南房総鴨川、高家神社(たかべじんじゃ)を訪ねて 2011年2月27日 千葉県南房総市にある、料理の神様を祀るという高家神社を訪ねた。 この神社は、日本で唯一つ、料理の祖神を祀り、調理関係者や醸造業者に深く信仰されている。 そして、延長5年(927年)に編纂された延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)にも記載されている、格式のある延喜式内社でもある。 景行天皇(紀元前13年ー紀元130年?)は、かつて東北平定に向かった、景行天皇の皇子、今は亡き日本武尊の武功を偲び、 淡(あわ)の浮島(現在の館山市辺りか?)の宮に行幸した。 その時、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)も随行した。 或る日の事、磐鹿六雁命が弓の弦を海に入れると、堅魚が釣りあげられた。 さらに、海辺を歩いていると、何か足にあたる物があり、触れた物を採り上げれば、それは白蛤だった。 さっそくそれらを調理し、天皇に捧げれば、天皇は大いに満足し、 磐鹿六雁命の技を褒めるとともに、膳大伴部(かしわでのおおともべ)をうけ賜わった。 膳大伴部とは、朝廷の官職の一つであり、朝廷へ献上された諸国からの食料を管理する。 やがて、磐鹿六雁命は、大膳職(だいぜんしき)として、神宮祭の様々な儀式や作法も整備していった。 それ以来、磐鹿六雁命の子孫が、代々、皇室の食事を司るようになった。 また、は、尊称を「高倍神」(たかべのかみ)とも言い、倍(べ)は甕(べ)に通じ、甕には様々な発酵食品や調味料が保存される。 つまり、高倍とは、日本料理の本質を表し、磐鹿六雁命が、料理の祖神となった由縁なのである まだ他に停車していない、神社の小さな駐車場に車を停める。 そして、道路を渡ると、高家神社の高札が建っていた。 その奥に、〆飾りを飾った石の大きな神明鳥居が迎えてくれた。 玉砂利の参道の奥、石段の上に、高家神社の拝殿が見える。 参道を真っすぐに進むと、左手に純和風の社務所があり、その手前の生垣の中、長細い立て札が建っていた。 その立て札に描かれた人物が、磐鹿六雁命なのであろう。 そして見上げれば、かなり急峻な30段ほどの石段。 階段を上り、中段辺りに、石碑が建っていた。 見れば、石碑には、日本料理研究会の三宅孤軒と彫られていた。 かつて、私が料理屋の総支配人をしていた時、毎月送られて来て愛読していた機関誌 「日本料理研究会」を創刊した、日本料理研究会の初代会長の名前である。 その当時、日本料理の世界は、たくさんの調理師会が割拠し、調理人を多くの日本料理屋に派遣していた。 そのために、調理人は、お店に対する帰属意識は薄く、調理師会の権限や権威が絶大であった。 そんな前近代的な日本料理界の伝統の継承と発展に対し危惧し、 日本料理をこよなく愛したジャーナリスト三宅孤軒が、1930年に設立したのが、日本料理研究会であった。 その機関誌には、一流の調理人による、毎月の料理展示会や料理講習会を開くとともに、日本料理業界へ、情報の交換や発信をした。 さらに、時代と共に、日本料理調理師の身分や社会的な地位の向上にも貢献した。 私が機関誌を読んでいたころは、第三代会長三宅實子(じつこ)の時代であった。 一段づつ上ると、さほど広くない境内に出た。 正面に拝殿が控え、奥には内拝殿、祝詞殿、御本殿がある。 拝殿の上には扁額が飾られ、料理祖神高家神社と墨書されていた。 茅葺神明造りの拝殿は思いのほか新しく、木の香りさえ漂うようだ。 それもそのはず、老朽化した拝殿は建て直され、平成12年10月に竣工された建物であった。 平成10年に高家神社整備事業奉賛会が結成され、多くの篤志家の寄付や寄贈により再建されたものであった。 振り返ってみれば、私の飲食業の経験も40年近くになる。 今の店を開いて27年も経過し、調理関係とも長い付き合いになった。 お礼の気持ちで、千円札をお賽銭箱に入れ、感謝の気持ち深く、作法に従い手を合せる。 神輿を収めた古い庫裏と、奥の包丁奉納殿 そして、境内をぶらり歩けば、ひっそりと神輿を収めた古い庫裏と、包丁奉納殿が2棟並んでいた。 さらに、拝殿沿いを歩くと、拝殿の格子戸越しに中を見渡せた。 奥拝殿を見やれば、青空に茅葺の屋根が浮かび上がっていた。 すでに時間は11時近くになっていた。 境内に戻ると、境内の手水舎近くに、各地の料理屋組合が奉納した、包丁塚の重厚な石碑が建っていた。 毎月17日は包丁供養祭が執り行われ、調理関係者が供養に訪れると言う。 包丁塚の横には下りの石段があり、その脇に白梅が楚々と、降り注ぐ陽光を浴びて咲いていた。 神社にはやはり梅が似合う。 微かにそよぐ風に、匂うように揺れていた。 階段を降りて右に廻ると、大鳥居に下る参道に出た。 目の前には、全面総ガラス張りで、能舞台のような真新しい建物が建っていた。 中を見れば、大きな俎板が置かれていた。 包丁式に使われる俎板 そして、ガラス戸の左には、包丁式を写した青紫色ポスターが貼られていた。 毎年、10月17日の神嘗祭、11月23日の新嘗祭に、ここで、古作法に従い、四條流の調理人により、包丁式が執り行われる。 建物の前には、その時に集まる観客のために、一枚板の長椅子が幾つも置かれていた。 四條流とは、遠くへ平安時代、第58代光孝天皇(こうこうてんのう)(830年 - 887年)は料理に造詣が深く、 四条中納言藤原朝臣山蔭(ふじわらのあそんやまかげ)に大膳職を継がせ、 日本料理に関する神宮へ供える料理の神饌や、天皇に奉る料理である御饌の作法や料理法を、仁和2(886)年に整備・完成させ包丁式を制定した。 その時以来、五位衣冠に身を包み、左手に俎箸(まなはし)を持ち、右手の包丁刀で、 俎板の上に置かれた鯛などの魚を、直接手で触れることがないように、包丁式に則って捌く。 その時の高家神社の包丁式の様子を、2週間くらい前に、偶然にもテレビで観た。 すでに時間は11時を回り、ますます陽光の光は強くなり、境内の白砂が照り返していた。 大鳥居を潜り、駐車場へ戻ると、大型観光バスが停車し、観光客が降りてきた。 そして、バスガイドさんに案内され、参道へ消えて行った。 私たちは車に乗り、今日宿泊予定の鴨川市太海浜へ向かった。 国道410号房総フラワーラインには、意外にも一足早い春の花は咲いていなかった。 だが、千倉から白子漁港、さらに和田漁港へ至る、海岸沿いの景色は圧巻である。 洋々たる太平洋を背景にして、海岸沿いに開ける勇壮な岩礁を、高い波が洗う。 やがて、房総フラワーラインは終わり、市街地に入り抜けると国道128号へ出て和田漁港を右に見ながら進む。 そして、外房黒潮ラインへ入り、3年前に宿泊した鴨川オーシャンパークホテルの前を越して暫く行くと、目的地に到着した。 チェックインには早いのだが、フロントに伝え、駐車場に車を停め、隣の太海フラワーセンターへ出かけた。 太海フラワーセンター入り口の前には、大きなサボテンの樹が出迎えてくれた。 触ってみると、ずしりとした手ごたえがあり、想像を絶するほどに固かった。 その横にある花壇には、真っ青な空の天空から降り注ぐ陽光に、菜の花が黄金色に耀いていた。 さらに、色とりどりのポピーが、遥かかなた、海を渡りくる風に、ゆらゆらと優雅に揺れていた。 花壇に別れを告げ、太海フラワーセンター入り口へ。 太海フラワーセンターからの眺め 前の海を眺めれば、外房の荒波に洗われ続けた岩礁は奇岩となり、力強い男性的な姿を現していた。 今日泊まるホテルから、この果てしなく広がるオーシャンビューを眺めながら、美味しい料理とお酒を愉しむことになる。 そして、露天風呂の温泉から、暮れゆく太平洋に沈む最後の一筋の光芒も眺めてみたい。 ホテルからの眺め |