みちのく、福島県いわき市を訪ねて
(白水阿弥陀堂・塩谷崎灯台・小名浜・勿来の関)
2010年8月22〜23日

このところの旅は、信州や奥大井など、奥深い山里、身体の芯まで沁みる湯を求めての旅が多かった。
今回は、海沿いのいで湯と、海の幸を愉しむ旅をすることになった。
勿論、計画はママがたて、私に異論がなければ実行にあいなる。

何せ、私は車の運転が出来ないので、計画に乗り、助手席で、それなりにナビゲーションをするのが仕事だ。
だから、旅の方向性と、何を愉しみたいのかを、大雑把に伝えれば、あとは助手席で、のんびりと何をしていても良い。
酒を飲んでいようが、寝ていようが勝手気儘なものである。
白水阿弥陀堂
さて、久しぶりの常磐道を北上して、一気に福島県へ向かった。
勿来いわきJCを下り、一路最初の目的地、願成寺白水阿弥陀堂へ。
みちのくへの入り口にあたるいわき市は快晴であった。

いわき市をざっと調べてみれば、人口と面積は、福島県で最大、人口に関して言えば、東北地方で第2位。
工業製品に至っては、出荷額は東北地方で最大である。
訪れる観光客は、福島県で第1位、東北地方では仙台に次いで第2位に位置する。

気候に関しては、年間日照時間が最大であり、東北地方では、年間平均気温が一番高く、山間部の一部を除き、ほとんど積雪はなく、いたって温暖である。
さらに、いわき沖で、暖流と寒流が交わり、古来、日本を代表する漁場となっている。
また、奥州への玄関口であり、古より宿場町としても大いに繁栄した歴史を持つ。

古くから豊かな漁港の小名浜で栄えたいわき市。
平安時代末期、永暦元年(1160)、奥州鎮守府将軍藤原清衡の娘、徳姫が建立した寺が白水阿弥陀堂。
方三間の単層宝形造で、屋根は柿葺(こけらぶき)の国宝の寺は山里の中にあった。

徳姫は、岩城の国守岩城太夫則道に嫁ぎ、則道の没後、智徳上人に帰依して剃髪。
徳尼御前と呼ばれ、亡夫の冥福を祈願し、阿弥陀堂を創建した。
その様式は、徳姫の故郷の平泉の寺院、、毛越寺や無量光院の建築様式に影響を受けていると言われている。
白水という呼び方も、平泉の泉を分字して、白水とな名付けたとも伝えられる

軽快に鄙びた山里を走れば、やがて、目的地に着いた。
朝の陽光が緑の山々を照らし、強い日が車の中へ差しこむ。

無料の駐車場に車を置き外に出れば、アブラゼミが夏日の暑さを増幅するほどに鳴いていた。
参道へ続く道を少し進むと社務所があり、入館料を200円を払い中へ入った。
中島へ続く朱色の太鼓橋を渡ると、池にはたくさんの真鯉や緋鯉が泳いでいた。

人間の靴音を聴くと、朝の餌を貰えると勘違いしているのだろうか。
たくさんの鯉たちが橋下へ、大きな口をあけながら、犇めくように群れ集まる。
橋の向こう正面には、線香を焚く青銅の香炉があり、その先に、阿弥陀堂がひっそりと建っていた。

まだ時間が早いせいなのだろう、境内の人影はまばらだった。
堂宇に手を合わせ、靴を脱いで本堂の中へ。
さすがに、平安時代の建物、本堂を支える板や柱には、長い歳月を記す木目が文様を刻んでいた。
 
本堂へ足を踏み入れれば、俗世間とかけ離れた静謐な中、ひんやりと、漂う気さえ霊気を含み涼しい。
黒光りした柔和な慈眼、透かし彫りの飛天光背、きめ細かく彫り込まれた螺髪、衣文も美しい阿弥陀様が蓮華座に結跏趺坐。
足下に邪鬼を踏みつけた持国天像、多聞天像)が護る。
私たちは、名工定朝作阿弥陀様の正面に座り、静かに手を合わせ瞑目する。

天井の天蓋を見上げれば、内陣や外陣が、全て、折り上げ小組格天井。
かつて、内陣に描かれた宝相華の文様は、極彩色に絢爛と耀いていたのだろう。
今はその文様は剥落し、注意して見れば、微かにその名残を残すだけである。
かつては、この堂内は金彩にに満ち、眩い光を降り注ぎ、極楽浄土世界を具現していたことであろう。

すると、本堂の傍らに無言で座っていた若い僧侶が、阿弥陀堂と祀られる本尊など、さらに、建造物の来歴や謂れなどを説明をしてくれた。
穏やかな面立ちにして、言葉使いは優しく、簡潔に、程良い声量でとても心地よい説明をしてくれた。
僧侶の説明を聴いた後、説明を反芻するように、しばらく、堂内を無言で、清浄な霊気を愉しんだ。
境内の古木
本堂を出た頃、境内を訪れる人で、賑やかになり始めていた。
参道を戻り、平安末期に流行した歴史を持つ、浄土式庭園を散策する。
仏教の経典によれば、極楽浄土には、七宝の池があり、八つの功徳水で溢れ、蓮華が咲き満ちているという。

鈍い青緑を湛える池には、水鳥が泳ぎ、無数の鯉に交じって、たくさんの亀が、時を忘れたように泳いでいた。
遠くには、陽光を浴びながら、蓮の花が咲いている。
近づいて、蓮に顔を近づければ、柔らかく、優しく、心を洗うような微かな芳香が漂う。

白と淡い薄桃色が溶け合うように調和して、陽光を一身に浴びながら、吹きわたる微風に揺らぐ姿は優雅だ。
写真に収めようと思うのだが、不思議なことに、全て、散策道と反対側を向いていた。
すると、私を、ここの蓮を撮影する有名な写真家と間違え、、年配の写真愛好家が話しかけてきた。

「先日来た時は、午後だったので、全て、池側に向かって咲いていた。だから、今日は、午前中に来てみたけど、やはり、花の向きは同じでした」
とても、残念そうで、少し、可哀そうな気もした。
カメラオジサンについて来た奥さんは、日陰でこちらを退屈そうに見ていた。

蓮池の向こうには、中島に建つ阿弥陀堂が、陽光を浴びて強い陰翳をしるしていた。
そして、阿弥陀堂を北側の背面から抱きかかえるように、緑にもえる経塚山の彼方から、蝉の声が響く。
回遊路は阿弥陀堂の裏手に続き、参道で分断された池の傍に辿り着いた。

すでに時間は11時半近く、参拝客も増えて来ていた。
ますます、中天に上った太陽は、ぎらぎらと輝き、道にひかれた影は深い黒で刻まれていた。
駐車場に到着したら、駐車場には、かなりの数の車が停車していた。
 
早朝、この駐車場に駐車した時、麦わら帽子にランニング姿の小父さんが、にこにこしながら近づいてきた。
そして、夏日がぎらぎら差す山を指さし、ぜひあそこに行って欲しいと言った。
そこは常磐炭鉱発祥の地で、日本一小さな資料館があるので、ぜひ訪れて欲しいと。

そこで、その小父さんとの約束を守って、出かけることにした。
言われた通り、ものの5分くらい山道を車で上れば到着した。
舗装もない剥き出しの駐車場に車を停めた。

すると、麦わら帽子をかぶった、身体のがっしりとした小柄な小父さんが近づいて来た。
そして、石炭層が露出した展示石炭鉱に案内してくれ、色々と説明してくれた。
坑の中へ入ると、外の猛暑が嘘のように、ひんやりと涼気が漂、い、湧水が地中から染み出していた。

現在のいわき市四倉町、かつての大森村出身の材木商・片寄平蔵は、黒船の到来により、燃料になる石炭に着目。
そして、石炭の鉱脈探しに奔走する。
安政2年(1855年)の事、努力の甲斐あり、偶然にも、湯長谷藩領白水の弥勒沢にて、石炭の露出するのを発見した。

さらに、白水の庄屋であった大越甚六が労をとり、湯長谷藩主の内藤家から、採掘の許可を得て、石炭を本格的に採掘した。
麦わら帽子のボランティアガイドさんによれば、昔からこの土地では、石炭の事を燃える黒い土と言って、燃料として家庭で利用されていたと言っていた。
それ故、初期の採掘方法は、非常に単純な、露天掘りや狸掘りであった。

展示石炭鉱を出ると、外は猛烈な夏日が、砂利石を照らしていた。
すぐ隣にある炭鉱資料館へ出かけた。
そこは、確かに、日本一小さな資料館と説明された通りの粗末な建物だった。
木にとまり鳴くアブラゼミ
この資料館は、かつて、常磐炭鉱で働いていたという渡辺為雄さんが、自身の養鶏小屋を改造して、資料館にしたものであった。
冷房など勿論なく、裸電球が吊るされ、床は地面がむき出しのままであった。
だが、そこには、たくさんの写真や資料が展示され、奥の小屋では、かつて鉱山で使われた工具などを修理していた。

明治・大正・昭和の歴史の中で、日本最大の鉱山として、日本の命運を支えた常磐炭鉱の資料が、数こそ少ないが、我々にずっしりと歴史の重さを伝える。
写真に写る男たちの、無駄肉など微塵もない逞しい肉体。
日々の過酷な労働の中で、男たちの筋肉は隆々と盛り上がり、それは彫刻のように美しい。

写真に並んで写る男たちの顔は、自信と誇りにに満ちている。
ボランティアガイドさんによれば、当時の大学出の初任給は、6000〜8000円の時代に、炭鉱労働者は10000円以上を稼いでいたと言う。
常磐炭鉱には、様々な施設が立ち並び、歓楽街も大変な賑わいを見せ、炭鉱町は、巨大な都市と化していた。

すると、一枚の大きな白黒の石炭採掘現場の写真が展示されていた。
地下何百メートルの坑道なのだろうか? 褌一枚の裸同然の炭鉱夫が、後ろ向きで鶴嘴を振り上げている。
その隣には、大きな乳房も露わに、腰に布を巻きつけた女性が、こちら向きに顔を振り向けていた。
その顔に、決して悲壮感はなく、明るく陽気で健康そうな笑顔が写しだされていた。

第2次世界大戦も末期、炭鉱夫達はすでに徴兵され、炭鉱夫が極度に不足していた。
それ故に、女性は大切な炭鉱労働者になっていた。
さらに、日本人労働者が不足していたので、在日の外国人たちも、強制的に労働させられていたのだ。

多分、褌姿の男性も在日の人であろうと、ガイドの人は語ってくれた。
常磐炭鉱での採掘はかなり過酷を極めた。
それというのも、採掘現場は温泉鉱脈が近く、坑道内の温度は40度を越えたという。

炭鉱夫の労働は、熱地獄との戦いでもあった。
男も女といえども、裸同然で、採掘作業を強いられていたと教えてくれた。
私たちのいわき・小名浜旅行には、全く計画してなかった石炭資料館へ来たことで、思いもよらぬ、とても大きな歴史の勉強をした。
 
炭鉱資料館を出てみれば、時間はすでに12時近くになっていた。
風もほとんどなく、資料館を抱きかかえる山の緑が、中天に上った太陽に、ぎらぎらと照らされていた。
そして、次の目的地、塩谷岬に向かった。
 
なだらかな山間の道を進むと、40分ほどで塩谷崎に到着した。
海岸端にある無料の駐車場に車を置く。
前方には、穏やかな青い海が広がり、最期の夏を楽しむ海水浴客が、あちらこちらに散見する。
灯台の中の螺旋階段にて 灯台の展望台にて
塩谷埼灯台へのかなりの勾配の階段を登る。
すでに岬から下る人達とすれ違いながら登る階段は、思いのほかに手ごわい。
階段の右手には、緑豊かな崖が階段に覆いかぶさり、登るほどに左手には、洋々たる太平洋の雄姿が広がる。
灯台からの眺め 
やがて、前方彼方に白亜の灯台が、真っ青な空に屹立していた。
ママは所々の踊り場で立ち止まり、私はそれを待ちながら、なんとか灯台のある広場まで到達した。
そして、灯台への入場料を払い、灯台の小さな資料館を見物して灯台へ向かった。
狭い入口から、螺旋状の勾配の急峻な階段を登れば、残り少なくなった階段はさらに狭く険しくなった。
 
〆て200段ほどの階段を登り切り、外に出れば、遥か遠く、半島が夏靄の中に包まれ、海と空が水平線の中に溶け込んでいた。
遠くから、磯の香りを乗せて吹きわたる風が、爽やかに、噴出した汗をさっと吹き消してくれた。
夏の紺碧の海の彼方、広がる海は降り注ぐ陽光を浴びて耀いていた。

地上から塔頂までの灯塔高は27.32mの塩谷埼灯台。
この灯台の台長婦人の田中きよさんの手記をもとに、1957年に製作された松竹映画・木下恵介監督「喜びもと悲しみも幾歳月」は、佐田啓二と高峰秀子主演で大ヒットした。
そして、高音が甘く切なく響く、若山彰の歌う主題歌も、日本の津々浦々に流れたことを思い出す。
美空ひばり「みだれ髪」の歌碑の前にて
昔から灯台の建つこの地は、海難事故の多い難所であり、江戸時代には、危険を知らせる狼煙台が造られていた断崖絶壁。
今は風光明媚な磐城海岸県立自然公園に指定されている。
洋々と広がる太平洋から吹きわたる海風を、たっぷりと吸い込み灯台の階段を下る。
美空ひばりの遺影碑
さすがに、下りは嘘のように、軽やかなステップで降り、外に出ればぎらりと陽光が焼きついてきた。
灯台への急峻な階段を、彼方に広がる海岸や浜を眺めながら下れば、あっという間に駐車場に到着した。
その駐車場の先、太平洋を背景にした、「雲雀乃苑」という広場に、美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑があり、観光客が記念写真を撮っていた。
その横には美空ひばりの遺影碑が刻まれ、そこから塩屋埼が謳われた「みだれ髪」を歌う、美空ひばりの声が流れてきた。
 
時間はすでに午後1時を回っていた。
ここから、次の目的地小名浜港にある「ら・ら・ミュウ」へ向かった。
陽光が差す殺風景でなだらかな道を進み40分ほどで、目的地に到着した。
そこは、我々が想像したよりもはるかに賑やかで、広い駐車場も車が立錐の余地もないほどに犇めいていた。

 小名浜港産の海産物が溢れた市場 
やっとのことで車を停めて、たくさんの海産物店の並ぶら・ら・ミュウ内にある市場へ
沢山の品物が並び、呼び込みの声も元気が良い。
品物も豊かでとても安い。
しかし、ここで買い物をするわけにもいかず、2階の食堂街の評判の回転ずしへ出かけた。
回転ずし「おのざき」のメニュー 
さすがに、回転ずし屋さんは、待ち人で一杯だった。
私は基本的には、店で待つことを良しとしないのだが、鮨が大好物のママに合わせて待つことにした。
30分ほどで、遊覧船の発着場が見渡せる、見晴らしの良い席に案内された。
 
様々な旬の海や磯の幸が流れて来る。
しかし、壁に書かれた季節の魚の鮨を、たくさん注文した。
このところ、私もお酒が少ないようで、お腹の状態も思いのほか快調。
生ビールを飲みながら、ネタの大きく新鮮な鮨をたっぷりと愉しんだ。
回転ずし屋さんからの眺め 
先日、お客様に紹介されて出かけた、常陸那珂湊魚市場の回転ずし屋さんに比べて、いわき鮨「おのざき」は、値段もネタも一味上であろう。
宿泊するホテルの夕食は午後の6時なのだが、美味しさにひかれて、ついつい食べ過ぎてしまった。
今日の最終予定は、小名浜港沖を遊覧する観光船・デイクルーズで〆るはずが、時間はすでに3時20分過ぎ、乗船は断念した。
 
ホテルのチェックインは3時の予定だったが、すでに時間は大きく過ぎ、ホテルに到着したのは5時頃だった。
途中、簡単に着く筈が、道に迷い愚図愚図しているうちに、このところ珍しい予想外の時間になってしまった。
ホテルでチェックインして、3階の部屋に入れば、窓外に、夕暮れを待つ太平洋が紺碧に輝きながら広がっていた。


夕食は6時半、夕食前、一風呂浴びることにした。
一階までへエレベーターで降りると、そこに大浴場があった。
身体を洗い、髭を剃って、2メーターはあるかという大きな風呂に浸かる。
ホテルの部屋からの眺め 
広い全面にガラス越しに、強い日差しを浴びた太平洋が紺碧に耀いている。
波は静かに盛りあがりながら、岸辺に繰り返し押し寄せている。
足を大きく伸ばし、ざぶりと湯を頭からかぶれば、微かに磯の香りと、口の中に塩味が残り、湯は微黄褐色で透き通っていた。
 
大浴場から、露天風呂へ続く通路を10メートルほど歩いて行くと、崖沿いに露天風呂が切ってあった。
すでに、5人ほどの先客がいた。
湯は、大浴場より少し温めだが、湯につかれば、何処かでなく蝉の声が聞える。

海からの吹き寄せる浜風も優しく吹きそよぎ、崖ぶちに伸びる青松はまだ強い陽光に耀く。
湯にゆったりと浸かっていれと、吹き寄せる風に、微かに磯の香りをきくことが出来る。
この天然温泉の泉質は
ナトリウム、カルシウム一塩化物泉。

筋肉痛、疲労回復、健康増進に効用あり。
今日一日の旅の疲れを洗い流し、リラックスとリフレッシュの後、夕食の海の幸を大いに愉しめる。
長い一日、長い旅路、無事に終わったことに感謝する。

翌日、朝の10時にチェックアウトを済まし、ホテルを後にした。
今日も快晴、きっとうだるような暑さになるのだろう。
海岸線を走る国道6号線をしばらく走り、1時間足らずで、勿来の関に到着した。
 
そこは勿来の関公園であり、緑深い公園の駐車場に駐車した。
そこから徒歩で数分歩けば、かつて平安時代初期の清和源氏の流れをひく武将・源義家公が、この地を通った時に、弓と鞍をそれぞれに掛け、置いたと伝わる2本の松があった。
だが、「弓掛けの松」は、無残ににも切り株だけが年輪も露わに晒されていた。
 
そのすぐ先に、詩歌の古道入り口があり、それを護るように、勇壮な騎馬姿の源義家像が建っていた。

門を入れば、木漏れ日の落ちる緩やかな上りの石畳が続く。
蝉しぐれの中、緑濃い木々が古道を覆い包み、なま温かな微風が吹き流れる。
 
勿来関の関の歴史をひもとけば、いわき南部の古名であった菊名に、1500年以上前に設置された。
当時、奥州で勢力を持つ蝦夷の南下を防ぐために、白河関・鼠ヶ関(念珠関)(鼠ヶ関は現在の山形県鶴岡市)と共に、奥羽三古関の一つとして重要な拠点であった。
勿来とは「来ル勿(ナカ)レ」、であり「来るな」という意味である。
つまり、南下を窺う蝦夷に、これ以上は絶対に南下は阻止する故に、来るな!という意思を示した関所であったのだ。
詩歌の古道 
詩歌の古道を上り行けば、途中、句吟の仲間だろうか、高齢の女性の4人ずれが前方に姿を見せた。
1.5キロ程の古道の石畳の右左に、山口茂吉・源義家・小野小町・紫式部・長塚節の歌碑や永野修身・松尾芭蕉・角川源義の句碑が建っていた。
 
吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな
 源家義(1039〜1106) 千載和歌集
 
平安時代末期、奥州の騒乱の後三年の役(1083〜86年)を平定するために、陸奥守源義家が、勿来の関にさしかかった。
その時、勿来は山桜が満開であった。
そして、山から吹き下ろす風にまかれて、桜花が吹雪となって、道に舞い散っていた。
その時の詠まれた歌が、千載和歌集に載り有名になった。
 
やがて、詩歌の古道も最終地点にさしかかるころ、そこに、四阿(あずまや) が建ち休息をとった。
古道の反対側には、陽光は広がり、長閑に景色は彼方に霞んでいる。
緑陰に休み、遠くから吹きわたる風も匂い、肌の汗もさらりと消えていく。
義家神社 
そして、古道の終着点には小さな広場があり、そこには寂しげに義家神社が遠慮がちにひっそりと建っていた。
そこから、すこし急な道を下りながら進めば、先ほどの駐車場に着いた。
時間にして、40分程の心地よい散策であった。
しかし、この勿来の関は、いまだ何処に存在していたのか、学問的にも証明されていないと言う。

駐車場を後に、一路、海岸沿いの国道6号線を南下して、帰路に就くことに。
勿来の関公園をぐるりと抜けると、大きな駐車場があり、そこに見るも新しい日本建築が見えた。
まだ時間は正午前、見学することにした。
 
駐車場にはほとんど車もなく、車を置いて中へ。
入館料もなく、門を潜ると、広い日本庭園があり、正面に古式豊かな寝殿造の建物が、陽光に燦然と輝いていた。
その名も吹風殿(すいふうでん)。
「 吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな」の歌から名づけられている。
 
吹風殿へ続く回廊を進むと、そこに建物へ上がれる戸口があった。
靴を脱ぎ、ぴかぴかに磨き上げられた板敷の間に上がれば、建築材の木々の匂いも心地よい。
壁となる障子が外光に照らされ、柔らかな光を放ち、磨き上げられた、柱や床板を美しく、光の化粧していた。

吹風殿の中にて 
開け放たれた窓から外を望めば、平安時代が漂う日本庭園の白砂と草木の緑が、平安時代の情趣を演出している。
時には、この建物で能などの古典芸能が上演され、雅楽やクラシックの演奏会、歌会などが開かれるようだ。
平安時代の歌人の邸宅を模した建物での催しは、さぞかし、風雅で幽玄に溢れることだろう。