小諸懐古園を訪ねて
2010年6月20日
三の門 
関東甲信越も梅雨入り、果たして、信州の旅は如何なるかなと自信なし。
だが、予想を反して、梅雨の切れま、快晴に恵まれた。
小諸懐古園には、早朝の9時過ぎに到着した。
有料の駐車場には、まだ駐車する車はまばらだった。
 
車を置いて、早速、懐古園に向かった。
そして、すぐに、荘重な趣のある三の門が、どっしりとした構えて、我々を迎えてくれた。
寄棟造りの二層の城門は、元和元年(1615年)に創建されたが、寛保2年2年の大洪水で消失。
明和2年(1765年)に再建されたものだ。
 
左右の塀には、矢狭間、鉄砲狭間が構える、戦闘的な城門。
上階には、旧徳川将軍家第16代当主、徳川家達(とくがわ いえさと1863―1940)の揮毫した大扁額が飾られていた。
三の門を後に、懐古館を左手に見れば、正面に、懐古園へ入園出来る、三の門料金所があった。
料金所で、料金500円を払い入園する。
 
右手には、大きな苔むした大石が組み積まれた、二の丸跡の石垣がが屹立している。
朝の陽光が明るさを増し、木々の陰翳を深め始めた。
さらに進めみ、柔かい勾配の太鼓姿の黒門橋を渡れば、樹齢500年の大欅が、大地に逞しく太く大きな、根を張りめぐらしていた。
そして青く高く澄み渡る空に向かって、凛々しく聳え立っていた。
 大欅の前で
やがて、藤村記念会を見やりながら進むと、何処からか、草笛の音が流れ来る。
すると、仮設のテントが張られ、人々が集まっていた。
テントには、「祖道さんを偲ぶ草笛の集い」と書いてあった。
さらに、草笛の音に誘われながら進めば、そこは見晴らしの良い水の手展望台。
樹齢500年の大欅
熟年親父3人組みが、渡りくる爽やかな風を愉しみながら、草笛を吹いていた。
遥か眼下には、千曲川が初夏の青葉に抱かれるように、緩やかに流れていた。
訊けば、今日は草笛をこよなく愛し、たくさんの曲も作曲した、京都の高僧でもあった祖道さんの命日。
その為に、全国から、偲ぶ会に集まって来たという。
 水の手展望台
気さくな3人に別れを告げて、展望台から、酔月橋を渡る。
見下ろせば、一名地獄谷、堀はあるのだが空堀で、水の姿はない。
剥きだしの火山岩の断崖となり、自然の要害になっているのが分かる。
小諸城は城下町よりも低い、全国でも珍しい穴城。
展望台から見た千曲川 流浪の禅僧・横山祖道老師、は、「懐古園」で、訪れた人々に、草笛を22年間吹き続けたと言う
浅間山の火山灰は崩れやすく、脆い断崖が、完全な要塞となっているのだ。
水月橋を渡れば、酔月料金所があった。
入場券を見せれば、いったん外に出ても、また再入園出来るとのこと。
外に出れば、左手に鹿島神社が、ひっそりと建っていた。
 四阿で草笛を吹く、粗道さんを偲ぶ会の人々
参道を進み、飾りけもなく静謐な佇まい。
鈴を鳴らし手を合わせる。
そして、境内の端から遠く眺めやれば、小諸の市街地が見えた。
参道を戻れば、寅さん会館があった。
 
小諸と寅さん、映画にまつわる資料館のようだ。
さらに進めば、緑濃い林の中に、瀟洒な白い洋館の小山敬三記念館があった。
玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、磨き上げられた板敷のフロアーを歩く。
記念館の中には、私たち以外は誰もいなかった。
鹿島神社
この建物は、かつて、フランスから帰国した小山画伯(1897−1987)が、1929年、茅ヶ崎の海岸近くに建てたアトリエと、住まいの一部を、画伯の没後に移築したものだ。
建物の内部は、アールデコ風だが、清楚で飾りかけもなく、フランスと日本の情趣が混ざり合って落ち着いている。
そして、画伯がそこで、絵を描いていても、不思議でないほどに、生前のままに配置されている。
若き日に修業したフランスから、取り寄せた暖炉や家具・調度品が並べられ、遺愛の画材、絵筆やパレット等が展示されていた。
 小山敬三記念館
やがて、記念館の管理する女性が現れた。
ぜひとも、隣の小山敬三美術館も訪ねてくださいと言われた。
そこで、記念館を後に、美術館を訪れることにした。
未完成の浅間山と竜頭の滝下図 
受付で拝観料金200円を払い入館する。
中には、他にも数人の来館者がいた。
白い壁に、中学時代に描いた作品「盛夏樹林」から始まり、南仏を思わせる風景画や、「浅間山新雪」。
さらに、古城をモチーフにした「雨季の白鷺城」、ブルガリのブラウスを着た、楚々として美しい娘さんの肖像画などが展示してあった。
 
初期のフランスで描かれた作品には、印象派を思わせるの光と色彩が鮮明に輝く。
しかし、日本に帰国してからの晩年の作品には、何処か抽象化された、日本の画への回帰がうかがえる。
芸術の本場、ヨーロッパで学び修業したものは、やはり、最後には自分の存在のあり方や根源を、表現することを希求することになるのであろうか。
岸田劉生、関根正三、長谷川利行など、日本を一度たりも出たことはない。
 
しかし、印象派やポスト印象派などの作品を、写真ではなく、実物を見たかったの勿論のことであろう。
だが、外国に行けなかったことにより、かえって、借り物でない、日本人の洋画を描き切ったことも事実でる。
画伯は1975年(昭和50年)文化勲章を受章。
この美術館は、小山敬三画伯の故郷・小諸市へ、小山敬三自身によって寄贈されたものである。
懐古園の桜樹 
建て物は、文化勲章受賞者の村野藤吾氏設計による、飾り気のない清楚な佇まいである。
新緑の森と調和して、壁一面に広くとられた窓からは、長閑な風景が望まれた。
美術館を出れば、時間は10時半、木々の新緑の木の葉の葉脈を、陽光が透かし眩い。
 
さらに、渡りくる風が、初夏の柔らかな草木の息吹を運んでくる。
そして、美術館を後にして、元来た道を辿り、酔月料金所に戻って来た。
料金所で、先ほどのチケットを見せて再入園する。

酔月橋を渡り進むと、草笛の音が園内に響き流れ、先ほどの「祖道さんを偲ぶ会」には、大勢の人たちが集まっていた。
そして、人々を前にして、袈裟姿の僧侶が、祖道さんと懐古園などの縁起を語っていた。
さらに園内を進めば、高浜虚子の句碑があり、緑あふれる散策路を歩くと富士見台があった。
遠くに、悠久の時を流れる千曲川が、陽光に煌めいていた。
 
そして、白鶴橋を渡ると、大正15年(1926年)に開園した歴史を持つ、小諸市動物園があった。
中には、様々な動物たちがいた。
ライオンの夫婦が陽光を浴びながら、のんびりと身体を寄せ合いながらうたた寝をていた。
隣の檻では、ペンギンたちが、燦々と降り注ぐ陽光の下、池の中を泳ぎ戯れていた。
動物園辺りで咲く花 
親子ずれが愉しそうに、群れ遊ぶペンギンたちを眺めていた。
まだ先にも、たくさんの動物がいるようだが、ここで私たちは引き返した。
そして、白鶴橋近くに戻り、左手を見やれば、遊園地が見えた。
橋を渡り、しばらく進むと、懐古神社があった。
 
そしてしばらく進むと、本丸跡に着いた。
ごつごつと積まれた、黒光りした急峻な石段を上り切ると、そこが本丸跡。
切り立った石垣の端に近づき、下を望み見ると、その石組みの高さと峻厳さに驚く。
 天守閣跡からの眺め
園内を散策する人たちの姿が、小人のように見える。
この城跡の石組みは、自然石の野面積よるもので、とても希少な存在らしい。
時間はすでに11時半近く、太陽は中天に上り、彼方から吹きわたる微風が気持ち良い。
天守閣にて
来た石段を下りて、ぶらりぶらり進めば黒門橋。
渡たり行けば、弓道場があり、稽古を終えた袴姿の女性たちが数人、部屋の中に座っていた。
さらに進むと、、明治女学校を創立し、羽仁もと子、野上弥生子など、先進的な女性を世に送り出した教育家、木村熊二レリーフの前に人だかりがしていた。
天守閣への石段
事情あって、明治女学校を離れた木村熊二は、この地に、小諸義塾を開校。
この時、28歳の島崎藤村を、英語と国語教師として招請し、中学教育の振興に努めた。
そして、藤村は教鞭をとりながら、第四詩集「落梅集」を刊行し、「千曲川のスケッチ」で、小諸や小諸義塾を生き生きと活写した。
 
木村熊二レリーフの前、団体の観光客に、老年のボランティアガイドが、愉しそうに説明をしていた。
説明を聞き流しながら進むと、そこはすでに三の門料金所、正面には、日に照らされて、陰影深く三の門が構えていた。
3時間あまりの足早の懐古園漫遊は終わった。
木村熊二のレリーフの前の人たち