足尾銅山を訪ねて 2010.10.18(月) 湯元の旅館を朝の10時頃にチェックアウトをし、湯ノ湖を右手に見ながら進む。 やがて、湯滝の落ち口を通過し、120号線を下る。 昨日散策した人けない戦場ヶ原を真っすぐに行けば、竜頭の滝。 月曜日だと言うのに、この辺りになると、反対車線の上りを走る、かなりの数の車とすれ違う。 やはり、ハイシーズンの奥日光なのだろう。 さらに30分程下ると、中禅寺湖に到達した。 左手遠くに男体山が優美に山容を映し、中禅寺湖は陽光を浴びながら、何処までも青く広がっていた。 さすがに中禅寺湖、湖岸にはたくさんの旅館やお店が立ち並び、賑わいをみせていた。 私たちが泊まった湯元には、一軒の酒屋も雑貨屋さえなく、もちろんコンビニ等はなかった。 中禅寺湖を通り過ぎ行けば、すぐに華厳の滝入口。 2年前の秋、華厳の滝の紅葉は美しかった。 今回の竜頭の滝、湯滝を見たので、日光三滝を全てを、2年の間に見たことになる。 そして、ここからが紅葉間近のいろは坂。 幾重にも折れ曲がりながら下り降りる坂道。 曲がりくねる道に強いママは、景色を愉しみながら軽快に下り降りる。 1週間もすれば、満艦飾の黄葉紅葉に、いろは坂は染まるのだろう。 下り一方通行の2車線、無事に峠道を30分ほどで降り切り、大谷川に掛る細尾大谷橋を右折して、122号に出た。。 ここから、次の目的地、足尾銅山へ向かった。 なだらかな下りの道を進めば、やがて渡良瀬川渓谷に出た。 佐野厄除け大師には、ほとんど毎年のように出かけるので、渡良瀬川には馴染みがある。 しかし、その上流になると、川の景色がまるで違う。 すこし紅葉した眼下に見る渓谷は優美である。 渓谷に沿う渡良瀬渓谷鉄道に、並行して走る122号線を進むと、やがて、足尾銅山が前方に見えてきた。 渡良瀬川に掛る橋を渡り、足尾銅山跡の停車場に着いた。 駐車場には大きな観光バスが停まっていた。 歓迎と書かれた大きな半円の門を潜り、暫く行くと入り口があり、入坑券800円を購入する。 ここから、足尾銅山の坑口まで、トロッコ電車に揺られて、ゴトゴトと3分程進むと坑口前に着いた。 人気ない駅を降りると、入坑口が迎えてくれた。 天井も低く狭い入り口を入ると、ひやりとした冷気と、天井からぽたりとぽたりと滴が落ちる。 時折、頭や顔に垂れた滴は、ひんやりと冷たかった。 この先に、サーチライトに照らされた、700メートルの見学用の坑道が伸びている。 足尾銅山坑道の総延長は、東京から博多までに匹敵する、総延長1234キロメートルである。 薄暗い坑道を歩けば、そこは江戸時代の採掘風景が展開する。 鑿の跡や鶴嘴の跡も生々しい坑道の中、照明を受けた採掘人足の人形が、リアルに展示されている。 さらに進めば、明治時代、その採掘方法は進化し、大正、昭和と時代が進むと、採掘の進化ぶりがつぶさに理解できる。 それにしても、この狭い坑道の中での作業、想像するだけでも、その過酷な労働に頭が下がる。 日本の近代化を背負わされた労働者の、赤裸々な姿を垣間見た思いがする。 の江戸時代の慶長15年(1610年)に発見されて以来、昭和の1973年の閉山まで、400年の間、足尾銅山は採掘された。 明治9年のこと、足尾銅山は古河市兵衛が経営を始めた。 そして、明治14年には、足尾銅山に良質の大鉱脈が発見される。 さらに、明治18年には、全国の総産出量の39パーセントを占めるほどに増産された。 しかし、その飛躍的な増産と引き換えに、民衆を苦しめる公害問題を引き起こした。 足尾銅山の坑道を支える坑木や燃料のために、山林の木々は切り倒された。 その結果、無残にも山は裸同然になり、渡良瀬川の氾濫と洪水を引き起すことになった。 さらに、足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、漁をしてして魚を食べた谷中村などの農民たちの身体を蝕むことになった。 そして、明治の時代34年(1901年)、元衆議院・田中正造(天保12<1841年>ー大正2年<1913年>.は、東京市日比谷において、 帝国議会開院式から帰る途中の明治天皇に、鉱毒事件の直訴する。 この事件は、世界で最初の公害問題の提起であり、環境保護思想の先駆者として世界史にも刻まれている。 さらに、宮本研作「明治の棺」の作品に昇華され、昭和45年(1970年3月)下村治演出、劇団東演による、俳優座劇場での上演は感動的であった。 ぽたぽたと天井から滴り落ちる冷たい地下水が顔を濡らす。 そして、大正、昭和の坑道を歩くと、右手に小さな祠の開運洞があった。 天井は低く、細い参道の坑道を進むと、朱色のこじんまりとしたお社があり、祠の奥には地下水が溜まっていた。 何の飾りけもない鈴を鳴らし手を合わせた。 坑道の出口近くには資料館があり、足尾銅山を開設する映画が流されていた。 さらに進むと、足尾銅山で採掘された金属がたくさん展示されていた。 約40分程の足尾銅山巡りは終わった。 外に出れば、降り注ぐ陽光がとても眩しかった。 その出口の先に、足尾銅山鋳銭座があり門を潜った。 そこには、小さな模型人形が、江戸時代の採掘の様子や、銅銭などの鋳造風景を視覚的に説明していた。 すると、先生に引率された小学生がどやどやと入館してきて、館内は大賑わいになった。 忘れていた、遠いかつての遠足を思い出した。 |