信州上田「無言館」&「中禅寺」を訪ねて 2010年6月20日 「小諸懐古園」を後にして、千曲川ビューラインを進む予定だったのだが、何処かで道を間違ってしまった。 だが、方向性は確かな筈なので、初夏の信州路を愉しみながら進めば長瀬に出た。 依田川にかかる依田橋を渡り行けば原に到着。 長閑な風景の塩田平が広がり、さらに寂しい山道を進むと「無言館」の標識があった。 雑木林の中、ゆっくりと車を走らせると、正面に「無言館」が初夏の樹林に抱かれるように、ひっそりと建っていた。 コンクリート打ちっ放しの灰色の四角い建物が、訪れる者へ、無言のメッセージを送っている。 静かにドアを開けて中へ入ると、コンクリートの壁に囲まれた、薄明かりの広い空間に、たくさんの絵が展示されていた。 飾られている絵はどれも決っして保存状態は良くはない。 中には、絵が剥落したり滲みたりかなり傷んだものも多い。 展示された絵には、美学生や絵を愛する若者たちの名前と戦死した歳、無念の思いで斃れた戦地が書き込まれている。 ほとんどの若者の歳は、20歳から30歳ぐらいであり、戦死した年は、終戦の2年位前に集中している。 招集を免除されていた学生にも、召集令状が送られ、南方へ、あるいは、特攻機に送られ、悲惨な死を迎えた。 その戦地に出征する時、すでに、日本の敗色は決定していた。 学徒出陣の美名のもと、国の命令により、家族や恋人や友人たちへの惜別のメッセージが、絵や彫像の中に込められている。 我が妻、そして恋人の裸身を、かなりきわどい姿態で描かれた未完成の油絵もある。 二度と会えることもないと覚悟した若者が、愛する恋人や妻の裸身を、 渾身の力で描きながら、鮮明な記憶として、心に刻んだのであろう。 部屋の真ん中には、戦没学生が、本土の父、母、妻、兄弟、恋人に送った葉書や書簡が展示されていた。 刻々と迫る死の恐怖に怯えながら書いているはずなのだが、文面は家族や友達や恋人の安否さえ気遣っている。 なんて、気高くも凛々しく、端然としているのだろうか。 その若者たちの純真な気持ちを、国家は無益な戦争で、犠牲にしたと言えるのではないだろうか。 壁の絵を見ながら、溢れ出る涙を堪えながら、嗚咽している熟年女性がいた。 二十歳過ぎの若者達の生年月日を見れば、私の母や父の世代である。 私の父も暗号解読兵として、朝鮮で現地召集された。 母親が言うには、父親は暗号解読で、大きな勲章を貰ったそうである。 しかし、父は戦場の事はほとんど、私たちに語ることはなかった。 それほどに、戦争は悲惨で残酷な体験を強いたのであろう。 南方の激戦地で、ほとんどが玉砕し、生き残った僅かな兵士たちは、生き残ったことに負い目さえ感じて生きていたという。 その負い目を原動力に、日本の復活のために、死んだ者たちへの鎮魂を込めて頑張ったのだ。 敗戦で荒廃した日本の経済を、世界の歴史にページを刻むほどの見事な復活をなしえたのである。 そして、ここに展示されている、様々な作品群が、二度と起こしてはならない戦争の悲惨さを、無言で伝えている。 私のお店に来る、三輪明宏ファンの女性がいる。 チケットが手に入れば、なんとか、時間の都合をつけて、必ず演劇やライブに出かける。 ライブの時、三輪明宏さんはおっしゃるそうだ。 「みなさん、今は騙されてはいけません。自分の目で、しっかり見るのですよ。今の日本は、戦前の日本にそっくりです。 とても危険な状態になって来ていますから、気をつけてください」 私は戦後二年目に生まれた人間ですが、三輪さんと同様の危惧を、日増しに強く持つ。 様々なことが、国によって規制され始めている。 さらに、マスコミから流れる公正であるべき情報が、全て、一方的な報道に傾き流される。 時には、報道機関であるはずのテレビ局が、魔女裁判さながらに、面白おかしく、人々を断罪さえしている。 公器である筈の報道機関が、まるで国家に規制されているような危険を感じるのは、私だけであろうか。 個人の生命を大切に出来ない体制は、国とは言えないだろう。 その命を、国家のためという美名のもとに、戦場へ送るのは、まさに国家の犯罪行為と言える。 若者たちが国家の犠牲となり、その残された作品群が、我々に、戦争の残虐さを糾弾し、 そして、平和の大切さを、無言の声で伝えている。 「無言館」を出れば強い陽光がさし、木々の陰翳は深さを増していた。 そして、車で少し下ったところに、戦没画学生の絵画が展示されている「傷ついた画布のドーム」があった。 やはり、「無言館」と同じように、静寂な室内に、たくさんの戦没学生たちの遺作が展示されていた。 薄暗い室内に飾られた作品群が、我々に、人間の一回限りの生の尊厳さを教えてくれていた。 そして、次の目的地「中禅寺」へ向かった。 しばらくして、2年前に訪ねた前山寺の前を通過して、さらに山深く、上り勾配の道を進む。 やがて、お寺の標識が次々に現れた。 お寺は基本的に、僧侶たちの厳しい修業の場所。 それ故に、山深き所に、存在し山号をもっている。 かなり、上り切ったところに、中部・関東地方で最古の木造建築の中禅寺薬師堂がある、真言宗智山派中禅寺はあった。 山門近くの駐車場に車を置き、山門へ。 すでに時間は2時頃、陽光は強く、山門の陰影が深く、境内の白砂が光っていた。 山門を、鈍い朱色の阿吽の高さ約約207センチの金剛力士像が、目を見開きながら守っていた。 この力士像は、平安時代後期、清盛の発願によりより製作されたと伝えられ、 全国でも五番目に古く、現存する数少ない貴重な仁王像らしい。 山門を潜り、まっすぐ進むと、国指定重要文化財薬師堂が、藤原時代の「方三間(ほうさんげん)阿弥陀堂形式の姿で、凛として建っていた。 方三間とは、,東西南北、何処から見ても、柱は四本あり、柱と柱の間を表す間が、三つある。 茅葺屋根の上には、四角な台(路盤)をのせ、その上に、丸い玉(宝珠)をいただき、 真上から見れば、真四角な屋根に見える寄棟造りの宝形造(ほうぎょうづくり)。 石段を上り、拝礼をし、鰐口を叩いて手を合わせる。 お堂の中を見れば、格子戸の向こうの堂内は薄暗く、正面には、四天柱に囲まれて須弥壇〔しゅみだん〕が置かれ、その上に台座。 台座には、寄木造りのの鎌倉時代初期に制作されたと伝えられる薬師如来像が、 右手の掌を前に、左手は薬の壺に乗せてこちらをにこやかに見ている。 目元はうっすら半びらき、優しく語りかけそうな口元、柔和にして典雅な表情で鎮座していた。 岩手県平泉町にある国宝中尊寺金色堂などと同じ、平安末期の典型的な様式を伝える定朝様の代表的なお堂だ。 薬師堂が建てられたのは、平安時代末から鎌倉時代初期、長野県で最古であるとともに、中部日本最古の建造物と思われる。 参拝を済まし、境内の横道を辿り振り返れば、庭内の陽光に輝く木々の緑と、静謐な佇まいの薬師堂が美しいコントラストを映していた。 回り道をしながら山門へ来れば、薬師堂で参拝をする人たちがいた。 そして、山門を後に、駐車場近くの茶店で休んでいると、お店の女性が、緑茶と漬物をサービスしてくれた。 少し汗ばんだ身体に、熱い日本茶は美味しかった。 さりげない人のもてなしと優しさは心に沁みる。 信州の小高い山々に抱かれた鄙びた山寺の境内に新緑は萌え、微かに吹き流れる風が爽やかだった。
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