小さな旅&日記 高遠の桜を訪ねて 2011.04.17 今年の桜はなかなか咲かず、咲いたと思いきや、あっという間に、葉桜となって終わった。 だが、春遅い信州の伊那、天下第一の桜と謡われ、桜百選にも名を残す、高遠城址公園の桜は、今が見所らしい。 桜の開花の時期に合わせるのは、なかなか至難の業なのだが、果たして・・・・・・。 高遠に関するHPを覗けば、すでに開花宣言はなされ、17日頃が満開と出ていた。 中央高速の伊那ICで降り、国道361号へ進み、やがて片側1車線の鄙びた上りの細い道を行くと、高遠城址公園へ出た。 そして江島囲み屋敷近くにある、有料のP8駐車場で、500円支払い駐車したが、すでに駐車場には、たくさんの車が停まっていた。 車を降りて高遠城址公園を望めば、真っ青な空を背景に、薄紅の桜が朝日を受けて煌めいていた。 公園に向かう階段を上り行けば、遠くに小さな湖が見え、湖水は青緑に映っていた。 階段を上り切ると、公園に続く道が開け、両脇に屋台が立ち並び、たくさんの人で賑わいを見せていた。 戦国時代、この地に高遠城が存在し、武田信玄一族が、城主を務めていた。 武田五名臣の一人と言われた、山本勘助が縄張りしたこの堅城は、別名兜山城とも呼ばれた。 1582年(天正9年)のこと、長篠の戦いの勝利に力を得た織田信長は、高遠城攻めのために、長男の織田信忠に、5万の大軍を与えた。 だが、高遠城主仁科盛信(武田信玄の五男)は、3千人の守備兵と共に籠城する。 しかし、圧倒的な戦力の中、徹底抗戦するも、守備隊は玉砕し、仁科盛信も討ち死にした。 城は落城し、織田軍はさらに、伊那から甲斐へ侵攻し、武田軍を滅亡させた。 今日は快晴のお花見日和。 朝の8時半頃、微かに風が吹きわたり、陽光は人々の影の陰翳を深くしていた。 信州高遠美術館を横に見て、先を望めば、すでに、桜の木々の下で、お弁当を広げ、観桜を愉しむ人たちがいる。 春爛漫、穏やかな日盛りの中、公園の中を散策すれば、桜の古木の梢に、小彼岸桜(コヒガンザクラ)の花々が可憐に風に踊る。 遠くを望めば、青く澄み渡る空に、くっきりと雪を頂く中央アルプスの山々が、神々しく耀いていた。 1500本の桜咲く公園を、中央に進むにつれ、観桜の人々が溢れ、桜の古木の下に、シートを敷いて休んでいる。 匂い咲く桜は、まだ7分咲きだろうか。 だが、圧倒するほどの桜樹に咲き誇る桜花が、薄紅に燃えている。 南信州の伊那地方の春は、高遠と共に始まるのだろう。 長く深い山里の厳しい冬を越して、訪れる春を高遠の桜が告げるのだ。 春を待つ山間の里の民は、どれ程に、高遠の桜を待ち望んでいたことであろうか。 冬が厳しければ厳しい程に、咲く桜の感動は大きい。 麗らかな日射しを浴びながら進むと、 江戸時代の文政の頃、この地で酒造業を営む資産家広瀬治郎左衛門は、和歌や俳諧を嗜み、俳号を白兎とする風流人。 そのひ孫が、私有地であった法憧院曲輪を買い上げ、公園に寄付したおり、この橋を造り、先祖にあやかり白兎橋と名付けた。 下を見下ろせば、空堀を散策する人々が行きかい、古木の樹影が空堀に深く映る。 遠く見渡せば、中央アルプスの銀嶺が厳かに聳える。 その手前の山々には、芽吹き始める山の緑が映え、山里を静かに抱いていた 立ち止まることも出来ず、人々の歩みの中にのまれながら進むと、やがて問屋門に出た。 この門は、かつて、高遠城下の本町問屋役所にあった問屋門であり、問屋役所建物が取り壊され、売却されたものを、 町の有志が募金を募り買い戻し、ここに移築したものである。 江戸時代の主要な街道には、問屋と言われる宿駅が置かれていた。 そこでは、公用の荷物の継き送り、旅人の宿泊、運輸を取り扱う町役人などが置かれていた。 高遠にあっては、二人の名主の合議により、町政にも参与していたと言う。 問屋門は朝日を浴びて陰翳を濃くし、額絵のように、観桜の人々と桜の花を写し取っていた。 門を潜ると木橋の桜雲橋(おううんきょう)があり、下を望むとたくさんの人たちが散策している。 橋を渡り切ると、さらに園内はたくさんの人たちで溢れ、昔懐かしいテキヤさんの露天が建ち並んでいた。 賑わいの中を進むと、右手には鉄板葺き赤屋根も美しい、趣のある建物の高遠閣がどっしりと構えていた。 その入母屋造りの建造物は、多くの有志の協力の下、棟梁竹内三郎を中心にして建造された。 建築物は、1936年(昭和11年)12月6日に完成。 昭和初期の貴重なものとして、2002年(平成14年)8月21日、国の登録有形文化財に指定されている。 そして今は高遠城址のシンボルとして、訪れる者たちを迎えてくれている。 時間はまだ9時30分だが、公園内はますますたくさんの人出で賑わいを増す。 朝の日の陽光は柔らかく、穏やかな春日は暖かく、微かに渡りくる風が爽やかである。 ぶらりぶらり散策をしていると、先ほどの桜雲橋が、前方に見える。 そしてその橋の下を望めば、曲輪にある水溜りに人だかりがしていた。 橋の下にある木組みの階段を下りて、水溜りへ行くと、たくさんの人がカメラを構えていた。 見れば、水溜りに、桜雲橋と桜の花が逆さ絵となって映っていた。 陽光に煌めく水面に、青い空を背景に、薄桃色の桜が艶然とした姿を浮かべていた。 水溜りの淵沿いを歩き行けば、桜雲橋の下に出た。 見上げれば、石垣の石組も朝日を浴び、流麗な姿を見せ、石垣の上に問屋門が見えた。 橋の上は先ほどにも増して、多くの観桜の人々が渡る気配がする。 頭上高く、橋を見ながら進み、階段を上ると、先ほど歩いた公園の広場に出た。 まだ昼時には遠い10時前だが、すでに宴会気分の老若男女のほろ酔い加減が愉しそうだ。 それぞれのスタイルでのお花見は、日本の春の風物詩であろう。 今年は東日本大震災があり、日本国中が被災者の方々に、熱いメッセージを送っている。 そして、世界中から日本へ、義援金やボランティアなどの、暖かい支援の手が差しのばされている。 そして、残念なこと、様々なイベントやお祭りも自粛している。 しかし、お花見やお祭りは、日本の季節の寿ぎであり、四季の賛歌でもある。 ここ高遠城址公園の桜祭りも、今年は見送られている。 だが、この高遠の桜を待ちわび、そして桜花の見事な饗宴が、本格的な初夏への序章となる。 東北地方にも春は今年も来て、桜は何事もなかったように咲くだろう。 そして、近い将来、東北は復興し、創造的に理想的な復活を果たすであろう。 東北が大震災に遭遇した事により、東北地方が、日本の、ひいてば、世界の産業に欠かせない存在であることが実証された。 日本のGDPの7.5%程の存在の東北が、世界のサプライチェーン(供給網)の中核を担っていたのである。 東日本大震災により、壊滅的な被害をこうむったが、破壊の中から、世界が理想とする、近未来を象徴する地域社会を創造するであろう。 そして、東北に咲く桜を、心から嘆賞する時が、必ず来る。 高遠城址公園の小彼岸桜は、この散策の時にも、次々と花開いているようだ。 その桜花の彼方、空の青も濃く、清澄な空気の中、残雪を残した、中央アルプスの山稜が陽光に照りかえる。 あと3、4日で、桜花は満開になり、やがて山里に吹く風に、薄紅の花吹雪となり、散り去って行くのであろう。 一瞬の開花、そして、時を待たず、散り際も見事に消え去って行く。 その華やかさと見事さに、古来、日本人は雅と儚さの美学を見たのであろう。 南ゲートの駐車場に戻った時は、すでに11時近くになっていた。 |