飛騨高山&下呂温泉を訪ねて 2010年9月12(日)-13(月) 日本三大名湯と言えば、すぐに答えられる人は、果たしてどの位いるだろうか? 人によれば、それぞれの名湯があることだろうし、この三大名湯を決めたのは、 江戸時代初期の儒学者林羅山(1583−1657)だから、それほどの意味があるのかどうか、少し疑問符がつくのだが。 それでも、江戸時代より今日まで、一応、一般的に言われていることだから、取りあえずは良しとして考えられるだろう。 たぶん、多くの人は、第1に群馬県の草津温泉を思い浮かべるのではないのだろうか。 そして、次が思いつかない。 関西出身の人は、兵庫県にある有馬温泉を思い浮かべることができる。 それでは最期に残った、第3は何かと言えば、それは岐阜県の山の中、飛騨川沿いに湧く古湯の下呂温泉である。 今回の温泉巡りの小さな旅は、奥飛騨の高山と下呂温泉を訪ねることにした。 中央高速を北上して、諏訪湖を越して、松本ICを下りる。 ここのICを下りたのは、2年半くらい前に、松本城を訪ねて以来である。 国道158号を進み行けば、道はますます高度を増していく。 どうやら、今日は幸いにも晴天のようである。 太陽は輝き、木々の緑は深く、車窓から流れゆく空気が、爽やかな冷気を運ぶ。 安房峠トンネルを越えてかなり進むに従い、道はねくねぐねと曲がり、トンネルを出たり入ったりが続く。 やがて、奥深い山道の途中、白骨温泉や乗鞍岳の表示が現れた。 数年前に、白骨温泉に出かけた時のことが、懐かしく思い起こされる。 表示の先の分かれ道、左に進めば、白骨温泉や乗鞍岳へ向かう。 しかし、目的地は飛騨高山、右に切り、さらにさらに進めば、道は厳しさを増し、トンネルの連続になった。 やがて梓川の標識が出現し、右へ曲がれば、そこは上高地であるらしい。 しかし、この頃から、小糠雨の降る生憎の空模様になってしまった。 せめてのこと、これ以上、雨脚が強くならないことを祈るだけだった。 フロントガラスの雨を、ワイパーが忙しく拭い去りながら、進みゆけば、高山市の表示も頻繁に現れて来た。 一本道とはいえ、目的地に、確実に近づいていることを実感し安心をする。 左手、眼下を見れば、雨降りで水嵩を増した小八川が、勢いよく流れ行く。 雨に濡れた山々の緑は浮きたち、折り重なる山々には霧がかかり、薄墨を流したように煙る幻想的な風情を見せていた。 やがて、下りの道を進むと、高山市街に到達するところまでこぎつけた。 ここまで、松本ICから2時間位はかかっただろうか。 だが、我々は高山市街には向かわず、第1の目的地、千光寺へ向かった。 千光寺は高山市街から、30分ほど離れた距離に位置している。 千光寺への道は、先ほどまでの峻厳な道に比べれば、緩やかな上り坂。 だが、上るに従い、やはり道は狭く厳しさを増してきた。 標高900メートルの袈裟山山頂へ向かう道を、800メートル上り切ったところに、山門の大慈門があり、無料の駐車場があった。 1600年前の仁徳天皇の御代、飛騨の豪族両面宿儺(りょうめんすくな)が開山したと伝えられる。 その後、約1200年前に、真如親王(弘法大師の十大弟子の一人)が、寺を建立したという由緒ある古刹である。 しかし、戦国の時代、永禄7年、戦乱のさ中、甲斐の武田軍勢は、飛騨に火を放ち、この地に猛攻撃を開始。 その時、千光寺の19の院坊や七堂伽藍は、完全に炎上した。 その後、文禄1年(1592)、本堂の原型として草庵が建てられたのだった。 やがて、中興の祖で初代住職玄海法印が、一千座の本尊観世音菩薩の修法を行う。 その2年後の慶長3年(1598)、阿弥陀堂(現在の持仏堂)に本尊を祀る。 泰平が訪れた江戸時代、、高山城主金森頼直の請願の下、 再建奉行森直次、大工中井甚次郎達により、万治2年(1659)に、観音堂の堂宇は完成し現在に至る。 その時の住職は、権大僧都法院舜慶であった。 車を降りれば、先ほどまでの雨は上がり、強い陽光が射していた。 山門を潜り、緩やかに傾斜する参道を進めば、まだ人気のない境内に着いた。 無理もない、時間は早朝の8時半。 境内にある円空記念館の玄関も閉ざされていた。 境内を右に進めば、本堂庫裏が、古を偲ばせる趣で建っていた。 庫裏の前から見渡せば、朝靄も残る山容の彼方に陽光は輝き、木々の緑が眩い。 遠く正面に、御嶽山が優麗な姿を見せる。 この風光明媚な景色は、千光寺霧の海と謳われ、飛騨八景の一つである。 さらに、進むと、左に鐘楼があり、右手は観音堂に続く、勾配の大きな階段があった。 雨に濡れた階段を上り切ると、深い歴史を刻む、決して荘厳ではなくこじんまりと観音堂が建っていた。 まだ誰も訪れる気配もない本堂に手を合わせる。 階段を下りてさらに進むと、小さな弁天池があり、薄桃色の蓮の花が、金色の花芯を見せて咲いていた。 池を二つに割るように、細い木橋が掛り、その先に、小さな祠の弁財天を祀る弁天堂があった。 お参りを済まし、木橋を戻り、さらに傾斜の緩い坂道を進むと、そこには薬師堂が建っていた。 この建物は、まだ歴史も浅いのだろう、いまだ白木が匂うようだった。 そして入り口はまだ閉ざされていた。 少し切られた窓を覗けば、中には観音様が鎮座している。 木の扉を引くと、がらがらと扉が開いた。 中に入れば、お線香の匂いが漂い、静寂にして霊妙な聖域に、足を踏み入れたかのようだった。 本堂の左右には、それぞれに小さな部屋があり、四十七の観音霊場の写真が飾られていた。 薬師堂から外へ出て、来た道をすこし戻れば、左手の鬱蒼と茂る木立の中に、道が付いている。 その奥にお堂があるらしい。 雨に濡れ、赤土が剥き出しのぬかるんだ、水たまりもある道を、滑らないように気をつけながら上る。 途中には、小さな祠が幾つもあり、さらに上り行けば、朝靄に煙る室町時代後期建立の愛宕堂が、ひっそりと建っていた。 物音もない森閑とした静寂の中、雨に濡れた木々から霊気が漂う。 深い木立の中、空を見上げれば陽光は強く射しているのだが、木漏れ日さえ届かない。 雨を含んだ大地から、土の精霊が立ち上っているかのように聖域を包む。 お参りを済まし下れば、土を踏む足音が響くだけであった。 元の参道へ降りれば、強い陽光に目が眩む。 彼方、御嶽山の姿も秀麗さを増していた。 参道を戻り、弁天堂を見やりながら進めば、千光寺心の道場と書かれた木の看板が目に入る。 木戸から中へ入ると、僧侶から優しく声が掛った。 「どうぞ、遠慮なく中に入って、自由に拝観してください」 玄関の土間に靴を脱いで、庫裏に上がった。 拝観料は無料で、私たちは僅かばかりの心付けをした。 そして、歴史を刻む廊下を歩くと、右手の小さな座敷を囲む襖一面に、桜の絵が描かれていた。 襖9枚に描かれた桜の老樹は、決して華やかに咲きこぼれているわけではないが、穏やかに幽麗な画趣が伝わる。 天明7年(1787年)、桜を得意とする京都の絵師三熊思考(みくましこう)が描いたものであった。 さらに、廊下を進むと階段があり、ぎしぎしと簡素な作りの廊下を進みゆけば、右手に仏様が安置された部屋があった。 見やりながら、左手に曲がると、観音堂への渡り廊下があった。 先ほど、階段を上り仰ぎ見た観音堂の本堂の回廊を、ぐるりと一回りした。 そして観音堂の正面に来た時、景色は一転、遥か彼方に広がる大自然が、陽光を浴びて耀いていた。 霊気漂う朝の空気を、大きく吸い込み、回廊を後にして、廊下を戻る。 観音堂か庫裏かどちらかに、県の重要文化財龍天井(りゅうてんじょう)があるのだろう。 戦国の世、切腹自害した武将の血痕が残る床板に、探幽の次男狩野探雪(かのうたんせつ)が描き上げた、二頭の龍の逆さ描き。 武将の魂の鎮魂と安寧を願い、精魂こめて描き上げ、天井に張りつめたものであると寺伝にある。 庫裏の入り口に辿り着けば、そこには広い座敷があり、400年以上の時を刻んだ、黒く煤け鈍く光る天井の木組みが構えていた。 その天井からは、がっしりと、樹齢数百年の木の根で作られた自在かぎが吊られ、囲炉裏が切られていた。 冬が来れば、昔と変わらずに、囲炉裏に木がくべられ、ゆっくりと煙が天井に上る。 この囲炉裏で暖を取りながら、円空も一心不乱に、鑿で仏像を刻んだのだ。 ゆっくりと庫裏から観音堂を散策して外へ出ると、境内には人の姿がちらほらと見える。 そして、先ほどは閉まっていた円空仏寺宝館に、拝観料500円を納め入館する。 静寂にして霊妙な空気が漲っていた。 玄関正面には、円空作の豪快な立木仁王像が立っていた。 その像は、150年前まで、胸突き八丁を過ぎたところにある仁王門にあったそうだが、痛みが余りに酷いので、こちらへ保存されたのだと言う。 センの古木に彫られた仁王さまは吽(うん)形で、玄関左横に位置する阿(あ)形と一対でる。 顔から下は、長い歳月、風雨に晒され、古木の木地が浮き上がり、きりりと見開いた大きな両目は正面を見据える。 しかし、そこには、人を威嚇し委縮させるような恐ろしさよりは、ほのぼのとした慈愛さえ放射されている。 さらに、右手に折れ進めば、薄明かりの中、円空の神秘な世界が広がっていた。 1600年前、この地を開山したと伝えられ、飛騨地方を支配していた豪族の両面宿儺(りょうめんすくな)の彫像が鎮座していた。 顔が前後に2つ、足と手が4本の怪物の顔は、前後の顔を前面に並列して彫り込んでいた。 前面の顔はうっすらと口を開き、目は静かに瞑目している。 少し後ろに控える顔は、口を厳しく結び、前面を見据えていた。 髪の毛の線は、細く力強く彫り込まれている。 肩から流れる落ちる腕は柔らかく、膝の上で、右手がしっかりと斧を握り、左手が刃に被されている。 像に比べれば、幾分高い台座は、一刀のもとに、ごつごつと彫り込まれていた。 さらに進めば、びんずる像(僧形自刻像)があった。 全ての衆生の悩みを聞き、苦しみも悲しみも受容する、どこまでも柔和な顔立ち。 かつては、本堂に安置されていたのだと言う。 その時、飛騨地方に住む、数知れない民衆たちが、一身に撫ぜたのであろう。 頭の上はぴかぴかに光り、人々に愛され続けて来た魂の総量が、鈍い光を放っているようだった。 この像は、円空さまの自刻像とも伝えられている。 さらに進むと、不動明王が鈍く耀いていた。 逆巻く髪を纏めた厳しい顔で、、正面を見据え、右手には魔から民衆を護る三鈷剣を握っている。 痩身な像は、憤怒の像であるにも関わらず、慈愛が漂い柔和で気品がある。 その両脇に、金剛童子と善財童子がほのぼのとした姿で並んでいた。 この3体の仏像は、もともと1本の木。 半割の木から不動明王を、残りの半分を、さらに半割にして、2体を彫り上げたものだあった。 そして、出口近くで、玄関の立木仁王像と一対の像が我々を迎えてくれた。 すでに仁王像の顔は、長い歳月の風雪に晒され、風化されて表情は消えている。 しかし、円空が彫り込んだ像からは、何か心を和ませる気が放射されている。 円空は、木の声に耳を澄まし、木の精を掘り起こしているのであろう。 生涯に誓願した12万体の仏像を刻んだと言われる円空の彫像は、現在の岐阜県内だけでも1000体以上現存している。 木の木目や割れ目や裂け目や節などを生かして、迷いなく、木目に沿って鑿で鋭く刻み込む。 荒く鋭く彫られた像は、見る者へ優しく微笑み掛ける。 64年の生涯、最期は現在の岐阜県関市の弥勒寺に定住し、12万体の仏像を彫りきり、還暦を迎えた。 やがて、己の天命を悟った円空は、幼き頃、母を洪水でのみ込んだ長良川河畔で即身仏となり、成仏したと言われる。 あの円空仏の慈愛に満ちた微笑には、壮絶な円空の魂が彫り込まれているのだ。 神韻の響く64体の円空仏を展示していた円空仏寺宝館を後に、山を下り、高山市に向かった。 天気は申し分ないほどに晴れあがっている。 のんびりとうららかな日をを浴びながら進めば、30分ほどで、高山市街に到着した。 そして、次の目的地の国分寺に向かった。 寺は市街地の中にあった。 まだ午前10時過ぎ、境内の無料の駐車場に車を停めた。 遠くは聖武天皇の御代、国家の安寧と五穀豊穣を祈願して、天皇の詔勅の下、各地に国分寺は建てられた。 その古い歴史を持つ飛騨国分寺には、室町時代に建立された本堂と、江戸時代に建てられた三重塔が建っている。 車を降りれば、三重塔が陽光に照らされ、青空の下、古の気韻を響かせ、陰影深く聳えていた。 さらに、正面を見れば、樹齢1200年以上、 太さ目通り10m、 高さ37mと言われる大銀杏が、それほど広くもない境内の中央に。どっかりと鎮座していた。 その大銀杏には、とても悲しい話が今も伝わる。 天平の昔、大工の棟梁が、寸法を間違い、柱の木を短く切ってしまった。 方策も見つからず途方に暮れた親の棟梁に、解決のための進言を、娘の八重菊がした。 そのアイデアを力に、棟梁は柱の短い部分を枡組で補い、目出度く大塔は完成した。 その後、棟梁の名声は大いに高まるのだが、己の犯した未熟な失敗を覆い隠すために、娘の八重菊を殺し、この寺の境内に埋めてしまった。 そして、娘の亡骸の傍に、1本の銀杏の木が植えられた。 その哀しい歴史を抱いて、1200年以上、何も語ることなく、静かに生き続けている大銀杏なのである。 その銀杏の木は、祈願をすれば、母乳の出ない女性は、母乳が出るとようになると、昔から信じられている。 確かにそれを暗示するかのように、太い老樹の枝を見れば、女性の母乳のように、幾つも瘤となって垂れさがっていた。 その銀杏の左手には、趣のある鐘楼が建っていた。 そして、正面の本堂に進み、手を合わせた。 この本堂の中には、東方浄瑠璃界の教主、医薬を司る薬師如来が安置されている。 境内には、訪れる観光客達も増え、賑やかさをましていた。 陽光はさらに強く、秋を待つ高山の空は、真っ青に晴れ渡っていた。 そして、境内の駐車場に車を置いて、高山市街を散歩することにした。 国分寺通りを真っすぐに進むと、賑やかな市街地に出た。 そして、宮川に掛る鍛冶橋の手前で左に折れ、川沿いの道を進み、弥生橋を越して行けば、高山祭屋台会館へ続く道に出た。 宮前橋を渡ると、正面に大鳥居が待ち構えていた。 橋から、遠く彼方を望めば、なだらかな緑深い山々、護岸も整備されている宮川の清流が、陽光に煌めいていた。 橋を渡り切り、鳥居を潜り、右に折れれば、そこは江戸の面影を色濃く残す町並みが出現する。 雪深い飛騨の高山、家並はがっしりと骨格も逞しく、出格子窓は風情を沿え、建て物は長い歳月を刻みこみ黒光していた。 その町並みの中に、ひと際、間口の広い重要文化財吉島家住宅があった。 玄関の上には、造り酒屋でもあった、かつての面影を偲ばせ、酒造りの神に感謝を印す、難波の三輪神社の杉玉が軒先に下がっていた。 入り口には、莫大な運用金を献上したことにより、江戸幕府より賜ったという、大きな暖簾が掛けてあり、 それを潜ると大きな土間があり、そこで入館料の500円を払った。 土間の天井は吹き射ぬけで、遥かに高く、横の梁(はり)と縦の束柱(つかばしら)が、ダイナミックに組みあがり、それを黒光りした大黒柱ががっしりと支えていた。 そして、天井に切られた高窓から、陽光が差し込み、陰翳深い光のシルエットを刻んでいた。 土間に靴を脱ぎ置き、座敷を探索に出かけた。 大広間の奥へ進むと、2階への急で狭い階段があった。 注意しながら上ると、天井の低い部屋が幾つもある。 その大きさは、それぞれに、大きさも意匠も異なっていた。 道路側の板連子窓からは、障子戸を漏れる光が、日本情緒を醸し出す。 座敷をぶらりと歩くと、昔ながらのガラス窓があり、坪庭の緑が美しい。 そして、最奥の隅々まで手入れが行き届いた部屋は、意図的に段差を造り、天井は低いが心地よい。 それぞれの小部屋は、日本建築の粋な意匠を凝らし、建物の構造に遊びがあるのが愉しい。 天明8年(1788)、この地へ移り住んだ初代重兵衛は、酒造業を始め、後代には、幕府へ莫大な運用金さえ献上するまでになった。 そして、その莫大な財力により、粋を凝らした邸宅を建造するが、江戸時代から明治の代まで、度々の大火に遭い消失。 現在の建物は、明治38年の大火の後に建てられたものであった。 その建物は、明治40年、川原町の名工西田伊三郎により、飛騨の建築様式を余すところなく表現したものである。 昭和52年に来日した、米国の建築界の巨匠チャールズ・ムーアが激賞した吉島家住宅には、静謐で凛とした空気が流れていた。 玄関を出ればまさに別世界、陽光はが眩しく、外気は熱く、今更ながら残暑のような現実に引き戻された。 そして、隣接する国指定重要文化財日下部民芸館の門を潜った。 中には、大きな土間があり、やはり、梁と束柱で、直線的で豪壮な風格を持つ、立体的な木組みの建物は、黒光りの木肌を見せていた。 下足場で靴を脱ぎ座敷に上がる。 さすがに、正午少し前の時間、室内には老若男女の見物客がいた。 広い部屋の畳は茶色く変色していたが、歴史を印す室内の戸や壁は、重厚な雰囲気を醸し出していた。 四角い部屋を抜けて行くと、中庭に出た。 けっして、広い庭ではないが、趣味の良さを伝えて瀟洒である。 外からは、見えないところにこそ美意識を表現しようとする、日本人のさりげない洒落心を垣間見る。 さらに、坪庭を見ながら、昔ながらの板敷の廊下を進むと、広い仏間に出た。 そこには大きな仏壇が置かれていて、今でも昔さながらに祀られていた。 その奥にはさらに広い奥座敷があり、先ほどの中庭より広い庭が広がっていた。 庭には、松の木々が、緩やかな曲線を描き、なだらかにうねりながら風情を沿えていた。 広い屋敷を一通り見歩き、部屋を戻れば、広い部屋の静寂の向こう、廊下の硝子戸越しに、先ほどの坪庭の緑が、陽光に映えていた。 そして、さらに部屋部屋を進めば、あくまでも高い天井から吊るされた自在かぎに、釜が掛けられ、囲炉裏が切られていた。 そこは広い台所であり、前にはがらんとした土間があり、その向こうに、小さな畳j敷きの小座敷があった。 かつて、高山は戦国武将金森長近の領する3万8千石の城下町であった。 しかし、元禄5年(1692)、金森氏は国替となり、飛騨地方は徳川幕府の直轄する天領になった・ その時以来、高山は、武家文化から離れて、町人の町として、独自の町衆文化を育み、繁栄をし始めたのである。 日下部家も、天領時代に、幕府の御用商人として繁栄を誇り、 屋号の「谷屋」をいただき、後に、御用金を用立てる掛屋(かけや)を務め、両替屋を営むまでになった。 まさに、高山を代表する町家の繁栄を象徴していた。 そして、贅を凝らして建設したのが、日下部家住宅なのであった。 しかし、度重なる災禍に遭い、建物は消失、現在の建物は明治12年(1879)、当代一の名工川尻治助によて完成したものである。 広い台所は、檜造りの吹き抜けの天井。 梁〈はり〉と束柱〈つかばしら〉が交差し、男性的な木組みの構成だ。 天井の切り窓から陽光が差し込み、紅殻(ベンガラ)に煤を混ぜ込めた鈍い黒に塗り込められた柱が、強いコントラストを描く。 まさに、日本の町衆文化を象徴する建物は、日本文化の情感を余すところなく表現し、 簡潔さと無駄を省いた機能性の中に、それはさながら祭式性さえ感じさせる情感が漂っていた。 それは、日本人の心に響く、凛として端正で、それでいて、何処か優しく包み込む空気感があった。 座敷を降りて、土蔵の前の土間に出れば、そこには休憩所があった。 そこで、冷たい御茶とお煎餅を頂いた。 そして、私は土蔵の展示館へ見学に出かけた。 土蔵の中は、展示場に奇麗に改装工事され、日下部家に代々伝わる様々な民器雑器が展示されていた。 日下部民芸館の大戸を潜り外へ出れば、すでに時間は12時半を回っていた。 重要伝統的建造物群保存地区に選定されている高山の町並みを愉しみながら、一之町、二之町、三之町がある「さんまち」へ歩みを進めた。 町にはたくさんの観光客が溢れていた。 宮川通りを越え、さんまち通りへ出て右に折れると、やがて、ひと際賑わいを見せる通りに出た。 どうやらここが高山市街の繁華街なのだろう。 それほど広くない通りには、たくさんの露店が、処狭しと立ち並んでいた。 そして、遠くからライブバンドが演奏する、懐かしい曲が流れて来た。 近づいてみれば、そこには小さな特設ステージが造られていた。 ステージの前には、椅子に座るお客様や、立ち見の人達で一杯だった。 この辺りも、高山祭になれば、豪奢を極めた屋台が引きまわされ、お囃子や雅楽がが鳴り響くのだろう。 春の4月には日枝神社山王祭、秋の10月の桜山八幡宮の八幡祭。 100の提灯に照らされて、幻想的に浮かび上がる屋台の上では、精巧に造られたからくり人形が踊る。 まさに、高山市街は、飛騨の領国大名金森氏の時代(1585〜1692年)に起源を持つ、華やかな祭りに彩られる。 そんな日本の祭りが繰り広げられる高山。 市街は、日本の町家の街並みが残り、日本の詩情を豊かに紡ぎだしている。 さらに、北へ向かえば、ユネスコ世界遺産になった白川郷もある。 高山市街を歩いていると、たくさんの外国人に出会う。 それも、アジアの人よりかは、北欧や欧米の外国人が多かった。 欧米の外国人にとっては、まさに、日本文化が、豊饒に匂う土地に触れたいのであろう。 ぶらりぶらりと、露店を眺め、賑わいを愉しみながら進むと、また宮川通りに出た。 左に折れ、鍛冶橋を越した頃、そろそろ、昼食を摂ることにした。 日はかなり強く、知らず知らずの間に、かなりの道のりを歩いていた。 入ったお店は大きな焼き肉屋さんだった。 それはまるで、ギリシャの神殿のような趣さえあった。 私は生ビールを飲み、ママは飛騨牛のロースランチを注文した。 運ばれてきた肉を網で焼き、特製のタレで食べる。 私も一切れだけ貰って食べたが、肉は柔らかく、そして噛めば、じゅわりと味が広がり、うま味が充満した。 そして、一休みの後、店を出て車のある駐車場へ着いたのは、午後1時頃だった。 室内の暑くなった車に戻り、最終目的地の下呂温泉に向かった。 さすがに、車のナンバーには、名古屋を表示したものが多くなって来た。 やがて、約1時間ほどで、目的地の下呂温泉に到着した。 本日の下呂温泉の宿は、飛騨川の渓流沿いを少し上った丘の上にあった。 ロビーで手続きをして、4階の部屋に着けば、正面に飛騨川が緩やかに蛇行し、その彼方になだらかな山々が見える。 少し休み、早速、温泉に浸かることにした。 大浴場は広々として明るく清々しい。 身体を洗い湯に身体を預ければ、湯はつるつるとぬるぬるして肌理が細かく、この上もないほどに柔らかだった。 さすがに、美人の湯、有馬温泉(兵庫県)、草津温泉(群馬県)と共に、日本三大名湯。 そして、ドアを開けて、露天風呂へ出れば、爽やかで柔らかい風が吹き流れてきた。 源泉100%の掛け流しの湯は、さらに身体を優しく包んでくれた。 ゆらゆらと微かに立ち上る湯けむりの向こう、緑深い山の木々が心を和ませてくれる。 さらに遠くを望めば、緩やかに蛇行する飛騨川が見え、川沿いに建つ旅館やホテルが、昔ながらの古湯の風情をたたえていた。 |