静岡県寸又温泉峡を訪ねて
2010年7月25日
 
梅雨が明ければ、焼け付くほどの猛暑。
東京でも、連日、36度、7度と、信じられないほどの、蒸し暑さだ。
日本の夏は、温帯ではなく、すでに熱帯気候であると、言えるだろう。
こんな酷暑、サラリーマンの人の背広姿は、痛々しく、同情するに値する。

我々は、東京を離れ、静岡県の北、奥大井川へ向かった。
天気はもちろん快晴。
朝の7時、すでに日差しは強く、東名を一路、快速に下る。
富士川を越し、安倍川を通過し、大井川を渡る。
そして、相良牧ノ原ICで降り、金谷から、島田へ向かう。
 
金谷は、東海道の旧道に面する、かつての宿場町。
緩やかに蛇行する、街道沿いの街並みに、風情が漂う。
さらに、街道を進むにつれ、街並みは切れ、険しい山道になる。
なだらかな山は、切り開かれ、段丘一面に、茶畑が広がる。
道の駅にて  
そして、進めども進めども、茶畑が続いていた。
さすがに茶どころ、山一面は茶畑、茶葉の深い緑が、陽光に照り輝いていた。
やがて、島田を抜け、さらに進むと、大井鉄道の線路が、街道に沿って走っていた。
 
時間によっては、SLがもくもくと煙を吐き、疾走する姿を、見ることが出来るのだが。
今日は、SLどころか、電車の走る姿に、遭うこともなかった。
やがて、大井鉄道の終点、千頭駅に到着した。
SLでも停まっていないかと、構内を見渡せど、普通の電車が、停車しているだけだった。

千頭駅からは、乗合バスが、寸又温泉峡まで走っている。
渓谷と深い杉木立の森の中を、蛇行しながら進むと、大井川との別れと出会いの、連続だった。
大井川を渡ったかと思えば、また離れて消え、神出鬼没に出現する。
狭隘な道中、車中から撮影 
道はますます高度を増し、緩やかな上り道になる。
やがて、道の駅があった。
かなりの道のりの運転、朝の10時半過ぎ、ここで休憩をとった。
砦のような、大きな木製の門潜ると、正面に緑の絨毯のような、芝生が広がっていた。
その奥に、展示館と販売店があった。
寸又峡へ向かう峠道からの眺め
そこには、この地の名産品などが、販売されていた。
すると、お店の女性が、冷茶を勧めてくれた。
そのお茶を飲むと、身体の汗が、すーっとひいていくようだった。
その味は、ふくらみがあり、微かに香り、柔らかな甘味が、口内に広がった。
この地、川根地域のお茶は、古くから、日本三大銘茶の一つと言われている。

さらに奥に行くと、そこは大井川。
川の迸る濁流まで、階段が降りていた。
1段1段、注意して最下段まで下りると、その川水の豊かさ、激しい流れは、怖いほどだった。
立て札を見ると、増水には注意と、大書されていた。
雨が降れば、川は一気に膨れ上がり、凶暴な暴れ川に変わるのだろう。
道の駅には、私たち以外、僅かに数組が、休んでいた。

そしてまた、寸又峡への旅を開始した。
蛇行しながら、山間の地を進むと、眼下に大井川が広がる。
だが、長閑な風景も、ここまでだった。
やがて、道は極端に狭くなり、左は山肌を晒す、垂直な緑濃い崖。
右手は切り立った断崖の、狭隘な道。
行けども行けども、すれ違う車もなく、エンジン音を響かせながら進む。

道は車一台通れば塞がる狭さだ。
それでも、きっと、この道を観光バスも走るのだろう。
その時を想像するだけで、恐ろしい限りだ。
しかし、山道を走ることに、怖じけるくこともなく、ママは軽快に走る。
道は益々狭くなり、急峻な様相を示してきた。

民家はすでに途絶え、深く暗い木立の中、木漏れ日を、拾いながら進む。
そして、漸くのこと、午前11半頃、目的地の寸又温泉峡に到着した。
そこには、南アルプス山岳図書館と、観光案内所があった。
広い駐車場の入り口に、寸又峡と書かれた塔が立ち、その横で、勢いよく水車が回っていた。

広い共同駐車場に車はなく、ひっそりと真昼まじかの陽光が、降り注いでいた。
さらに少し行くと、我々がお世話になる宿が、温泉街の入り口にあった。
その前を通り過ぎ、温泉街を抜けると、千頭駅と寸又温泉を結ぶ、バス発着場があった。
そこの無料の駐車場に車を置き、土産物屋や食堂を横目に眺めながら行くと、
「夢の吊り橋」へ続く散策道、寸又峡プロムナードの入り口があった。

入り口を入ると、年配の女性が迎えてくれた。
環境整備のために、寄付をお願いしますと、さりげなく声を掛けられた。
募金箱には、10円や100円の小銭が光っていた。
私たちも100円ずつ寄付をしたら、ありがとうございますと言われた。

緑の深い散策道を進むと、道々、百合の花が咲き、遠くで夏蝉が、ジーッと静寂を破るように鳴いていた。
空は青く高く、夏雲が厚い大きな真綿のように広がり、ゆっくりと流れていた。
木々の陰影は深く、日だまりの中を、歩くのも愉しい。
日射しは強いのだが、深閑とした森の空気は、爽やかで美味しい。

進むに従い、すでに帰路につく、中高年の人達と、すれ違うようになった。
きっと、旅館をチェックアウトした、人達なのだろう。
すれ違いざまに、どちらからともなく、「こんにちは」と挨拶を交わすのも愉しい。
私たちが若い頃、ハイキングや山登りは、ちょっとしたブームだった。

夏の土曜日深夜、新宿駅の地下道は、中央線の夜行で、北アルプスへ向かう人たちで溢れていた。
大きなリュックを担ぎ、山登りの装備をした人達の、長蛇の列が続いていた。
そして、登山道ですれ違えば、どちらからともなく、笑顔で挨拶を交わした。
その時、様々な情報を交換したりした。
 
そんな時代を、中高年の人たちは、経験している。
挨拶を交わす瞬間、そんな人情の溢れる良き時代を、ふっと思い出して嬉しくなる。
昔は日本の津々浦々、豊かに挨拶が溢れていた。

まさに、日本は笑顔と挨拶の、人情列島だったのである。
やがて、天子トンネルが、我々を迎えてくれた。
トンネルの中は薄暗く、ひんやりとしていた。
天井からぽたぽたと、水が垂れ落ちている。
その水はとても冷たかった。

長さにすれば、210メートルほどの隧道だ。
入ると前方は陽光を受け、輝く緑の木立が見える。
トンネルを抜けて少し行くと、夢の吊橋へ向かう、急峻な鉄の階段があった。
階段を下ると、前方に大間ダムと湖が見える。
かつて、この湖の下に、1889年(明治22年)開湯の、温泉郷があったという。

だがダムの建設により、民宿や湯治宿などが、湯山地区の源泉と共に、湖底に消えた。
しかし、かつての寸又温泉峡の復活を願い、1962年(昭和37年)、3度目のボーリングにより、源泉が掘り当てられた。
硫化水素系の単純硫黄泉、温度は43.7度、毎分540リットルの自然湧出の湯を、
現在地まで3790mを引湯し、寸又温泉峡は蘇った。
その源泉を掘り当てた功労者の宿が、今日の我々の旅館だった。
 
階段を下りきると、散策道が続く。
昼近くの陽光が、木々の葉脈を透かし、樹林に陰翳を刻む。
緑に輝く梢の向こうに、エメラルドグリーンの、湖水が広がる。
陽光に照らされ、湖面は煌びやかな、宝石のように耀いていた。
 
さらに木立の中を行くと、遠くにエメラルドグリーンの湖面の上に、まっすぐに伸びる、夢の吊橋が見えた。
狭い湖面沿いの散策道を進むと、夢の吊橋に到着した。
吊橋は狭く、湖面を左右対称に、切り分けるように伸びていた。
太いワイヤーの手擦りと、ワイヤーに支えられた、木の橋を歩く。

 
すると、ギシッ!ギッ! とワイヤーが締り、犬間川に掛る吊橋は、微かにたわみ揺れる。
眼下、8メートル下、陽光に煌めく湖面が、静寂を称えていた。
長さ90メートルの吊橋へ、微かに風が吹きわたる。
湖面の彼方を見渡すと、湖は鏡面となって、木々の緑を映し出していた。
渡り終わり、振り返りると、若いカップルが、吊橋を渡り始めていた。
 
紅葉の季節になれば、原生自然林保存地域に、指定されたこの地は、観光客で溢れるだろう。
吊橋の1度に渡れる人数も、10人に規制され、一方通行になるようだ。
夢の吊橋の「夢」は、夢のように幻想的であることを意味し、
また、渡る怖さが、夢の中に出てくるかも、という連想からきているそうだ。

吊橋を渡り切ると、想像を絶する、急峻な鉄の階段が続いていた。
吊橋が難所だと思いきや、ここからが本番。
カメラの三脚を担ぎながら、真夏の行軍だった。
階段を登れども、登れども続き、鬱蒼とした原生林は、真昼だと言うのに薄暗い。

時折、木の間から、エメラルドグリーンに光る、湖面が顔を出す。
さすが、この登りは堪える。
酒を飲まずにいて良かったと、胸を撫で下ろす。
かなりのところまで、登りつめたようだ。
 
眼下遠くに、先ほどの湖面が、小さく遠望できる。
やがて、階段を登り切ると、平坦な散策道に到達した。
先ほどまでの苦行が、嘘のようで、渡りくる風に、愛おしさを感じる。
だが、不思議なことに、階段を登っている時も今も、蝉の声がまったく聞えない。

やがて、遠くに陽光を浴びた、飛竜橋が遠望できた。
散策道に緑が溢れ、木陰になれば、爽やかな冷気が流れ、心を癒してくれた。
そして、程なくして、長さ100メートル、アーチを描く鉄橋、飛竜橋に到着した。
遠くに夢の吊橋が照り映え、遥か眼下に、緑に覆われた渓谷が、エメラルドグリーンと、共鳴していた。

飛竜橋を渡り、左手に渓谷を眺め、夏の木々の緑を愉しみながら、とろとろと進み下る。
だんだんと川幅も大きくなり、川の表情が色々と変わる。
すると、不思議なことに、川面の色が、乳白色とエメラルドグリーに分かれ、美しい流紋を描いていた。
自然は様々な意匠を凝らして、見る者を愉しませてくれる。

やがて、先ほど通った、天子トンネルに到達した。
ここから入り口まで、後わずかだ。
40分の行程だと言われたが、それどころではない難行だった。
だが、振り返ってみれば、それもまた、印象深い思い出になった。
 
トンネルはひんやりと、冷気を増し、肌から汗がすーっと消えた。
トンネルを抜けると、右手を覆う崖に、山百合が咲いていた。
やがて、入り口の募金案内所に到着した。
そして、私たちは、「おせわさま」と言って外に出た。

時間は午後1時過ぎ、中天の太陽は、さらに強く輝きを増していた。
寸又峡プロムナード、夢の吊橋、原生自然林保存地域の散策と、飛竜橋を巡る約2時間の散策。
1時間の予定は、予想外にオーバーし、かなりの運動量だった。
土産物屋さんや食堂は、お昼時でかなりの賑わいを見せていた。

我々も少し足を伸ばし、寸又峡で評判の、紅竹食堂まで出かけた。
温泉街の簡素な、建物が立ち並ぶ中を行くと、店の大きな暖簾が見えた。
潜って中へ入ると、昼食時の混雑後だったのだろう、席は空いていた。
ママはこの店の名物「渓流そば」を注文した。
飛竜橋からの眺め
私は生ビールを飲む。
やがて、大きな丼に盛られた、注文のそばが登場した。
信州産地粉の手打ちそばに、大きなヤマメの空揚げが、1本がどんとのっている。
それに、朱色鮮やかな、大きな川エビ、イナゴの佃煮、山菜の天ぷら。

ママは渓流そばを頼んで、失敗したと後悔していた。
秩父出身のママには、具の品々は、子供のころの馴染であり、好きな料理でなかった。
その分、私にとって、山の幸、川の幸は私の好物。
そば以外はすべて、皿に移して、美味しくいただいた。

ヤマメは大きく、丸々と太っていた。
頭から齧れば、頭の骨さえほろりと、微かな音を建てて崩れた。
その瞬間、ヤマメの香りが、口の中にふわりと広がる。
さらに、太った胴の身を齧れば、渓流の藻の新鮮な苦みが、心地よいアクセント与えてくれる。
水面が2色に分かれていた
朱色も眩しい川エビは、かりッ! かりッ! と軽快な音を立て、柔らかな甘味と共に、口の中に消えていった。
イナゴの佃煮は、果たして、何年ぶりの味わいだろう。
1匹1匹、箸で摘み、口の中で噛めば、佃煮の甘さと、イナゴの苦みが広がる。
真夏の寸又峡散策の後、生ビールの味は、最高であった。
寸又峡プロムナードにて
食事を済まし、ここから程ないところにある、旅館に到着したのは、午後の2時半であった。
ロビーで記帳し、我々の部屋で一休み後、早速、温泉に向かった。
身体を洗い、大浴場でゆったりと湯を愉しむ。
まだ時間が早いせいか、私たち以外に、入湯客はいなかった。

微かに硫黄の臭いが、鼻先に漂う。
湯味はつるつるぬるぬると、不思議な心地よさを与えてくれる。
透明な湯は、きらきらとガラス色に輝いている。
そして、ドアを開け、隣の露天風呂へ。

岩石で囲まれた湯船は、昼下がりの陽光を浴び、眩いほどだ。
湯につかると、爽やかな風が吹きわたり、遠くでは蝉の声が聞える。
やがて、鶯の声が、とぼけた響きを残しながら聞えてくる。
そして、湯面すれすれにトンボが飛んで来て、旋回しながら、何処やらへ消えていった。
温泉街の土産屋兼食堂の
つるつるすべすべの湯は、日々の生活の中の滓を、湯の中に溶けさせる。
アルカリ質の湯は、顔や肌を、優しく包み込む。
そして私の身体に、健康な力が、蘇っているかのようだった。
自然の力、温泉の豊かな恵みを糧に、また、東京で愉しく仕事をすることにしよう。
ホテルの玄関にて