時、雨の日が続いたり、寒暖の差が大きかったりすると、鮮やかで大輪の花が咲かないのだそうだ。
 
昼下がりの陽光を浴びながらさらに進むと、池の中に桃色に咲き匂うツツジが見える。
鯉が泳ぐ池の水面に、花の影を写していた。
池畔を回りながら狭い遊回路を進むと、天神社があり、石畳の参道を行くとお堂があった。
 
進むに従い、静謐な空気が流れ、敬虔な気持ちになるから不思議だ。
お堂の賽銭箱に小銭を添え、手を合わせる。
菅原道真公を祭る、1月の天満宮祭では、ここに多くの書生たちが参列し、学業成就の祈願が行われる。
 
降り注ぐ陽光は、肌にうっすらと汗を滲ませるほどに強い。
朱色、薄桃色の花を咲かせるツツジが眩しい。
その向こうには、新緑に芽吹く木々の緑が園内を包んでいた。
 
藤の艶麗な匂いに誘われながら進むと、大きな藤棚から、藤のシャワーが流れ落ちていた。
今がまさに盛りの時なのだろう、藤の花が陽光を浴び、薄紫の花々が高貴な輝きに満ちていた。
花房の間から、真っ青な空が広がり、さらに藤花の陰翳を深くしていた。
  
この藤の名は延命藤(ながらへふじ)と言われ、江戸時代の終わり、現在の東京小金井村より、武州の人が譲り受け、
さらに、東武鉄道(株)社長根津嘉一郎が、大正12年、当牡丹園に奉納したものである。
この樹は推定250年以上といわれている。
 
根はごつごつと、岩のように硬そうだ。
250年以上の風雪に耐えて来た、生命の逞しさを表現している。
この樹回り1メートルの1本の藤から、藤棚全体を藤の花々で覆い尽くし飾っているのだ。
 
藤棚の下は日陰となり、清涼な空気が流れる。
たくさんの老若男女が、藤の花を愉しんでいた。
そして、藤棚の向こうに、色彩も鮮やかな、ツツジの花々が咲いている。
  
藤棚の下に置かれた、幾つもの長椅子は、藤の花を愛でる人たちでいっぱいである。
それぞれに、何かを静かに語りながら、匂い漂う藤の気韻を愉しんでいる。
やがて、席が開いたので腰をおろし、仲良く写真を撮った。
 
セルフタイマーにセットして席に戻り、シャッターが落ちようとしたその瞬間、酔っぱらった小父さんがカメラの前を通横切る。
そして、カメラは何事もなかったように、3枚の連写撮影を終えた。
隣に座っていた隣の小父さん、「仲がよさそうなので嫉妬したのさ」
  
  
そして、再度、写真を撮りなおした。
すでに時間は、2時を回っていた。
席をたち牡丹園を出れば、三々五々、まだ牡丹園に向かう人たちがいる。
 
先ほどの屋台居酒屋を過ぎ、左手を見れば、新緑を背景に、静謐さの中、舞殿が強い日を浴びていた。
そして、箭弓神社に着いた頃、拝殿を訪れる参拝客が、柏手を打ち手を合わせていた。
駐車場に着けば、車は殆ど停車していなかった。

  
そして、次の目的地、鴻巣にある荒川堤に咲くポピー畑に向い、麗らかな昼下がり、のんびりと県道345号を行田方面へ出発した。
やがて鴻巣の標識が出現し、県道271号へハンドルを切りしばらく行くと、県道17号に出た。
そして目的地のポピー園の大きな看板が見えた。

看板の指示に従い進むと、一面の小麦畑だった。
遠くには大きな御成橋が見える。
県道27号線に掛るこの橋が、川に掛けられた、日本一長い橋だと言われている。
 
だがいったい噂に聞くポピー畑は、何処にあるのだろうか。
前には冠水橋の原馬室橋がある。
空き地に停まっていた車の前に、中年の男の人立っていた。
 
そしてポピー畑はこの辺りにあるのですか? と訊いてみた。
すると男性が教えてくれた。
「この小麦畑が、去年までは全てポピーだったんですよ。今年は小麦の値段が上がっているので、小麦畑になってしまったんです。
あの橋の方へ行けば、少しはポピーが見れると思いますね」
 
近くを見回せば、畑の畔に、ちらほらとポピーが咲いていた。
去年の今頃も、も東秩父まで、ポピーを見に行った。
だがその時は、例年に比べて、ポピーの開花が遅れていた。
 
 
 
咲いているはずの、小高い山の斜面に広がるポピー畑には、ぽつりぽつりと思い出したようにポピーが咲いていた。
どうも我々はポピーには縁がないのだろうか。
鮮やかな紅色に咲くポピーの傍には、背丈も低い黄色い菜の花が、風にゆらりと揺れていた。
 
 
そして御成橋に向かう狭い舗装した道を進むと、赤土が向き出しの駐車場に出た。
車を停めて外へ出る。
そこにはけっして見渡す限りとは表現できない広さの、ポピー畑が広がっていた。
 
 
 
例年ならば、東京ドームの2.5倍の広さにあたる、12.5haのポピー畑は、ポピー咲き匂う広大な花園である。
そのポピーの花の数は1000万本にものぼり、日本一のポピーパラダイスを演出していたと言う。
そして、ポピー・ハッピースクエアであるはずの空き地には、地元グルメが様々な露天を出して賑やかな景色が出現したらしい。
 
 
畑には背丈の低い、紅、薄桃色、黄色、橙色に咲くポピーが、降り注ぐ眩い陽光を浴びていた。
畑の狭い畦道を歩いてゆくと、遠くから吹きわたる風に揺られ、花々がゆらゆらと揺れていた。
遠くには、名残の鯉幟が薫風に泳ぎ、真っ青な空には、グライダーが優雅に風に乗りながら飛び去って行った。