佐野厄除け大師本堂 本堂の扁額
佐野厄除け大師&秀郷祭りを訪ねて
2010年8月8日
本堂前、参道横の観音様
このところの猛暑も一服、凌ぎやすいい一日、栃木県佐野厄除け大師へ出かけた。
猛暑ではないとはいえ、気温は勿論30度はゆうに越す真夏日なのだが。
それでも、37、8度に比べれば、大いに凌ぎやすく感じるのだから不思議だ。
観音様に、甘茶をかける 
午後2時半ぎに家を出て、外環から東北道を北上する。
やがて、荒川を越し、利根川を渡るあたりから、青々とした畑が広がり、遠くに、朦朧と霞みながら、アルプスの山々がご幾重にも見える。

高速道を、佐野藤岡ICを下りて、進国道50号を進めば、左手に、忽然と佐野アウトレットが見える。
ここから2キロばかり進めば、信号があり右折して大師様へ向かう。
ここに、佐野厄除け大師の看板があれば、間違うこともないのだが、足利方面からしか、看板は見えない。

それ故、かつて、何度も道を間違え、苦労したことを思い出す。
今は、蕎麦屋のある植下第2信号を、右折と憶えているので間違えることもなくなった。

くねくねと道を進むと、T字路があり、真っすぐ進むと佐野市街へ出る。
途中、JR佐野駅に向かう道が、交通規制をされていた。
幸いに、大師様とは方向が違うので、難なく目的地には辿り着いた。

大師様の境内、無料の駐車場に車を停めた。
時間は3時半頃、駐車場も境内も閑散としていた。
閑散とした境内
参道を進み、本堂へ。
旧お盆の前の昼下がり、ほとんど参拝の人達もいなかった。
本堂の屋根をを、真夏日の強い日差しが差し照り返していた。
佐野市街、趣のある家並み 
去年のこと、開店以来、旧お盆は、何時も私たちの夏休みだった。
私の誕生日が8月13日なので、14日から16日まで、短い夏休みをとって、秩父へ出かけるのが習慣だった。
祭りの開始を待つ若衆たち 
しかし、去年のこと、長女ががん検診で、再検査をすることになった。
家族みんなが暗い夏休みを迎えた。
そして、我々も秩父行きを控え、佐野厄除け大師へ、厄除けに出かけた。

お店も25年にして、夏休みを返上して、営業することにした。
幸いに、再検査は異状なしで、家族全員、胸を撫で下ろした。
今にして振り返れば、とても長くつらい旧お盆だったことを思い出す。

そこで、そのお礼に、今日、厄除け大師様のところへやって来たのだった。
この時期だけなのだろう、黄金に輝く、柔和な尊顔の小さな観音様が、本堂前で、我々を迎えてくれた。
柄杓で甘茶を掬って、頭の上から優しく掛け流し、隣に置かれた鐘に小さな撞木をあてると、霊気に鐘の音が揺れながら共鳴する。
 
この1年、何事もなかったことへお礼の手を合わせ瞑目する。
境内では、蝉の声がひときわ、静寂を破るように鳴いていた。
JR佐野駅横の広場 
隣の建物で、去年いただいた、厄除け・身代わりのお札を返納し、お金を添えた。
近くのお掃除地蔵さん、参拝者が水を掛け、束子で磨かれた頭が、陽光に照らされ光っていた。
露天も無い殺風景な境内を見ることは初めてのこと、境内は長閑な佇まいだが、何処か寂しげな風情。
JR佐野駅前の広場にて 午後5時、神輿が動き始めた
駐車場から車に乗って、秀郷祭りへ出かけた。
お祭りに近い無料の駐車場に車を停め、カメラを持って祭りへ繰り出した。
 
佐野市街地は、昔の風情を称えた街並みが残り、懐かしい日本の町の原風景が残る。
だが、やはり、時代の流れには敵わないのだろう、古い街並みが消え行く姿が、傍目にも無残な感慨を残す。
 
やがて、佐野市庁舎へ向かう道、あちらこちらで、神輿を囲む下穿きと半纏姿の祭り男や女たちがいた。
やがて、お祭りのメーン会場になるのだろうか、交差点にも、数基の神輿が待機していた。
みな、神輿を担ぐ時を、首を長くして待っていた。
 
交差点を左に切って歩いていくと、佐野市庁舎があり、そこには演台が置かれていた。
まっすぐ進むと、テキヤが開く露店が、道の両側に建ち並んでいた。
まだ、神輿に早いのだろう、人出は浅かった。
 
祭りには、やはり、テキヤの露店は付き物だろう。
最近は、町のお祭にも、テキヤの露店は締め出され、町内会の婦人会や青年会が露店を開いている。
 
確かに、健康で安全だが、祭りとは、やはり、ハレの世界。
日常のケの健康で安全とおぼしき世界を離れ、非日常の危険性を孕んだハレの世界がある。
異界と魔界とも触れさえする、危険な祭りの中で、日常のケが燃え落ち、健康な日常蘇るのだ。
祭りの開始宣言を聴く人たち 祭りは開始された
最近は、やたらと、健康と安全のオンパレード。
危険の無い世界ほど、逆説的に、これほど怖い世界はないのではないだろうか。
世の中には、光と影が存在して、初めて、華やかな光彩を放つ。
 
交通規制され、歩行者天国になった道を進めば、JR佐野駅前。
駅前の広場では、音量を最大限にしたロックが演奏されていた。
そして、駅横の広場には、様々な店が集まる、特設のマーケットがあった。
 
すでに、時間は夕刻も近い5時頃。
陽光も少し落ち着き、微かに渡る風も爽やかに感じる。
来た道を戻り、途中、創業27年というグリルに入る。
 
店の中には、1組の家族連れが食事をしていた。
さすがに佐野、洋食屋さんでも、手打ちの佐野ラーメンがメニューにのっている。
私はビールを飲み、ママは佐野ラーメンを注文した。

腰が曲がり、背中に瘤のあるお婆ちゃんと孫が、お店のホールを手伝っていた。
幾星霜、お婆ちゃんは、来る日も来る日も、畑仕事をしたのだろうか。
一昔前、農家のお爺ちゃんやお婆ちゃんには、腰が曲がり、背中に瘤のある人がたくさんいた。

それほどに、日本の農家の労働は過酷だったのであろう。
しかし、家族のために、背中が曲がる程働く親と、その親たちを尊敬する子供たちの間に、深い愛情の絆があった。
テレビでは、高校野球の中継がなされていた。
 
ちょうど、ご当地、佐野日大の試合が放映されていた。
だが、佐野日大の敗色は濃厚であった。
お店の玄関の自動ドアが、絶えず開閉していた。
 
店の前の歩道は、かなりの人で溢れ始めていた。
食事を終え、外に出れば、神輿を見物に来た人達が歩道を埋め初めていた。
露店の掛け声にも、勢いと活気が溢れていた。
 
神輿の出を待つ担ぎ手達の顔にも、活気が漲り始めている。
やがて、市庁舎の前の演台に、人が登り始めた。
そして、あちらこちらの神輿に担ぎ手が集まり、掛け声と共に、神輿が担ぎあげられ、担ぎ手たちの顔は精悍さを増した。

そして、先ほどの、市庁舎前の演台の前に向かい集う。
やがて、演台上から、市長の開催宣言と共に、2日目の祭りが始まった。
市庁舎前は、神輿の威勢のよい掛け声が、ワッショイ、ワッショイと響き渡った。
 
すでに、時間は午後6時近くだが、夏の日の夕刻は長い。
空には、日射しは弱くなったとはいえ、まだまだ、青空が広がっていた。
日が落ちるとともに、祭りは最高潮を迎えるのだろう。

この広いメインストリーは、立錐の余地のないほどに、人であふれ、お神酒の入った祭りの若衆達は祭りに酔いしれる。
そして、時には、神輿がすれ違うその時、一触即発の危険さえはらむ。
神輿を担ぐもの、祭りを見物する者たちの心が溶け合い、真夏の夜は、一気に燃え上がることだろう。
グリルの店からの風景 
偶然にも遭遇した、秀郷祭り。
祭りの興奮に触れることは、祭りの華やぎとエネルギーが、体内の滓を全て燃やしつくしてくれる。
 
この2年の間、毎年出かけていた、川越祭りと秩父の夜祭りに出かけなかった。
今年こそ、激しくも燃え上がる、祭りの気に触れに出かけることにする。



伝説の武将、藤原秀郷とは


延長5年(927),、藤原秀郷は現在の栃木県にあたら先祖伝来の地、下野の国へ、今でいえば警官察にあたる押領使として任官した。
そして、唐沢山に城を築き善政をしいていた。

その頃、朝廷に背いて、関東8国を支配するようになり、勢力を拡張する平将門を討伐のために、
征夷代将軍に任命された、藤原忠文は、平将門征伐に向かった。

ところが、藤原忠文が到着する前に、藤原秀郷は、関東独立王国を築いて新皇と称した平将門を、天慶3年(940年)、
平貞盛と連合し、下総国猿島郡を襲い天慶の乱を平定した。

その功により、押領使から下野守に昇進し、武蔵守の兼任する従四位下となり、現在の佐野の地に平和と繁栄を齎した。

さらには大百足退治をしたと伝えられる、伝説の武将でもある。
琵琶湖のほとりに住む龍神一族は、長い間、三上山に住む大百足に苦しめられていた。

ある日のこと、龍神一族の娘に懇願された藤原秀郷は、弓矢で大百足を退治したという。
やがては、龍神の恩返し、龍神の助けにより、平将門を打ち滅ぼしたとも伝えらていれる。