中央アルプス駒ケ岳千畳敷を訪ねて
2011年4月17日

大沼湖畔の宿の早太郎温泉は、柔らかく、そして少しぬるりとして、身体に優しく絡みつく。
無色透明で、まったく臭気もなく穏やかで、何回でも湯味を愉しめた。
夕闇と共に、宿の前の雑木林の奥の湖も、静寂の中、湖面に微かな残光を残していた。

やはり春といえども、標高の高い駒ヶ根の夜は寒い。
昼間はあれ程に晴れ渡っていたと言うのに、空には月もなく、星一つ耀いていなかった。
果たして、明日は晴れるのだろうかと心配になった。

しかし、翌朝眼を覚ませば、空は高く澄んでいた。
朝の入浴をし、食事から戻れば、強い陽光が部屋に差し込んでいた。
どうやら今日も快晴、昨日の予感は杞憂に終わった。

宿を10時に出て、5分も行けば、菅の台バスセンターに到着した。
駐車場に車を預け、駒ケ岳ロープウェーのある、しらび平駅へ運行する連絡バスを待った。
やがて、バスが到着し、いよいよ木曽駒ケ岳千畳敷カールへ向かった。
 
早太郎温泉街を抜けてしばらく行くと、大田切川があり、橋を渡った頃から、道の勾配は厳しく、道幅も急速に狭くなる。

さらに傾斜厳しい、車がやっと1台走れほどの狭い山道を、路線バスは軽快に進む。
行けども行けどもつづら折れの道を、すいすいと進む、運転手の技量の冴えに感動さえ覚えた。


里ではすでに桜が咲き、水仙が一面に咲き乱れていたが、やはり坂道を上るに従い、荒涼とした景色が広がる。
そして、折り重なる山並の彼方、残雪を頂く山稜が、陽光に照らされ、銀嶺に耀いていた。

さらにエンジン音を響かせながら、急峻な坂道を上る。
 
清流に造られた小さなダムから流れ落ちる滝が、川底の赤茶けた丸石を濡らしていた。
さらに高度を上げて行き、眼下を見下ろせば、深い谷間が広がっていた。
やがて残雪に包まれた駒ケ岳が、大きく姿を現すと、終点のしらび平駅に到着した。

 
 
菅の台バスセンターを出て、約30分のバス旅であった。
そして駒ヶ根千畳敷カールへ向かう、ケーブルカーに搭乗する。
やはりこの高度、かなりの温度差があり、駅の構内には、石油ストーブが焚かれていた。
 
 
やはり東日本大震災の影響なのだろうか、ケーブルカーの発着の本数もかなり少なくなっていた。
しばらく冷え込んだ構内で待つと、いよいよ搭乗時間がやって来た。
改札を終え、階段を上がると、ロープウェーが待っていた。

 
1967年(昭和42年)7月に開通した、定員61人乗りの駒ケ岳ロープウェー。
全長 2333m、高低差950m、運転時分は: 7分30秒、千畳敷駅の標高は2611.5mあり、日本で一番高い駅で、標高差も日本で最大である。
ロープウェーに乗りこむと、扉が閉まり、ゆっくりと千畳敷駅に向かって上昇し始めた。
  
ロープウェーが高度を増すに従い、眼下遥か下に、残雪を残した谷間が広がる。
さすがに標高2000メートルを越す山々には、まだまだ春は遠く、山肌の木々は枯れ木立の幽玄な風情を表す。
遠く山頂を眺めれば、深い雪に覆われた山稜が、陽光に照らされ、眩いほどに聳え立つ。
 
その時、乗客の一人が叫んだ。
そして指を指して言った。
「あそこにカモシカがいる」
 
その方向を見れば、1頭のカモシカが、岩肌に張り付くよう立っていた。
正午前の強い陽光を浴びて、その姿は神々しくさえあった。
厳しい自然の中で、逞しくも生き抜く生命力の素晴らしさが、観る者に感動を与えるのであろう。
 
さらに高度を上げたあたりから、前方は一面の雪景色に変わった。
全てが雪に包まれる幻想的な世界が広がる。
その瞬間、乗客たちの驚きの声が聞えた。
 
正午近い強い陽光に照らされた銀世界は、きらきらと輝いていた。
そして、7分30秒の空中遊覧の旅は終わり、雪に抱かれた千畳敷駅に到着した。
ロープウェーを降りれば、外気は一段と厳しく、まさに真冬の温度だった。
 
階段を上ると駅の構内、食堂や土産物屋があった。
正面の広いガラス窓には、雪を頂いた山稜が広がる。
通路から外へ出れば、外光は強く、目が眩みそうになった。

 
まさにそこは白銀の世界だった。
初夏にでもなれば、眼前の千畳敷カールには、様々な高山植物が花咲くと言う。
だが今は全て、深い雪に埋もれている。
  
この雪は果たして、何時ころまでに溶けるのであろうか。
正面には中央アルプスの宝剣岳が聳える。
真っ青な空を背に、山頂辺りは黒い岩肌を晒していた。


ふと前を見れば、何故かお賽銭箱が置いてあった。
はて? と思っていたら、ママが指差した。
ロープで囲われた真ん中に、屋根が浮き出ていた。
 
そこで私は了解した。
それは神社の屋根だったのだ。
完全に雪に埋もれたその姿に、私は微苦笑をした。
 
今でさえこれほどに深い雪、真冬にはどれ程に、雪は積もるのであろうか?
殆ど雪の体験のない私には、想像することもできない世界。

だが、そんなに厳しい自然の中にも、人々の生活は営まれる。
 
雪原は固くアイスバーンになっていた。
皮のブーツを履いているので、足元がつるりつるりと滑る。
表面は強い陽光に照らされ、雪が少し溶け出ていた。

 
すると、登山の装備で若い男性と女性が、駒ケ岳の方へ、真っ白な雪原に黒い影を落としながら歩いて行く。
山頂に着くのは何時頃なのだろうか。
そして、晴れ日の中、無事に登頂し、下山できることを祈った。

 
中央アルプスを眺めたあと、山頂駅の反対側に歩いて行くと、彼方には南アルプスが見える。
山々にはすでに雪はなく、山稜の木々は微かに芽吹いていた。
やはり、アルプスにも、確実に春は近づいていた。