武蔵嵐山渓谷(埼玉県比企郡武蔵嵐山町)を訪ねて
2010.12.05
 
今年も早いもので、師走を迎えた。
毎年のことだが、最近は1年がことさらに早く感じる。
あの夏の猛暑は、すでに遠く懐かしい記憶の彼方に埋もれている。
 
そのせいなのか、今年の紅葉は遅く、そして、各地の紅葉の見所は、美しい錦秋を迎えている。
私たちもすでに、10月には奥日光へ、そして11月には四万温泉へ、紅葉狩りに出かけた。
 
期待通り、山々の黄用紅葉は、満艦飾の華やぎに満ちていた。
春の花々も美しいが、紅葉の秋は、日本の草木の四季の総集編だろう。

そこで、今年の掉尾を飾る紅葉狩りに、午後1時半頃、埼玉県の嵐山渓谷へ向かった。
環八から関越に乗り、1時間足らずで、東松山インターに到着した。
 
そして、国道254号を小川町方面へ10分程行くと、嵐山町に出た。
東京から80キロほど離れれば、長閑な風景が展開する。

さらに行けば、平成温泉センターを通過した先に、嵐山渓谷バーベキュー場の駐車場があった。
他には駐車場はなく、ここに駐車して、徒歩で目的地へ向かった。

晩秋の暖かな昼下がりの陽光を浴びながら、人気のない狭い1本道を歩いていく。
道に沿った家の垣根越しに、大きな黄色と橙色の果実が、たわわに実っていた。
 
小型の車が1台も通れば、一杯になる道を進むと、「ふるさと歩道」に出る。
そこには、嵐山渓谷への標識が、あと0.8キロを示していた。
 
さらに進めば、また標識が出ており、指示に従って進むと、「ふるさと歩道」の案内図が建っていた。
ここからは私道であり、薄暗い木立の中、枯れ葉の絨毯を踏みしめながら、木漏れ日を愉しみながら歩く。
 
枯れ葉を踏みしめる音が微かに響き、少し湿った緩い坂道を下ると、そっけない案内板が建っていた。
そこには、嵐山と言う地名の由縁が書いてあった。

日比谷公園などを設計した、林学博士・本多静六は、昭和3年(1928年)にこの地を訪れた。
その時、槻川橋辺りから見た景色が、京都の嵐山に非常によく似ていたのに感動し、武蔵嵐山(当時はむさしあらしやま)と命名したとある。

さらに少し下れば、前には槻川が流れていた。
この川は東秩父村に始まり、小川町を流れ下り、やがて嵐山町で都幾川となり荒川へ注ぎ、やがては隅田川となり東京湾で長い旅を閉じる。
 
河原に続く坂を下ると、前方に冠水橋が見えた。
谷深い渓谷は、雨でも降れば水量は一気に増え洪水となる。
 
その時、激流に流されずいるためには、奔流が橋の上を、流れ下らなければならない。
そのために、障害物になる橋桁も欄干もない、とても単純な構造になっているのだ。
 
地方によっては、冠水橋の事を、それぞれに、潜水橋、潜没橋、沈み橋、潜り橋、地獄橋とも言われるようだ。
かつての日本の木橋のほとんどは、冠水橋の一種でもあったのだ。

 
人と人がすれ違えばいっぱいの、狭い橋から彼方を見渡せば、紅葉の面影を残す河原は荒涼としていた。
川面は陽光に煌めき、透明な川の底の石が鮮やかな輝きをみせる。
 
橋を渡り切り、川沿いの狭い土の散策道を進むと、二差路になり、上りの道を左へ向かう。
左手を見下ろせば、先ほど渡った冠水橋と槻川の清流が見える。

  
さらに進み坂道を上り切ると、そこは広場になり、大きな看板が建っていた。
そこには、「みどりのトラスト保全第三号地(武蔵嵐山渓谷周辺樹林地)」と書かれていた。

この渓谷の自然は、多くの緑と自然を愛する人々の寄付によって、守られているのを知る。
自然を破壊することは簡単だが、一度破壊された自然は、2度と戻ることはない。
  
自然は誰の所有物でもない。
それは神から与えられた、人類が共有する大切な財産である。

 
広場には、ログキャビン風の展望台があった。
木の香りのする階段を上れば、彼方には槻川が見え、その向こうには大平山が名残の紅葉に燃えていた。

   
階段を降りて前を見れば、そこには大きな石碑が建ち、嵐山町名発祥の地と書かれていた。
そこから、眼下彼方に、槻川と名残の紅葉を愉しみながら、雑木林の中を、暫く進むと、
与謝野晶子の肖像が刷り込まれ、短歌が刻まれ碑が、ひっそりと建っていた。

かつてこの地を訪れたが与謝野晶子が、渓谷の美しさを詠んだ歌、「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち並びたる 山のしののめ」

人気のない晩秋の雑木林の静寂の中に、短歌の心が木魂しているようであった。

そして、碑の手前を左に折れて進むと、道はロープで封鎖されていた。
見渡せば、そこにはたくさんのバンガローがあった。

きっと夏になれば、ここには渓流を愉しむ人々で、溢れることであろうか・・・・・・。
だがはたして、今の若者たちは、バンガローの愉しみ方を、知っているのだろうか。
 
キャンプ場にも、都会の生活を持ちこむ世の中。
素朴で不便なキャンプやバンガロー、都会の生活では味わえない、自然と共生する歓びを、愉しむことが出来るのだろうか?
 
しかし、行き過ぎた物質文明の歪みに、気づき始めた人々が、増えてきている事も確かでもある。
この粗末な昔ながらのバンガローが、夏のハイシーズンに、賑わうようになることを期待しよう。

 
来た道を戻り、先ほどの与謝野晶子の碑を後にして、槻川を右手に見ながら進む
午後3時半過ぎの雑木林、散策の人に、時折出会う。

すでに日は傾き始め、木々の影が長く深く引かれている。
紅葉カエデの朱色が、強い日を浴びて、鮮やかに照り映えていた。

 
やがて、先ほど上った展望台が、日を浴びて陰翳も深く遠くに見える。
そして、展望台に戻り、1階のベンチに休む。

右手前を見れば、ススキ越しに、冬枯れのような景色が広がった。
左手前方には、朱色の中に金色と黄緑を交えたカエデが陽光に反射し、燃えるように耀いていた。


一休みした後、展望台から元来た坂道を下ると、右手に槻川に掛る冠水橋が遠くに見える。
すでに、橋を渡る人影もなく、寂しげな風情に変わっていた。


雑木林の中の下り道を進むと、先ほどの冠水橋に出た。
すでに行き交う人もなく、川の水面は青を深くし、魚影もなく、さらに透明度を増しているように見える。
 
風もなく、晩秋の渓谷は、寂寞とした風景を晒す。
橋を渡り川岸の石畳の散策道を歩く。

 
槻川の流れが止まったような薄緑色の川面に、大きな岩塊に被さるようにカエデの朱色も鮮やかに、その姿を映していた。
そして、遠くを見渡せば、名残の紅葉に抱かれた冠水橋が見えた。
  
すでに日はかなり傾き、日差しも寂しさを増してきた。
そして、夕靄も忍び寄る雑木林の中、「ふるさと歩道」を出た時は、すでに4時半を回っていた。

 
さらに、舗装された「ふるさと歩道」を歩く頃、長閑な景色は夕暮れに変わろうとしていた。
見れば、駐車場に近い路傍には、赤い頭巾を被ったお地蔵さまが、夕靄の中に真っすぐと、凛々しくたっていた。