小さな旅&日記
光前寺を訪ねて
2011年4月17日
 
高遠城址公園を、11時前に発ち、次の目的地、駒ヶ根の光前寺へ向かった。
20分程行くと分杭峠の標識が出てきた。
最近、この峠はパワースポットとして、若者達に大変に人気があるらしい。
 
道が余りにも狭く険しいので、乗用車では0磁場のパワースポットまで行けないので、シャトルバスが運行されている。
当初、私たちも分杭峠へ行く計画を立てたが、スケジュール的に無理があるので断念した。
峠に向かう道はだんだんと狭くなり、道沿いに流れる川は、荒涼とした景観を晒し始めた。

四月の中頃、いまだ枯れ木立越し、遠くに残雪を残す、中央アルプスが見える。
やがて上りの道の勾配も強くなり、シャトルバスの発着場に辿り着いた。
さすがに、ここから先は道も険しく、一段と勾配もきつくなってきた。

国道152号を進みゆくと、シャトルバスと出会う。
しかし、道は細い1車線、すれ違うにも道が狭すぎる。
左手は険しい断崖、右手は深く切り立った崖。

二進も三進も行かない状況。
シャトルバスは後ろに進み、かろうじてすれ違うことの出来る場所で、車が擦れるほどにハンドルを切った。
シャトルバスの若い運転手さんは、にこやかに「気を付けて行ってください」と右手を上げた。

やがて、二差路があり、左手に行けば分杭峠、右にハンドルを切れば駒ヶ根へ向かう。
もちろん駒ヶ根へハンドルを切ると、道はやがて下り坂となり、道は広くかなり整備されてい
た。
左手遠くに、中央アルプスが、時折顔を見せる。
 
やがて20分程くねくねと下って行くと、視界も開けた平地に出た。
正面には中央アルプスの雄姿が聳える。
そして前方に、駒ヶ根の市街地が広がる。
 
街道沿いには昔ながらのなまこ壁の蔵も建ち、さらに進むと、駒ヶ根の市街地に到着した。
駒ヶ根の麓に開けた、昔ながらの町並みには趣がある。
さらに市街地を抜け、目的地の光前寺へ向かった。

すでに時間は正午を過ぎている。
さらに30分ほど進むと、道の両脇を挟むように、黄色く咲く水仙の畑が広がっていた。
そしてその先に光前寺があり、交通整理の警備員が何人もいた。
 
すでに、幾つもある駐車場は満杯で、警備員の指示に従い、光前寺に隣接する、駒ヶ根美術館の無料の駐車場に車を停めた。
時間は丁度お昼時、仁王門の隣にある、趣のあるお蕎麦屋さんで昼食を摂る。
長いドライブの後の昼食は大いなる休息。
 
それ程混んでもいないのだが、手際が悪いせいか、とても待たされてしまった。
店を出たのは、なんと午後の2時。
そして、光前寺の仁王門を潜った。
 
その仁王門を、色落ちした朱色の阿形と吽形、金網の中の金剛力士像が両脇を守っていた。
さほど大きくはないが、厳しい山里の風雪に晒され、木目が浮き出ている。
眼は見開き、逞しい肉体を晒しながら、威嚇しているようにも見えるが、何処か土着的で愛嬌さえ感じる。
 
この寺院を守護する金剛力士像は、大永8年(1528)に、七条門院運慶13代慶延法眼の作と伝わる。
仁王門から真っすぐに、弁天堂へ真っすぐに参道が続く。
そして、程なくして、石垣があり、その石垣には光り苔が自生していた。
 
さらに進むと、樹齢数百年と言われる杉の古木が建ち並んでいた。
古木から射し込む昼下がりの陽光が、参道に日だまりを作っていた。
そして、杉の古木から匂うような冷気が身体を包み、私の体内の都会の滓を洗ってくれる。
 
そして、嘉永元年(1848年)に再建され、楼上には十六羅漢を祀る三門に出た。
三解脱門とは、迷いより悟りに入ることを意味する門の意味である。
長野県下では、善光寺に次ぐ三門であると言われる。
 
 
石組みの緩やかな階段を上がると、三門の中は広く、ひんやりと冷気が漂う。
中には社務所があり、不動明王の御守を頂いた。
そして、三門を潜り進めば、右手に小じんまりとした弁天堂が鎮座していた。
 
お賽銭を入れ、手を合わせ、また参道を進む。
午後2時過ぎの陽光は、麗らかに参道に落ちていた。
正面奥には、本堂への石段が見え、その向こうにお線香に煙りながら、鬱蒼とした杉に抱かれた本堂の姿が現れた。
 
さらに参道を進むと、清冽な小川が流れ、小さな橋が架かっていた。
ここから先が聖域、この橋を渡ることで、俗なる領域から聖なる領域へ結界するのであろう。
左手奥に手水舎があり、手を清め口をすすぐ。
 
そして参道の石段を上ると、広い境内が開け、大きな香炉で焚かれたお線香の香りを乗せて、灰色の煙が漂い流れて来た。
光前寺は、貞観2年(860年)、円仁の弟子である本聖により開基された。
創建時は現在の位置より、200メートル程、木曽山脈寄りに在ったと言う。
 
戦国時代には、武田勝頼と織田信忠による戦禍に遭い被災した。
全盛期には、武田氏や羽柴氏などから庇護を受け、佐久から諏訪にまで寺領を広げていた。
また、江戸時代には、徳川家光から朱印地60石を受けていた。

緩やかな木の階段を上ると本堂があった。
室町時代に建造された、入母屋造の堂内には、弁財天と十五童子が安置され、重要文化財に指定されている。
本堂の中は、境内の明るさとは対照的に、ほんのりと暗く、凜とした空気が漲っていた。

 
たくさんの参拝者が列をなし、順番に参拝を待つ。
本堂へ一礼をし、お賽銭を入れ、鰐口を鳴らして手を合せる。
右手を見れば、古来日本の神の使い、眷属でもあるオオカミのような、大きな木彫の犬の像が、朱色のおびんずる様の隣に鎮座していた。

大きな耳はぴんと立ち、精悍な顔立ちだが、円らな目が優しい。
両手を前につき、後ろ脚をしっかりと大地に下ろし、正面を向いて、悠然と構えていた。
この犬がこの地に伝わる、伝説の霊犬早太郎なのだ。

延慶元年(1308年)8月のこと、遠江国見附村の矢奈比売神社の祭りの夜、旅の僧侶がこの地を訪れた。
その時、村の美しい娘が、田畑を荒らす神様に、人身御供として奉げられていた。
だが神様が、人身御供を浚うような悪事を働くはずはないと信じた僧侶は、娘を浚う怪物の正体を見届けた。

その時怪物は「信州の早太郎おるまいな、早太郎には知られるな」と囁きながら立ち去っていった。
僧侶は早速、早太郎を探し回ると、その犬は光前寺に飼われていた。
そして、光前寺の和尚から早太郎を借り受け、翌年の祭りの日を迎えた。

その祭りの日、うら若い娘に化けた早太郎は、勇敢に怪物(老ヒヒ)に立ち向かい、みごとに怪物を退治した。
だが早太郎も深い傷を負いながらも、必死の思いで、光前寺に辿り着いた。
そして和尚へ一声大きく吠えて、息絶えたと言う。
 
 
その後、早太郎を借り受けた旅の僧侶は、供養のために、大般若経を光前寺に奉納し、それは現在も寺宝として、経蔵に保管されている。
本堂の中から境内を望めば、額絵のように、境内の香炉で焚かれたお香の煙が、右にたなびいていた。
階段を降りて、右手に進むと、そこに不動明王の化身とも伝わる、霊犬早太郎のお墓があり、誰が手向けたのかお花が活けてあった。
 
そしてさらに進むと、杉の老樹に抱かれるように、三重塔が優美な姿を見せていた。
高さ約17メートルの塔は、匂うように清楚で均整のとれた姿に気品を漂わせる。
きらびやかに、彫刻が施されることもなく、華やかに彩色を
されることもなく、素朴な木肌の美しさで、粛然と立っていた。
  
文化五年(1808年)に再建された塔内には、五智如来が安置され、南信州唯一の塔は、長野県宝に指定されている。
三重の塔を後に進むと、杉林の彼方に、先ほど参拝した本堂が見える。
深閑とした静寂の中、昼下がりの陽光に、入母屋造りの本堂の屋根が煌めいていた。
 
そしてさらにぶらりと陽光を愉しみながら進むと、質素な佇まいの鐘楼の前に出た。
鐘楼は現在修復工事中なのだろうか? 立ち入り禁止の柵が設えてあった。
この鐘楼は意外に新しく、昭和35年の当山号、宝積山(ほうしゃくさん)開創1100年に再建されたもので、大梵鐘の総重量は1,340キログラムを誇る。

 
そして、もと来た三門への参道に戻れば、参道の両脇に連なる杉の老樹の樹影が、陰翳を深くしていた。
さらに仁王門を潜る時は、すでに午後3時近くになっていた。
残念ながら、期待した光前寺名物のしだれ桜は、まだまだ開花には遠かった。
 
仁王門を出て、中央アルプスを仰ぎ見ながら進むと、道の脇に小川が流れ、清冽な水面が陽光に照り返されていた。
さらに進めば、程なくして、一面に可憐な水仙畑が広がっていた。
黄色と白と緑の鮮やかな色調のハーモニーが、長閑な風景に華やぎを添えていた。

穏やかな南信州の旅は終わった。
明日は眼前に雄々しく屹立する、中央アルプス駒ヶ根の千畳敷カールを訪れる予定だ。
今日のように、晴天に恵まれることを、残雪を頂き、神々しく耀く山並に祈った。
 
 
そして、ここから5分程のところにある、大沼湖畔の宿へ向かった。
開湯は1994年、美肌で有名な早太郎温泉郷の中にある。
アルカリ性単純温泉の湯味を愉しみながら、ゆっくりと旅の疲れを流すことにする。