茨城県ひたち那珂市「国営ひたち海浜公園」を訪ねて 2010年5月9日 茨城県ひたちなか市にある国営公園。 総面積は350haで、東京ディズニーランドの約5倍にあたる。 第2次世界大戦中は、旧日本軍の水戸飛行場。 戦後、米軍水戸射爆撃場として利用される。 その後、国の「首都圏整備計画」の一環として設立された。 1979年、事業は着手、1984年に着工され、1991年に、約70ha部分が開業した。 2010年現在、約44%の153.2haが開園されている。 公園のテーマは、「海と空と緑が友達 爽やか健康体験」である。 この二三日、少し肌寒い日が続いたが、今日、ゴールデンウィーク明けの最初の日曜、 空は高く晴れ上がり、日差しも初夏を思わせる強さ。 外に出れば、爽やかな風に、薄緑に萌える木の葉はそよいでいた。 午後の12時半、我々は藤色に咲くネモフィラの花を求めて、茨城県「国営ひたち海浜公園」に向かった。 何時もこの公園は、通り過ぎるだけで、まだ一度も訪れたことはない。 茨城の大洗まではよく出かけ、磯前神社へは何度もお参りをした。 4年位前の冬の季節だったろうか、大洗の海を見渡せるホテルに泊まり、鮟鱇鍋を愉しんだこともある。 また、水戸の偕楽園や袋田の滝、北茨城の五浦海岸へ、岡倉天心の記念館を訪ねたこともあった。 だが、その時、記念館は休館。 岡倉天心が、遥か彼方、洋々と広がる太平洋を眺めながら瞑想した六角堂を、彼方に遠望するだけだった。 茨城県へ北上する常磐道は、渋滞することもなく、何時も快適に、走ることのできる高速道路だ。 今日も渋滞のない、予想通りの快適なドライブ。 初夏の匂いも漂う風を切って、軽快に車を走らせれば、やがて、かつての坂東の暴れ川、利根川を渡る。 さらに、利根川以上に、氾濫したという小貝川を通過すれば、、左手に筑波山が、晴れ日に霞みながら、なだらかな稜線を描く。 何年前だろうか、紅葉狩りで、筑波山に登った時は、雨風の強い1日だった。 山頂に到着した時、360度のパノラマの絶景が広がるはずが、2メートル先も覚束ない濃霧。 全くの視界0、厚い濃霧に包まれた幻想的な世界に遭遇した。 その時、山頂の社務所から、横笛の音が漂い流れ、幽玄な雰囲気を醸し出してくれた。 やがて、筑波山も姿を消し、車は北上する。 水戸の手前、友部JCから、北関東自動車道へ入り大洗へ。 そして、大洗の表示を横目に、さらに進めば、ひたちなかICへ着いた。 そして、程なく進めば目的地に到着した。 大きな公園なのだろう、広い駐車場が4つもあった。 我々は、奥の南駐車場へ向かった。 東京を発って、1時間半は経っていないだろう。 時間は2時前だった。 駐車場へ向かう車が、長い列をつくっていた。 料金の510円を払い、係員の誘導に従って、車を駐車した。 広い駐車場は、たくさんの車で溢れていた。 外に出れば、爽やかに、初夏を匂わせる薫風が渡る。 晴れ過ぎず、曇りでもない、程良い天気だった。 こんな日にはいい写真が撮れるのが嬉しい。 カメラと三脚と望遠レンズを、私とママでそれぞれに持ち、公園ゲートへ出かけた。 そして、入場券を買い求める。 入場券には、大人の他に、シルバーがあった。 ひょっとしたら、私はシルバーチケットかなとほくそ笑んだが、65歳からだった。 私にはあと3年、不足していた。 大人のチケット代400円を払い、玄関ゲートから入場した。 園内には、老若男女が、三々五々、のんびりと柔らかな陽光を愉しんでいた。 公園には、遊技施設もたくさんある、「プレジャーガーデン」という遊園地もあった。 だが、遊園地を遊ぶ人々は少ないのだろうか、大きな遊技施設は止まったままの物もある。 大きな観覧車が、広がる青空を背景に、ゆっくりと回っていた。 やがて、貸自転車の看板。 ママは貸自転車に乗りたかったようだが、なんと2時間待ちだった。 さすがに、これでは断念至極、余り気が進まなかった私にはラッキーだった。 さらに、爽やかな吹きわたる風に誘われながら進めば、遥かに広がる緑の絨毯。 草原広場が何処までも広がり、ボールを蹴る若者達、木陰で休むカップル。 そして、ピクニックバッグを広げている家族連れなどが、緩やかに流れる時を愉しんでいた。 やがて、草原を右に見ながら進むと、モトクロスバイクの競技広場があった。 子供たちが、ゴーの合図と共に、アップダウンの強い、赤土の道を疾走していた。 さらに、昼下がりの柔らかな陽光を浴びながら、散策道を進めば、雑木の林が深く広がった。 その中を、貸自転車で、それぞれにサイクリングを楽しむ人たちが、音もなく流れて行く。 ぶらぶらと進むと、周囲に緑が広がり、広い通路には、柔らかな朱色のツツジが満開であった。 さらに進めば、うっすらと太鼓橋の趣もある橋がかかっていた。 渡り切れば、右手に藤棚があり、藤紫の妖艶な花が、藤棚から、風に揺れながら、咲き枝垂れていた。 その下のベンチにに、2組の熟年の夫婦が休んでいた。 やがて、陰翳も深い木立の森を歩いて行くと、遥か前方に、薄紫が燃え上がり、空と混じり合っていた。 まっすぐな散策道を進むと、さらにさらにネモフィラの花が、陽光を浴びた海のように広がっていた。 斜面に造られた道には、見物の人たちが連なり、頂上まで切れることもなく続いていた。 そして、その花園の麓に辿り着けば、黄色い花を咲かせた菜の花が満開であった。 ネモフィラの薄紫、黄色い菜の花、その花を支える茎と葉の緑のコントラストを、陽光が鮮やかに演出する。 その菜の花の中に入り、ネモフィラの花園を背景に、多くの人が写真を撮っていた。 なだらかに傾斜する坂の散策道をゆっくりと上れば, 遠くに、中央ゲート前に聳えていた大観覧車が、青空を背景に小さく見える。 空からは燦々と陽光が降り注ぎ、初夏近い薫風が渡り、薄紫の花園の綿雲の中にいるよな不思議な気分。 眼下を見渡せば、たくさんの人たちが、頂上を目指して上って来る。 やがて、「みはらしの丘」の頂上に到達した。 そこには「みはらしの鐘」が置かれ、その鐘を鳴らす順番を待つ人達の列が出来ていた。 次々と、鐘が打ち鳴らされ、清涼な空気の中、乾いて澄んだ音が響き渡る。 ネモフィラの花園の反対方向を見渡せば、洋々たる太平洋が広がっていた。 そして、空高く、雲雀が一羽、吹く風に逆らいながら、空の一点に止まりながら、美しい声で鳴いていた。 昔ならば、この季節になれば、雲雀の声は、何処にでも聞くことが出来た。 かつて、雲雀と燕は、日本の初夏を告げる鳥であった。 雲雀の声を聞くのは、本当に久しぶりで懐かしい。 山頂で一休みして、薫風を充分に味わい、そして、来た道とは違う散策道を下った。 遠く見渡せば、古民家の近くに、吹き流しや鯉のぼりが、風に吹かれながら泳いでいた。 蛇行しながらの散策道を下り切れば、そこは古民家が移築された「里の家」。 さきほど遠くから見た鯉のぼりが、悠然と泳いでいた。 そこにはソフトリームの売店があり、長い列が出来ていた。 ママもその列に加わり、ソフトクリームを購入した。 ソフトクリームは薄紫のネモフィラの香りがする。 うっすらと汗ばんだ体も、吹きわたる清涼な風で爽やかに消えた。 ネモフィラの薄紫の花園に別れを告げ、当てもなく、ぶらりぶらりと歩けば、雑木林が広がる。 木漏れ日の中を進めば、まだ強い陽光に照らされて、葉脈も浮き上がる若葉が薄緑に輝く。 初夏の若葉は、生命の躍動を感じさせてくれる。 生物には生命のリズムがある。 春夏秋冬、初夏を象徴する色は萌黄色、薄緑であろう。 その色は、人生の青年期を表し、味は淡く酸っぱい。 さらに歩いて行くと、「たまごの森」に出た。 子供たちが、たまご型の遊具にあいた大きな穴を、出たり入ったりして遊んでいた。 すでに時間は4時を過ぎていた。 森の木々の影も長く、吹きわたる風も冷たさを感じ始めた。 閉園時間は5時、「たまごの森」を後にして、中央ゲートへ向かう。 しばらく歩き、「まつかぜ橋」を渡ると、正面に池が広がっていた。 陰り始めた陽光が、水面を煌めかしていた。 そして、池の噴水が、音もなく静かに、水を噴き上げていた。 さらに歩くと、スイセンの道へ出た。 すでに、スイセンの花は枯れ落ち、僅かに、名残を残している花もあった。 花の命は短い。 1年かけて、花の季節と共に、一斉に開花する。 その花の開花を、今か今かと待ち望む間も愉しいものだ。 そして、開花した短い瞬間を、いとおしみながら嘆賞する。 やがて、公園の案内板の前に着いた時、左手彼方から、お伽の国の電車のような「シーサイドトレイン」がやって来た。 そして、我々のすぐ近くの駅に止まった。 電車にはたくさんの乗客が、にこやかな笑顔で乗っていた。 大人も子供も、メルヘンの国の乗り物を愉しんでいた。 すでに時間は4時半を回っていた。 園内放送が、閉園のお知らせを流していた。 我々も中央ゲートを目指して、少しだけ足早に歩いた。 やがて、中央ゲート近くの遊園地に到着した。 すでに、遊園地を楽しむ人たちも少なく、遊技施設も止まっている物も多かった。 だが、大観覧車は、青空の中、ゆっくりと回転していた。 中央ゲート前の花壇には、黒いチューリップが、高貴にして妖艶な花を開いていた。 その隣の花壇にも、色とりどりに、まだ強い陽光を浴びながら、ポピーやツツジが華やかに咲いていた。 ゲートへ向かえば、公園の係員が、「お気をつけてお帰りください」と、お客様にお別れの挨拶をしていた。 そして、ゲートを出て、駐車場へ戻った。 すでに、5時、我々は、那珂湊お魚市場名物の回転ずしで、食事をすることにした。 |