神楽坂毘沙門天の落語界へ 2011.04.3 神楽坂へ来るのも約2年振りだろうか。 2009年の1月11日(日)に、矢来来能楽堂へ来て以来になる。 お客様で、矢来観世のシテ能楽師さんがいて、その九皐会定例公演を観に行ってからというもの、神楽坂へは行っていない。 神楽坂と言えば、私がまだ大学生の頃、早稲田に向かう都電が走っており、左手に料亭を見ながら、右手は崖になっていた記憶がある。 毘沙門天へ続く、神楽坂の坂道は、昔ながらだが、今は坂を挟む商店は、かなり瀟洒な造りに変わっている。 だが、狭い路地を一歩入れば、そこには昔ながらの風情が漂う。 そして、坂を上り切れば、お線香の香りが流れ、そこは江戸の情緒に包まれている。 今日はこの境内にある「東のさん生、西の鶴二の落語二人会」がある。 余裕を持って出かけたので、毘沙門天さんには、開演の40分位前に到着した。 すでに、毘沙門天の入り口には、今日の主催者でプロデューサーのMさんが立っていた。 後で伺いますと伝え、前の喫茶店で、暫しの休憩をし、開演の15分くらい前に入場した。 すでに、会場の座布団に、お客様たちが今は遅しと座っていた。 観客席よりは、一段高い舞台に、緋毛氈を敷いた高座が用意され、紫色の大きな座布団が置かれていた。 やがて、出囃子がなり、眼鏡を掛けた大柄の青年が登場した。 開口一番は林家しん歩。 かなり緊張の色が見え、口跡が定まらず、話が上ずる。 やはり修業の途次、これから厳しい修業を経て、一人前に成長していくのであろう。 そして、柳家さん生師匠が登場。 五代目柳家小さんの最後の内弟子のさん生師匠は、内弟子時代の話を枕に、「湯屋番」を語り始めた。 遊蕩が過ぎて勘当、大工の棟梁の家に預けられた若旦那。 毎日、何もせず食いぶち減らしの居候の身。 或る日の事、棟梁の紹介状を持ち、銭湯へ奉公に出される。 夢は番台に座り、女湯の艶めかしい眺め。 ところが想像とは裏腹の雑用ばかり。 すると、銭湯の主人が昼食の時、その間だけ、番台を若旦那に任した。 女風呂には客はまばらで、それも年増の女性だけ。 若旦那は番台で、あれやこれや想像をめぐらし、仕事も省みず、艶なる事まで妄想し悶える。 その若旦那の仕種を、さん生師匠がユーモア溢れる身振りと語りで表現する。 さん生師匠には、いつもながら不思議な色気がある。 遊蕩三昧の若旦那の懲りない生活と、遊び好きの若旦那の色気を、的確にして躍動的に表現していた。 5代目柳家小さんが得意とした「湯屋番」を、かつての内弟子が好演をしていた。 そして関西落語界のホープ、故6代目・笑福亭松鶴の弟子の笑福亭鶴二師匠が、紋付袴姿で登場した。 入門したての師匠の内弟子時代を軽妙な語りでくすぐり、 大阪へ古今亭志ん朝が来た折、楽屋での失敗談などを枕に、「佐々木裁き」が始まった。 嘉永年間のこと、名奉行で知られる佐々木信濃守が、大阪の西町奉行として赴任してきた。 商業で栄える大阪の地は、賄賂や袖の下など商習慣が、ことのほか乱れていた。 そこで、佐々木信濃守は非番の時、供侍と共に、田舎侍に扮し、市中を見回ることにした。 すると、新橋の竹川町あたりにさしかかる時、子供たちがお白州遊びをしている。 後で聞けば、少年の年は13歳、名前は四郎吉、桶屋の綱五郎のせがれだった。 事もあろうに、佐々木信濃守と名乗り、水っぱなをすすりながらの見事なお裁きを見て、佐々木信濃守当人は感服する。 そして、四郎吉、桶屋の綱五郎や町役人共々、奉行所に出頭するように、与力に申しつけた。 奉行所のお白州に出向いた四郎吉たち。 やがて、四郎吉はお白州から、座敷にのぼり、佐々木信濃守との丁々発止の頓智比べ。 縦板に水を流したような四郎吉の機知に、佐々木信濃守は感服する。 さすがに、関西落語会の実力者、笑福亭鶴二師匠の芸は手堅く、奉行と四郎吉の対話は端正で手堅く愉しい。 1998年1月 「なにわ芸術祭」新人奨励賞受賞。 2010年12月(第65回)文化庁芸術祭優秀賞受賞しただけのことはあると納得。 中入り後、 笑福亭鶴二師匠「寄り合い酒」、柳家さん生師匠「紺屋高尾」を聞いて外に出れば、 神楽坂毘沙門天の境内に落ちる日は大きく傾いていた。 時間はすでに4時半になっていた。 黄昏間近の 神楽坂をぶらりぶらり散策して帰宅した。 |