吾妻渓谷、白糸の滝&めがね橋を訪ねて
2010年11月8日
 
四万温泉の旅館を10頃にチェックアウト。
東京への帰りの道は、中之条から国道353号を走り、国道145号へ出て、草津方面へ進んだ。
のんびりと晩秋の群馬路を愉しみながら山間を進むと、40分程で吾妻渓谷に到着した。
 
かつて3年前の11月、猿ヶ京に紅葉狩りに出かけた帰りに,、立ち寄った記憶がある。
その時はすでに、名残近くの紅葉だったが、さすがに紅葉の名所だけあってとても美しかった。
 
今日の吾妻渓谷は、まさに黄用紅葉、王朝絵巻を思わせる、鮮やかな満艦飾で華やいでいた。
すでに、道路沿いの散策路は、紅葉を愉しむ人たちで溢れていた。
 
エメラルド色の吾妻川は朝日に輝き、岩礁に砕ける川水が白く泡立つ。
木々の梢の葉は朱色に、そして、金色に煌めく。
 我妻川の紅葉
遠くの岩山は、秋を装う鮮やかな色にもえていた。
渓谷沿いの国道145号を、そぞろに歩きながら、渓谷の秋を愉しんでいると、長野原町に着いた。
 
そして、来た道を戻りながら歩いていると、月曜の平日だと言うのに、次々と車がやってくる。
春の桜も日本の花なら、紅葉は日本の雅な美なのだろう。
 
訪れる厳しく長い冬を迎え、木々は葉を落とす前に、華やかな一瞬の死化粧をするのであろうか。
そして、冬の到来と共に、全ての葉は梢から枯れ落ち、大地に朽ち果てる。

やがて来る暖かな春への復活のために、木々は栄養を樹の中に蓄えるのだ。
自然界の変わることのない永遠の摂理、それは死と再生の繰り返しである。

日本人は古来から、その死の瞬間の滅びに美を感じ、春の再生に感動し、その散り際に美を感じる。
日本人の繊細な感性が、様々な日本の芸術を育んできたのだ。
 
紅葉の名所に出かければ、老若男女の人達が、自然の美を愉しんでいる。
全ての人達が、吾妻渓谷の秋を共有していた。

そして、11時過ぎ、吾妻渓谷を後にして、長野原から軽井沢に抜けて行った。
軽井沢が近づくに従い、紅葉は薄くなり、寂しげな雑木林が続く。

やがて、杉木立の中に、旧軽井沢の屋敷群が出現する。
さらに進むと白糸の滝があった。

この滝を訪れるのはも、何時以来だろうか。
軽井沢は旅の帰りに、軽井沢銀座で、度々昼食を摂っているが、白糸の滝までは足を延ばさない。
 
ちょうど12時きっかりに、白糸の滝に到着した。
以前来た時より、駐車場近くは整備され、土産物屋さんや食べ物屋さんで賑わっていた。

車を降りて、白糸の滝から流れ下る細い川沿いの散策道を歩くと、さすがに晩秋の軽井沢はひんやりと冷たかった。
滝に近づくに従い、川の流れは早く、水量も豊かになる。

そして、懐かしく優雅な白糸の滝が、横に一列になって、白い絹の糸のように、幾条にも連なって流れ落ちていた。
さすがに軽井沢、たくさんの中国の観光客が押し寄せていた。
 
日本には滝の名所がたくさんあり、知られざる美しい景観は、日本の津々浦々にある。
そして、自分だけの小さな自然の美を愉しむのは、とても贅沢なことなのだろう。

晩秋というよりか、すでに冬枯れの寂寥さも忍び寄る、白糸の滝を後にして、軽井沢の市街地に出た。
軽井沢銀座を散策することもなく通過。
国道18号をのんびりと横川辺りに出て、峠の釜めしで休憩する予定だ。

国道18号を進めば、やがて碓氷峠が近づくに従い、山深くなって来る。
晩秋の紅葉に燃える山々は高く聳え、陽光に照らされ光彩を放つ。
めがね橋の煉瓦の橋脚
すると、前方に大きなレンガ色の橋が出現した。
そして、橋を見上げる場所に駐車場があり、観光バスさえ停まっていた。
 
その橋の正式名称は碓井第3橋梁、一般的にはめがね橋といわれる。
1891年に着工し、1893年に竣工したものであり、国重要文化財にさえ指定されていた。
明治26年から昭和38年まで使われた国鉄信越本線横川駅と、軽井沢駅間を結ぶ碓氷線の橋梁の1つで、アプト式鉄道時代に使われた遺構であった。
 
アプトの道と名付けられた散策道の、かなり急勾配の階段を上り切ると、かつて鉄道が通うめがね橋に辿り着いた。
彼方を見渡せば、山々は紅葉に華やいでいた。

下を見下ろせば、国道18号を、車が急カーブを回りながら、走り抜けてゆく。
川底からの高さは31メートルあると言うめがね橋。
直下に見下ろせばぞくっとするほどに迫力がある。
めがね橋から国道18号を望む 
江戸時代の旧中山道の最大の難所に掛る橋は、全長91メートル、約 200 万個の煉瓦によって造られた4連アーチ橋である。
ゆっくりと歩けば、左手の彼方に、紅葉に包まれた、旧信越本線新線の2本の陸橋が見える。

あの陸橋を、幾度通過したのだろうか。
子供の頃、両親の田舎の新潟に遊びに行く時、行きは上越本線を使い、帰りは信越本線で帰って来た。

小学校から高校までの間、夏休みになると出かけていた。
そして、大学に入った頃は、クラブの合宿や旅行などで、信州に度々出かけた時、あの橋やこのめがね橋を通過しているはずなのだ。
 めがね橋の上で
あの時、スイッチバックしながら、煙をもくもくと吐きながら、蒸気機関車が、もがく様に進む姿が懐かしい。
そんな記憶を愉しみながら歩いていくと、碓井第五隧道の入り口に着いた。

隧道の中には、想像したよりも多くの見物客がおり、前方からは団体が賑やかに歩いて来た。
きっと、横川方面から、幾つもの隧道を潜って、やって来たのだろう。
第五隧道の入り口 
隧道の薄明かりの中、ひやりと冷気が漂う。
隧道の切れ目の光の中、鮮烈な光を放って、紅葉が照り映える。

隧道を出れば、さらに幾つもの隧道があり、その先には横川がある。
私たちは、ここで引きかえすことにした。
碓氷第五隧道の中
日本の近代化に貢献した碓氷峠の隧道と、煉瓦造りのめがね橋。
イギリス人技師のパウナル (Charles Assheton Whately Pownall)と古川晴一の設計により造られた。
旧信越本線碓氷峠の橋梁の中にあって、最大のアーチ橋である。

現在、この芸術性も高く美しいアーチを描くめがね橋は、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の、世界遺産の登録運動を推進している。
そして、2007年6月には、暫定リスト入りをしたようであり、何時の日やきっと世界遺産になることであろう。
碓氷第五隧道からめがね橋の眺め