小さな旅&日記
妻沼聖天山歓喜院(めぬましょうでんざんかんぎいん)を訪ねて
2010.4.12

妻沼聖天歓喜院
高野山準別格本山
日本三大聖天のひとつに数えられ、古来より縁結びの神様として、厚い信仰を集めている。
治承3年(1179年)、斎藤別当実盛は長井庄の総鎮守として聖天宮を建立し、大聖歓喜天を祀った。

日本三大聖天
妻沼聖天・静岡県小山町の聖天堂・三重県桑名市の桑名聖天(大福田寺)
または、妻沼聖天・東京・浅草の待乳山聖天・奈良の生駒聖天とする説もある。

貴惣門
今年もはや、東京の桜も葉桜になり始めた。
桜花が爛漫の大切な時、天気はすぐれず、雨が降り、肌寒、く恨めしい日々が続いた。
私もついつい、桜見物の折を逃してしまった。

そこで、最後のチャンスと思い、東京から70キロほど北上して、
埼玉県妻沼にある、妻沼聖天山歓喜院へ、桜見物を兼ねて、お参りをすることにした。

妻側に破風を三つ 子育地蔵尊
幸いにして、久々の好天、ドライブ日和だ。
暖かくフロントガラスから降り注ぐ陽光を浴びながら、環状8号線径由で、関越道へ。
まっすぐに進む車のエンジンンも快調、滑るように北上する。

やがて、彼方に、春靄に霞む秩父連山が見える。
淡く薄墨に滲んだような空の水色が、大空を水色の諧調に染めている。

さらに、水色を透かすように、千切れ綿雲が、ゆっくりと、悠久に流れて行く。
やがて、東松山ICで、料金の1000円を払い、高速を降り、熊谷に向かう。

自宅を出たのが、午後の1時前。
時間はまだ2時前だった。
車の窓を開ければ、爽やかな春風が吹きこんでくる。
 
街道沿いの畑は、麦なのだろうか、若緑色の絨毯を織りなしていた。
さらに、街道を進めば、名残の桜が、数え切れない程に点在する。
やはり、日本の春の象徴は、桜の花である。

中山道から、熊谷市街を抜け、一本道の街道を進む。
この道は、古くからの往還なのだろう、緩やかに蛇行しながら進む。

途中にある、バスの停留所の看板を見れば、妻沼、聖天山行きと書かれている。
何時もの事で、精確に地図を確かめずにやって来るので、予想以上に目的地に到着しないと不安になる。
バスの停留所の標識を見て、間違いなしと自信を持った。
斎藤別当実盛
やがて、妻沼市街に到達し、聖天山の看板を発見した。
指示通りに進めば、妻沼聖天山歓喜院に到着。
無料の駐車場に車を置いた。

駐車場からは、背丈の低い桜の回廊の向こうに、歓喜院の山門が見えた。

駐車場から進めば、参道の入り口の左手、貴惣門が青空を光背にして建っていた。
妻側に破風を三つ持つ総檜造りで、1851年(嘉永4)に建立された。
 
この建築様式は、全国に3棟現存するようだが、規模の大きさでいえば、最大の建築であるという。
山門の入り口を、向かって右手に、毘沙門天、左手に持国天の像が揃い、阿吽の形相で、門を守っていた。
中門
門の前の参道入り口の左手には、子育地蔵尊が建っていた。
吊り下がった鈴を鳴らし、手を合わせる。
そして、戻り、貴惣門を潜り、参道をまっすぐに進む。

参道の彼方、樹高も低く、樹周りもさほど太くない桜木の花が、薄桃色に咲いていた。
すると、右手に、斎藤別当実盛の青銅の像が建っていた。
 
その像は、左手に鏡を持ち、右手に持つ筆で、髪を墨で黒く染めていた。
かつて、武蔵野国は、源義朝の支配する相模国と、上野国の支配を目論む、源義朝の弟、義賢が覇を争っていた。
 
そのせめぎ合いの狭間に、斎藤別当実盛の支配する長井庄はあった。
当初、義朝の麾下にいた斎藤別当実盛は、やがて、義賢へ伺候した。
仁王門の扁額 仁王門
すると、久寿2年(1155年)のこと、義朝の子・源義平は、義賢を急襲し、義賢を打ち取った。
そして、斎藤別当実盛は、仕方なく、再度、義朝の麾下に下った。

だが、その戦の中、義賢の遺児・駒王丸を預かり、信濃の国の中原兼遠へ逃れさしたのは、斎藤別当実盛であった。
その駒王丸こそ、後の旭将軍木曾義仲である。

やがて、保元・平治の乱が起れると、斎藤別当実盛は、義朝の重鎮となり上洛した。
しかし、その後、義朝は滅亡。
東国に落ち延び、やがては、平氏方の麾下に下り、東国の有力武将として召抱えられる。
やがては、長井庄の領主・平清盛の次男・宗盛により、長井庄の別当に任じられた。
 
その後、治承4年(1180年)、義朝の子・源頼朝が挙兵。
だが、斎藤別当実盛は、平維盛の後見役を担い、平氏方につき、頼朝追討に出陣した。
仁王門
だが、時の勢いは頼朝にあり、富士川の戦いで大敗を喫し敗走。
寿永2年(1183年)、斎藤別当実盛が加勢する平維盛軍は、加賀国の篠原の戦いで敗北。
 
勇猛果敢に戦った斎藤別当実盛は、義仲方の武将・手塚光盛に首を打ち取られた。
だが、齢72歳の斎藤別当実盛、髪は豊かに黒々としていた。
 
不審に思った木曽義仲、池の水で首を洗い流させれば、墨は流れ落ち、白髪が晒された。
かつて、自分の命を救ってくれた大恩人斎藤別当実盛。
はからずも、今は自分の眼前に晒された顔を見て、木曽義仲は止めどなく涙したという。

この時の史実が、「平家物語」の巻第7の「実盛最期」であり、やがては、形を変えて、 世阿弥のも謡曲「実盛」になる。
かつて、戦場へ赴く武将たちは、潔く美しく死ぬことに美を感じていた。
仁王門の金剛力士像 
敵将に首を刎ねられる最期にも、死顔は美しくなくてはならない。
それ故に、合戦に向かう時、顔には薄化粧をしたともいう。
加賀国の篠原の戦いを最期と覚悟した斎藤別当実盛、老醜を晒すことなく、若々しい姿で、潔く、散りたかったのであろう。
 
参道へ戻り進めば、右手に護摩堂が見えた。
不動尊を本尊として、白衣観音、役行者神変大菩薩を祀っているという。
自動車の交通安全の加持祈祷を知らせる、朱色の旗が揺れていた。
 
さらに、少し進めば、清楚で格調のある中門が迎えてくれた。
甚五郎門とも呼ばれるこの門、聖天山最古の建造物であり、
江戸時代初期の災禍に焼失することなく、奇跡的にも、唯一つ焼け残ったものである。

門を潜り参道を進むと、1658年(万治元年)の建立と伝えられる仁王門が、荘重な構えで正面に建っていた。
かつての門は、明治24年の台風により倒壊、現在の門は、明治27年に再建されたものであるという。

左右には、阿吽の金剛力士像が祀られ、長い風雪の中、所々剥げ落ちた朱色の巨体が逞しい。
そして、この門から、悪霊、悪鬼など一切追い払うように、かっと目を剥いていた。

門を潜りさらに進めば、可憐に咲く桜の花の境内が広がった。
匂いように咲く桜花の回廊を進むと、御本殿があった。
 
しかし、江戸時代中期に再建されたという、奥殿・中殿・拝殿よりなる権現造の聖天宮は、工事シートに包まれていた。
平成15年10月着工、平成23年6月完成予定の保存修理の大工事中であった。

御本殿の中には、御本尊の秘仏、
御正躰錫杖頭みしょうたいしゃくじょうとう)が祀られている。
さらには、本殿外壁には絢爛華麗な彫刻に飾られているという。
だが工事中では仕方がない、残念ながら、仮説の建物でお参りを済ました。
護摩堂
すでに、日はだいぶ傾き、境内に落ち敷かれた桜花が、妖艶な色を添えていた。
大地に落ちた桜の花は、雅の中に、何処か妖しい匂いを放つ。

境内の中、桜に包まれた東屋があった。
そこで少し腰を下ろし匂い咲く桜を愉しみながら休んだ。