2010.12
小さな旅&日記


静岡県西伊豆・松崎町を訪ねて
2010.12.19


伊豆を旅するのは、去年の11月15の修善寺と稲取以来になる。
あの時は、稲取港を見渡せるホテルに泊まった。
ベランダ越しに見た、相模湾が夕陽に照りかえされ、紺碧の海が黄金色に染まって行く鮮やかさが印象的だった。

今回の目的地は、伊豆の最先端の石廊崎にも近い、西伊豆の松崎である。

私たちの泊まる旅館の部屋から、駿河湾に沈む夕日が眺めることができる。
東伊豆に比べれば、西伊豆には、余り泊まっていない。
数えてみれば、大瀬崎、土肥温泉くらいか。

私たちの旅は、春、夏、秋等の季節には、おもに山里の温泉巡りをし、しっとりと深い湯味を愉しむことにしている。
そして、冬の季節には、雪や氷のない土地を訪れる。
それ故に、行き先は、冬でも雪や氷とは縁の薄い、温暖な海辺の宿に行くことになる。
もちろん、冬場でも山里を訪れることは、例外的にはあるのだが。

今回もやはり、我々の単純な選択肢に従い、冬でも温暖な土地、海の幸も豊かな、南伊豆の松崎を選んだ。
さらに、1つだけ付け加えるならば、伊豆へは、間違っても、夏だけは行かない。
とくに、西伊豆だけは絶対に行かないのだ。
その理由も、いたく簡単、夏場は海水浴客で、地獄のような渋滞をするからだ。

伊豆への旅の何時ものコース、首都高から東名を進み、箱根を越えて、一気に下る計画。
早朝、まだ暗いうちに出発するのであるから、途中でもちろん休憩をする。
そして、沼津インターで降りて、海岸沿いの国道136号をひたすら下る。

ところが、首都高の山手トンネルを通過する時、高速のボードのテロップに、愕然とするニュースが流れた。
なんと、東名高速道の御殿場ー裾野間が通行止。
とにかく、行けるところまで進まなければならない。
だが、進めども事態は以前同じ状態で、開通する見込みない。

仕方なく、休憩予定の足柄PAより、かなり手前の中井PAで休むことにした。
だが、事故のためなのだろう、駐車場はほとんど満杯状態であった。
PAの中の食堂も、深夜だと言うのに、とても混雑していた。
車の中で仮眠をして、朝の7時頃、再出発をした。

だが、いぜんとして、事態は改善せず通行止めであった。
取りあえず、御殿場まで進んでみた。
そして、御殿場ICに着けば、道路は封鎖され、指示にしたがい東名高速を降りた。
それから、早朝の初冬の箱根越えが始まった。

御殿場から、すでにススキも枯れ果てた仙石原を通過して、箱根の芦ノ湖へ。
芦ノ湖の湖岸には人影もなく、湖面は寒々としていた。
箱根神社の大鳥居を潜り、東海道旧道の杉並木を左手に見ながら進む。
やがて、国道1号に出て、峠道を上り下りしながら進むと、三島に到着した。

車の賑いを増した、平坦な国道1号を進むと、西伊豆の玄関口の沼津に到達した。
予定より、1時間半ほどはロスをしただろう。
暫く進めば、懐かしい千本松原や三津浜の標識が見える。
国道414号を進み、御用邸記念公園を右に見やりながらさらに進む。

やがて沼津マリーナのある江浦湾が静かに広がっていた。
そして、県道17号に出て、ひたすら南下する。
やがて、伊豆・三津シ-パラダイスを、右に見ながらさらに進み、蜜柑がたわわに実る西浦を越す辺りから、
駿河湾に別れを告げ、国道127号の山間の緩やかな上りの長閑な道を進む。

やがて、右手の彼方に駿河湾が開け、波一つない海面を、空高く上る太陽が陽光を降り注いでいた。
さらに進むと、戸田湾を見渡す展望台があり、眺望を愉しむ人たちがいた。
そこから下りの道を進み、戸田を後にして、さらに行けば、数年前に泊まった土肥のホテルの前を通過する。
駿河湾は煌めき、車の窓を開ければ、初冬の爽やかな空気が流れ込む。

大きな愛嬌のある達磨が鎮座する達磨寺の前を通過すれば、そこには恋人岬のPAがある。
早朝からの長いドライブ、ここで休憩をすることにした。
やはり伊豆は暖かいのだろう。

すでに、菜の花が可憐な黄色い花を咲かせていた。
愛の鐘が響く恋人岬には行かずに、この前休憩したレストラン入り、前回同様に、ママはワサビソフトを注文した。
レストランの大きな窓からは、紅葉を残す山々の遥か向こうに、駿河湾が陽光に耀いていた。

一休みして、英気を養ってまた、松崎へのドライブを再開した。
やがて伊豆市に入る頃から、短いトンネルを幾つも越して行く。
トンネルの先には、陽光に耀く名残の紅葉が出現する。
暗いトンネルの先に、浮かび上がる木々が煌びやかに華やぐ。

そして、田子湾を通過して間もなく、懐かしい堂ヶ島が前方に広がりる。
加山雄三ミュージアムを左手に、堂ヶ島の奇岩を見ながら通り過ぎる。
この4年位の間に、何回、この堂ヶ島を訪れたことだろうか。
伊豆は何回来ても愉しい。


それは、海の幸が豊か、温暖で気候が良い、風光明媚と色々あるが、一番は土地の人が、のんびりとしていて、優しいことに尽きるような気がする。
県道17号からすでに国道136号に変わった海岸沿いの道を進めば、目的地の松崎に到着した。
正月を待つ松崎町は静かに、人影は殆どなかった。
松崎の町を走っていると、明治時代の建物の中瀬邸の前に出た。

3時間無料の駐車場に車を停めて、中瀬邸見物をすることにした。
伊豆には、なまこ壁の古い建物が、至る所に散在している。
この松崎にもたくさんのなまこ壁の古い建物が存在し、なまこ壁通りさえ存在する。

中瀬邸を道路から眺めれば、正面に、明治初期、呉服屋として材をなした商家の風情ある佇まいが匂う。
右手には土蔵が建ち、蔵の重厚な扉は開け放たれていた。
玄関の暖簾を潜り、がらりと引き戸を開けて中へ入る。


そこはコンクリートが剥き出しの土間であり、正面には、かつては、反物が並び、
丁稚や番頭がお客様を迎えたであろう場所に、様々なものが展示してあった。

その前の土間には、漆塗りの人力車が置かれ、ガラス越しに差し込む陽光に照らされ、美しいシルエットを描いていた。
右手には事務所があり、入館料100円を払った。

靴を脱ぎ、板場の部屋を歩き、硝子戸越しに中庭を見渡す狭い廊下を歩き、渡り廊下を進むと、正面に、木の匂いも新しいギャラリーがあった。
中には、松崎の四季を映した写真が展示してあった。
ぐるりと展示室を見学して戻り、渡り廊下を歩くと、中庭が見渡せた。

そして、廊下を渡り先ほどの展示室から、中庭へ出ると、中瀬邸が古き日本家屋の匂いを漂わしていた。
中庭から展示室に戻れば、依田呉服店として、明治の時代の繁栄を偲ばせる、商家中瀬邸の板の間が、差し込む日差しで照り映えていた。
1887(明治20)年に建てられた中瀬邸
母屋や事務所や土蔵などの7棟の構造であり、現在は松崎町が所有管理している。

土間に降り、靴を履いて玄関を出れば、正面右手に、道路に面して、大正期のものを復元した、水色の時計塔が建っていた。
中瀬邸を後に、道路へ出て、那賀川にかかる、ときわ大橋から見渡せば、小高い山には、紅葉が残っていた。
そして、風ひとつない穏やかな昼下がり、川面には漣もなく、陽光を静かに照り返していた。
水面下を見れば、川の底にまで日の光が届いていた。

すでに時刻は正午を大きく越していた。
松崎町の商店街を抜けて、暫く歩くと松崎海岸に出た。
岸壁沿いの散策道を歩いていると、白人の外国人夫婦に出会う。
すると、片言でコンニチハと言われたので、こちらも挨拶を返した。

そして、旅行雑誌に紹介されていたお店に到着した。
暖簾を潜り玄関の戸を引いて中へ入ると、カウンターに座る熟年夫婦が、店の主人と愉しそうに会話を交わしながら食事をしていた。
私はまださほどお腹が空いていないので、中ビールを注文する。
ママは定食をオーダーした。

太陽が燦々と耀く昼時の生ビールは、とにかく美味の一言。
すると、松崎名物のきびなごの串焼きが、ビールのお供にと、サービスで運ばれてきた。
お店のちょっとしたおもてなしの気持ちが嬉しい。
きびなごの軽く焼け焦げた香ばしさ。
噛めばほろりはらりと口の中に広がった。

一休みした後、ぶらりともと来た海岸端の道から、松崎町の商店街を歩く。
しかし、如何した事なのだろうか、メーンストリートだと言うのに人影もなく、店の扉さえ閉ざされている処もある。
やはり、地方の都市はかなり疲弊しているのだろうか。
人がそこそこいた処が、葬祭会場の会葬の人達と、葬儀屋さんでは余りにも寂しい。



人気ない商店街を抜けて暫く歩くと、先ほどの中瀬邸前に出た。
ときわ大橋を渡り進むと、なまこ壁の風情ある松崎町観光協会があった。
さらに狭い路地のなまこ壁通りを歩くと、応永21年(1414)、僧笈歎の創建と伝えられる、浄泉寺の朱色の山門前に出た。

さらに山門前を通り過ぎ、国道136号を少し行くと、左手に伊奈下神社があり、大鳥居の前に人だかりがしていた。
どうやら、地元の氏子たちが集まり、宮司さんを囲んで、正月のお飾りをしているようだ。
朱色の大鳥居の下を潜り本堂へ進んだ。


境内には県指定の大銀杏が鎮座していた。
目通り8メートル、枝張り25メートル、樹高22メートル、樹齢1000年と言われる天然記念物「親子イチョウ」。
古来、沖ゆく船が松崎の港の目印にしていたと言う。
この神社は平安時代中期に編纂された3代格式の1つである、延喜式(えんぎしき)格式内の由緒正しい歴史を、今に伝える。
 
そして、祭神は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と、山の神の娘の木花開耶姫(このはなさくやひめ)
との子と伝えられる、
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと『産業守護』)と住吉三柱大神『航海守護』をとしている。
さらに、神社には源頼朝寄進と伝わる国宝松藤双鶴鏡や山奉行大久保石見守寄進の青銅金渡金製釣灯籠などがある。

 
手水舎で手を清め、階段を上り、拝殿で手を合わせた。
そして、大銀杏を右に見ながら脇道を通ると、紳明水の流れ落ちる河童の像が、ユーモアを添える水神様
の前に出た。
そこはすでに国道136号で、先には鏝絵の名人・入江長八記念館があり、右手に浄感寺も見える。


ぶらりと歩き2分程で、浄土真宗本願寺派華水山浄感寺があった。
創建は鎌倉時代後期の永仁年間(1293〜1299)であり、開基は浄信上人。
この寺の本堂にある
「長八記念館」には、入江長八(1815〜1889)、号は天祐、乾道、通称「伊豆の長八」の作品が残されている。

入江長八は文化12年 (1815)8月5日 伊豆国松崎村明地の貧農の長男として生まれ、親戚筋にあたるこの寺で、2歳から12歳頃まで育てられた。
当時の住職は13世正観上人であり、寛政末期頃より、華水私塾という寺小屋を開き、松崎の学芸の発展に貢献した。
そして、この私塾から、土屋三餘(三餘塾)、下田に塾を拓いた漢学者高柳天城、彫刻師石田半兵衛邦秀などが輩出した。

表玄関の引き戸を引いて中へ入ると、コンクリートの土間があり、そこには休憩所があり、入館受付があった。
入館料400円を払い、靴を脱いで上がると、そこはすでに本堂であった。
それは松崎を襲った元禄の大火で焼失したものを、弘化4年(1847)、中興正観上人により再建されたものであった。
  
本堂の中では、説明ガイドの女性が笑顔で迎えてくれた。
展示されているものを、優しく懇切丁寧に語る言葉に、伊豆の長八への尊敬と親しみの念を感じた。
そして、本堂奥の部屋の欄間には、弘化3年 (1846)頃に製作された、鏝絵の傑作「飛天」の優美な姿を見ることが出来た。

薄衣を身に着け、抜けるように白い肌色は、藤田嗣治の乳白色の妖艶な姿態のようだ。
横笛を吹きながら、空に舞う天女の顔は、ふくよかに、気品に満ちて典雅である。
壁から天女が3D画面よろしく、欄間から厚く浮き上がり、今にも本堂を飛翔するかのようにリアルである。
まさに漆喰芸術は、ヨーロッパにおけるフラスコ画に勝るとも劣らないものである。

そして、ガイドさんに促されて本堂内陣の天井を見上げれば、大きな龍が描かれていた。
この龍は(2間×3間)ある「八方にらみの龍」。
何処から見上げても、龍がこちら側を見ている不思議。
そして、本堂に一番近いところから見上げると、龍の金色の目がきらりと光った。
この「八方にらみの龍」は、山梨県にある、日蓮宗の総本山久遠寺の本堂に描かれた、加山又造作の巨大な龍の天井画に似ていた。

長野県小布施の雁田山にある岩松院の天井にある、葛飾北斎(1760−18459)晩年の傑作、
彩色も煌めく21畳の天井絵「八方睨み鳳凰図」も、何処から見てもこちらを見据えていたのを思い出す。
さらに、その絵の中には、北斎の愛した富士山が隠し絵として描かれていた。

そして、「八方にらみの龍」や「飛天」は、高窓から流れ込む光により、微妙に変化していくという。
自然光を部屋の中に導きいれることにより、長八の作品は、光に演出される。
さらに、伊豆の長七にしても北斎にしても、自分の表現した絵の中に、人間の視覚を騙すユーモアや諧謔の精神を潜ましていた。

まさにその粋な遊びと戯れ心のデザイン性は、日本人の無形の資質であり財産でもある。
確かに物を作る独創的な能力も大切なことだが、このような芸術的な感性は、日本人特有な知的資源とも言えるのではないだろうか。
長八記念館を出て、境内に出れば、その横の墓地には、入江家代々のお墓が建ち、入江長八もそこに眠っていた。

境内を出て、昼下がりの陽光を浴びながら、ぶらりぶらり散策していると、なまこ壁のある建物が道路沿いに建っていた。
そして、そのうちの1軒に、明治時代の薬学会の権威、アルカロイドの研究に功績を残した近藤平三郎の生家もあった。
氏は東京帝国大学薬学科を卒業し、ドイツに留学。

帰国後、東京帝国大学薬学主任教授となり、昭和33年に文化勲章を受章した。
近藤家の前を通過すれば、松崎町観光協会の前に出た。
やがて、ときわ大橋を渡り、中瀬邸前を通り、駐車場に辿り着いた。
 
 
約3時間の松崎町、ぶらりと散策を終えて、松崎湾を見渡す海辺の旅館に到着した時は、すでに3時半を回っていた。
チェックインをして、3階の部屋に入れば、正面に松崎湾が控え、遥か彼方には駿河の海が洋々と広がっていた。
やがて、日は傾き始め、波一つない静かな海面は金鱗に輝き始め、一筋の黄金の海道を描く。
 
そして、堤防の向こうに見える小さな岬は、灰黒色に変わり始めた。
やがて、空を覆う雲海は、黒を深くし始め、黄金色の太陽が、空一面を眩い金彩と、燃えるような紅に染め上げて行った。
あれほどに煌めいていた太陽は、刻一刻と岬に迫り、陰翳を濃くしたかと思う瞬間、空の金色の輝きは消え、重たげな紅に変わる。
 
さらに、日は静かに岬に影を落とし、水平線の彼方に消えて行った。
駿河湾に沈む夕日は、1時間ほどの雄大なスペクタクルショーを描いて、午後4時36分に沈んだ。
空には薄暗い朱色を仄かに残し、残光は松崎湾の海に、静かに溶け込んでいった。