晩秋の四万温泉(しまおんせん)を訪ねて 2010.11.7−8 7日の早朝、国民保養温泉地として、昭和29年(1954年)、第1号の指定を受けた歴史を持つ、 四万温泉を訪ねた。 このところ、長野県や群馬県の温泉は、私たちの大のお気に入りスポットである。 四万温泉の歴史をひもとけば、開湯は永延年間(987年ー989年)の源頼光の家臣碓井貞光とも、 坂上田村麻呂により、延暦年間(782年ー806年)に、発見されたとも言われる古湯である。 その名前のいわれは、四万の病を治す霊泉であり、「世のちり洗う四万温泉」と上毛かるたでも謡われる。 今は上毛地方は紅葉の季節。 黄葉紅葉を愉しみながら、身体の滓を、四万の霊泉で洗い流すことにした。 早朝8時だと言うのに、国道353は、かなりの車が四万温泉のある、中之条町方面に向かって行く。 やはり、私たち同様、紅葉狩へ向かうのだろうか。 晩秋の上毛路を四万川に沿って、くねくねと進みゆけば、やがて最初の目的地、 無料の駐車場には、すでに何台かの車が駐車してあった。 駐車場横のお店も、甌穴(おうけつ)へ行く道端のお店も、すでに開店していた。 階段を下りきると、大きな岩石を勢いよく、水飛沫をあげながら、清流が流れ下るのが見える。 その清流の川面を、陽光がきらきらと照らしていた。 飛沫に濡れて滑りそうな岩場を歩くと、そこには様々な甌穴があった。 しかし、川の流れが速く、甌穴は白く泡立ち、はっきりと目視出来なかった。 だが、異常に泡立った場所が、甌穴なのだろうと確認はできた。 数万年前の太古の時代、川底に小さな穴があいた。 そこに、上流から流れ落ちた石が入り、穴の中で果てしなく回転し、穴の開いた川底の岩盤を削り続ける。 そして、悠久の流れの中で、多くの石が逆巻き、転がり落ち、岩穴を大きく広げながら、大小様々な甌穴を造り上げた。 甌穴の説明板には、8つの甌穴があり、最大の甌穴の直径は3m、深さは4mもあると書いてあった。 昭和46(1971年)、甌穴のある中之条町大字四万字秋鹿の地は、群馬県指定天然記念物となった。 そして、この甌穴群は、かつては川沿いの住民の子供たちに、絶好の遊び場を提供してもいた。 9時40分頃、そして次の目的地に向かった。 国道353号線を四万川に沿って進めば、幾つかのトンネルを越すたびに、秋色は濃くなる。 今はまさに紅葉が満載であった。 薄暗いトンネルを抜ける瞬時、前方に木々の紅葉が眩い色彩を放つ。 . 日向見トンネルも越し行けば、次の目的地、四万川ダムの道路標識が見えた。 やがて、遥か下に四万川を見下ろす橋に出た。 そこには、カメラを構える人々や、見物人達が、清流の彼方の四万川ダムを眺めていた。 今日は絶好の行楽日和、晩秋の四万川ダムは、さぞや美しいことだろう。 標識に沿って進むと、二差路に出る。 さて、右の橋を渡って行くものか、左の殺風景な道を進むべきか迷うが、左の道を選択した。 だが、しばらく進むと、道は行き止まりだった。 少しバックをして、右手へハンドルを切れば、そこは一面の薄の原だった。 晩秋にはやはり薄が似合う。 車を降りると、薄の原の彼方には、紅葉した山々が陽光に耀いていた。 車を引きかえし、先ほどの橋を渡り暫く行くと、四万川ダムに到着した。 駐車場には、すでにたくさんの車が駐車してあった。 車を降りれば、すぐそこはダムの上の道路。 四万川ダムにより、四万川を堰きとめて出来た、周囲5kmほどの人造湖は、紅葉した山々に抱かれていた。 そして、静謐な佇まいの湖水は、陽光に照らされ、湖面は耀いている。 右手の三分の一の湖水は、淡いエメラルド色に染まり、その湖水に接する左側の湖面は、薄緑を帯びた青色を湛えていた。 この湖は、福島県裏磐梯の五色沼と同じように、一日の内に幾度となく、湖水の色が鮮やかに変化するという。 どこか神秘的な装いの奥四万湖に、山々の紅葉が逆さ絵となって広がっていた。 ダム上の道路の歩道では、多くの人達が、湖を背景にして、写真のシャッターを切っていた。 四万川ダムから戻り、駐車場へ来ると、そこから下へ降りる散策道があった。 階段を降り、なだらかに奥四万湖に続く散策道を歩くと、湖岸の稲包(いなつつみ)せせらぎ公園に着いた。 遠くから柔らかな風がそよぎ、湖岸の薄を揺らし、長閑な湖岸の晩秋の正午前、柔らかな陽光が降り注いでいた。 散策道の上りの道を歩き、駐車場に戻り、次の目的地、日向見薬師堂へ向かった。 緩やかにカーブしながら進む国道353号線、やがて、薬師堂の標識が出現した。 その指示する方向へ車を進め、上りの狭い道を上り切ると駐車場があった。 その駐車場から見下ろせば、日向見薬師堂(ひなたみやくしどう)が見える。 薬師堂に続く、老木に抱かれるような狭い裏参道を進むと、山門前に出た。 こじんまりとして鄙びた風情のお堂は、深い歴史の情趣を漂わせていた。 このお堂は、永延年間(987−989)、日向守定光により折田村に創建された。 やがてくだり、享禄から天文年間(1528−1555に)、上杉定政によりこの地に移築された。 慶長3年(1598)、伊勢国山田の鹿目喜左衛門により、この地の領主真田信幸の武運長久を祈願し、再建したものと伝わる。 慶長19年(1614)に建てられたと言う黒光りしたお籠堂を潜ると、正面に薬師堂が強い日差しを浴びていた。 飾り気のない古朴なお堂は、凛とした気韻を漂わせていた。 お堂の建築様式は、唐様(からよう)、方三間四柱造の寄棟茅葺。 昭和45年、国指定重要文化財に指定された、群馬県最古の寺院建築である。 数え切れないほどの人々に踏みしめられ、木目も浮き出た木の階段を上り、お堂の左手に吊られた鰐口を木槌で叩く。 すると、空洞の金属の鰐口から、ぽわーんと鈍く軽い響きが、静寂の中に揺れた。 お賽銭を入れて手を合わせる。 そして、正面の真ん中に切られた窓から中を覗けば、太い梁組に守られて仏様が鎮座していた。 振りかえり、お堂から望めば、紅葉に包まれた、四万温泉発祥の地、日向見温泉御夢想の湯が見えた。 階段を降り、参道から御夢想の湯へ降りた。 御夢想の湯の前には足湯があり、御夢想の湯の玄関には、薄紫の暖簾が掛けられていた。 そして、男女に分かれた入り口に挟まれるように、中央に看板が置かれていた。 その看板には、御夢想の湯の由縁が書かれていた。 「永延三年頃、源頼光家臣四天皇の一人、日向守碓井貞光の夢まくらに童子が立ち、 四万の病脳を治す霊泉を教えたという伝説から名付けられた古湯。 また、延暦頃、坂上田村麿が東夷征伐の途中に入浴されたという伝説もある。 四万温泉発祥の地とされている。」 四万温泉は、日向見、ゆずり葉、新湯、山口、温泉口地区の5地区に分かれるが、日向見地区は一番奥にある。 この御夢想の湯は、9時から15時の間なら、自由に入ることが出来、料金はお気持ちの寸志ということだった。 出来ることならば、この湯でひと浴びしたいところだが、この先にはまだ予定がある。 そして、私たちの宿泊予定の旅館は名湯で名高く、そちらを愉しみに、御夢想の湯を後にした。 来た道とは異なり、戻りの道は土産屋や旅館の建ち並ぶ表道を歩く。 かなりの上りの坂道を進むと、駐車場に到着した。 見下ろせば、先ほどお参りした薬師堂の茅葺屋根が、木立の中に見えた。 そして、次の目的地の小泉の滝へ向かった。 なだらかな下りの道を10分程、四万川の清流沿いを進むと、小泉の滝があった。 路上には何台かの車が停車していた。 車を降りて、小泉の滝を望む小さな展望台から、紅葉に彩られた華麗な滝が見える。 決して落差の大きい滝ではないが、水量も豊富に、陽光に煌めきながら水飛沫をあげていた。 晩秋の色鮮やかな紅葉に包まれた小泉の滝は、仄かなロマンを感じさせる。 その滝の絶景を、カメラに収める人達に混じり、私も幾枚かの写真を撮った。 すでに時刻は、正午を過ぎていた。 旅館のチェックインは、午後2時の予定だった。 小泉の滝に別れを告げ、四万川沿いの道を進み、程なくして落合橋に出た。 その先に、宿泊する旅館の積善館があった。 そして、その旅館の駐車場に車を置いて、昔ながらの商店街の中にある、慶応元年創業の小松屋で昼食をとった。 四万川の清流で造られた蕎麦は、盛りも豊かでコシガあり、食べ応えもあり美味だった。 午後の2時半頃、旅館にチェックインした。 部屋で一休みした後、宿の温泉巡りを始めた。 旅館には、源泉掛け流しの5つの温泉があった。 最初に、一番高い所にある杜の湯は、広々とした大浴場の外に、岩石に囲まれた露天風呂があり、湯船は紅葉を映していた。 ゆったりと手足を伸ばせば、杜の彼方より、爽やかに、木々の精を乗せて風がそよぐ。 そして、山荘の湯の貸切風呂を愉しみ、、昭和5年に建てられたという元禄の湯へ出かけた。 懐かしい造りの戸口を開けると、そこはまさに大正ロマネスク様式で彩られていた。 広い浴場の中は、床面に掘られた湯船が5つ切られていた。 天井は高く、ガラスを嵌めこんだアーチ型をした窓から、昼下がりの陽光が、浴場深く差し込んでいた。 1694年(元禄7年)に開業した歴史を持つ湯宿の湯は、日本三大胃腸病の名湯として名高く、泉質はナトリウム・カルシウム・塩化物硫酸塩温泉であった。 早朝からの長い一日、無色無臭の澄明な湯は、何処までも柔らかく、身体を包み込みながら、旅の疲れを癒してくれた。 |