修善寺&稲取を訪ねて
2009.11.15
午前10時半頃、修善寺に到着した。
修善寺の手前、桂川に掛る朱塗りの渡月橋を渡り、筥湯(はこゆ)を右に見て、何時もの駐車場へ。
車を置いて、早速、修善寺マップを手に、散策に出かけた。
空は青く澄み渡り、強い朝の陽光が射す。
だまだ、紅葉には遠い散策道へ、木漏れ日が静かに落ちる。
すでに、散策道には、観光客が行き交う。
さすが情緒あふれる温泉街、修善寺には、老若男女が訪れていた。
ホテル桂川を通り過ぎて進むと、そこに、最初の訪問地、
修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂があった。
抜けるような青い空に、白亜のビザンチン様式の清楚な教会。
地上18メートルを誇る鐘楼も眩く、凛々しい姿で建っていた。
1912年(明治45年)、病床あったニコライ大主教の快復を祈念して、建てられたと言われる。
さらに、この聖堂内のイコノスタスは、
日露戦争当時、旅順にあったものを移設したもので、
他の正教会では見られないものだそうだ。
教会内の至聖所内には、イリナ山下りんの筆による、十字架の聖像がある、。
まだ少し、時間が早いのか、散策道から離れているせいなのか、私たち以外に人影はなかった。
桂川に沿って、少し離れた小道を進むと、源頼家の墓、指月殿の標識。
標識に従って少し進むと、昔ながらの足元狭い踏みすれた石段。
その上に、緑に覆われたお寺の屋根が見える。
階段を一段ずつ上ると、境内に出た。
修善寺に対面する鹿山の麓、絢爛さとはほど遠い、鄙びたお堂が建っていた。
修善寺温泉で暗殺された我が息子、源頼家の冥福を祈り、母政子が建立した指月殿(一切経堂)。
中には、柔和な顔立ちで、凛々しい釈迦如来が、手に蓮の花を持ち、蓮台に端座していた。
その釈迦如来を護るように、素朴な木造の仁王様が立っていた。
境内を左に進むと、悲劇の将軍源 頼家(みなもと の よりいえ)の墓があった。
父は源頼朝、母は北条正子の嫡男。
頼朝の急逝した正治元年(1199年)、
18歳で鎌倉幕府の第2代征夷大将軍となり、鎌倉殿として権勢をふるった。
が、北条氏を無視した独裁的な行動が、北条氏の反発を招く。
やがて、北条氏を中心とした、北条方有力御家人による、十三人の合議制がしかれる。
しかし、幕府内は、頼家方の比企氏と北条氏が対立。
そして、実朝を仰ぐ北条方が、比企氏を滅亡させ、鎌倉幕府の実権を握る。
頼家は将軍職を剥奪され、伊豆修禅寺に幽閉された。
だが、頼家は再起を図るも、祖父北条時政の命により、入浴中、抵抗も空しく惨殺された。
元久元年(1204年)、鎌倉に幕府を開いて3年目、頼朝36歳の嫡男。
燦然と未来は輝いていたはずの、幼名万寿の頼家。
策謀渦巻く権力闘争の波に飲み込まれ、在位僅か6年、享年23歳の短い生涯を閉じた。
陽光に照らされた寂しげな石段を上ると、そこに門構え。
後ろに回ると、ひっそりと石のお墓が苔むしていた。
鎌倉幕府2第目征夷大将軍将軍の墓にはしては、余りにも悲しげな風情だろうか。
政権闘争に敗れた将軍の末路は、かくも無残なもの。
急峻な階段を降り、指月殿の境内を抜けて、小路を通り、
土産店や食事処、射的屋などが立ち並ぶ「湯の宿花小路」から「竹林の小徑」へ。
暖かな木漏れ日が落ち、竹林の緑が眩しい。
程なく進むと、竹林に囲まれて、大きな丸い休み処があった。
一休みして、さらに竹林の小路を進むと、竹林の彼方、朱色の橋が透けて見える。
竹林の瑞々しい緑、木漏れ日の煌き、そして橋の朱色の織りなすコントラストが美しい。
そして、朱色の橋「楓橋」に到着した。
橋は強い日差しに照らされ、川面はきらきらと輝いていた。
さらに、我々は、橋を渡り、源範頼の墓へ向かった。
湯の郷村を左に折れて、晩秋の日差しとは思えないほどに、強い陽光が射す県道を進む。
大きな庭園を持つ旅館が、左右に並ぶ道を進めど、源範頼の墓への標識はない。
やがて、前方には伊豆の小高い山々が見え、桂川が広がる。
正午前の強い陽光に、桂川の水面が、きらきらと魚鱗のように煌いていた。
川に掛る朱色の輪田橋も眩しく、その向こうには修善寺小学校が見えた。
どうやら、行きすぎたようだ。
来た道を引きかえし、暫くすると、旅行者らしき2人連れが、前方左手から現れた。
その場所に、源範頼の墓の立札が、控えめに立っていた。
心細いほどに狭い路地を進むと、やはり、墓へ続く道があり、
枯れ野も近い、殺風景な草叢のその向こうに、緑深い小高い丘があった。
林の中、ごろごろした石積みの階段を上ると、
強い日差しに照りかえされた石段の先に、範頼の墓が見えた。
階段を上り切れば、そこには、余りにも寂しい姿で現れた範頼の墓。
頼朝と対立した源義仲を、異母兄弟の義経とともに、大軍を率いて殲滅し、
さらに、平氏を追討して、討ち滅ぼした勇将の夢の跡だった。
建久4年(1193年)、曽我兄弟の仇討ちの時、曽我兄弟の仇、工藤祐経を帯同した源頼朝は、
白糸の滝近くの井出家に狩宿を置き,、現在の静岡県富士宮市朝霧高原辺りで巻狩を催していた。
(巻狩とは、野生の猪、鹿などを四方八方から追い詰めて、弓などで仕留める狩り。
一種の軍事訓練でもあり、御家人たちの娯楽でもあった)
その時、曽我兄弟の仇打ちに巻き込まれ、頼朝が討死の誤報が流れた。
その時、悲しみにくれた北条正子に、範頼が、
「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたことから、異母兄弟の頼朝から謀反を疑われた。
その後、伊豆修善寺に、範頼は幽閉されたが、謀反の動きありとして、頼朝の命により、
梶原景時父子ら頼朝の重臣たちに急襲された。
範頼は必死に防戦したが、無念の自害を強いられた。
権力をめぐる、血で血を洗う、どす黒く渦巻く暗闘と謀略の末路は、何時の時代も悲しい。
お参りを済まし、ごつごつした階段を降り、元来た道を辿る。
正午近くの陽光は、ますます強く、汗ばむほどだ。
草むした狭い道を下り、湯の郷村を通り過ぎ、楓橋に辿り着いた。
さらに、木漏れ日も涼しげな「竹林の小径」を通り抜け、桂橋に着いた。
桂川の清流はきらきらと陽光に反射し、瀬音も聞こえるほどに煌いていた。
橋から眺めれば、多くの文人墨客が投宿したという新井旅館が、昔ながらの風情を醸していた。
そして、此処だけは紅葉していたもモミジが、微風に吹かれ揺れていた。
射すように強い陽光に照らされ、葉脈は透け、朱色は鮮やかに蒼空に映えていた。
桂川の川沿いの道を少し行けば、そこはすでに、伊豆最古の伝説の出湯、独鈷の湯(とっこの湯)に出た。
さすがに、ここはすでに修善寺の前、たくさんの観光客で溢れていた。
長い旅の運転と、修善寺探索、ママは靴を脱いで足湯に浸かった。
湯に手を入れたら、湯は程よい温度で、気持ちの良い、柔らかな湯だった。
暫く、足湯を愉しんで、さらに、修禅寺に向かった。
此処を訪れるのは、何年ぶりだろうか。
前回は、河津桜を観に出かけた折、時間があるので、修禅寺の梅林を訪れた時、お参りをした。
2年ぶり位だろうか。
伊豆は大好きなので、気軽な気持ちで、度々訪れる。
だが、最近、修善寺は通過地点になっていた。
階段を上り、山門を潜る手前、境内の紅葉が美しく照り映えていた。
山門を潜ると、境内は旅行者で賑わっていた。
手水舎の暖かい温泉で、手と口を漱ぎ、本堂でお参りをした。
境内をぶらりと散策すると、鐘楼に陽光が辺り、深い陰翳を与え、その向こうに紅葉が眩しかった。
山門を下り降り、旅館や土産物屋が犇めく、狭い古からの道を、伊豆急修善寺駅方面に進むと、日枝神社があった。
これまで、修善寺は何度も訪れたが、この神社の存在自体、全く知らなかった。
だが、このお社は、弘法大師が創建したという歴史を持ち、元をたださせば、修禅寺の鎮守であった。
だが、明治元年(1868年)、神仏分離令により分離されるまで、修禅寺の鬼門をを守っいたのだ。
さらに、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院もあったという由緒正しい神社だった。
石造りの鳥居には、立派な〆の子が下がった注連飾り飾られていた。
鳥居を潜れば、参道が杉の古木に抱かれながら奥へ伸びている。
古木から霊気が漂い匂う中、参道の石段を上ると、さほど広くもない境内に出た。
常緑樹の緑を後背にして、飾りげのない本殿が鎮座していた。
本殿前に進み、大鈴を鳴らして、手を合わせた。
境内には、樹齢800年にもなる、杉の古木が蒼空を突くように聳えていた。
古木の名前は「子宝の杉」と呼ばれ、根っこの部分が合体している。
その2本の杉の結合した部分に、朱色の鉄製の階段が掛けられていた。
その階段の橋に乗り佇めば、境内を囲む生い茂る木々が眺め渡せた。
階段から下り、境内脇の社務所へ出かけ、そこでお守りを戴いた。
すると、社務所のご老人が、ご丁寧にも筆を取り出し、
お札を納める袋の正面に、日枝神社お守りと墨書してくれた。
早いもので、すでに12時30分を回っていた。
欝蒼とした階段を下ると、途中、源範頼が自刃したと言われる「信功院跡」。
今はひっそりと寂しそうに、古木に守られるように、庚申塔一基が立っていた。
さらに下りて、鳥居を潜り、修禅寺に続く、道を進み、渡月橋を渡り、
2000年2月に復活した外湯、筥湯(はこゆ)へ。
鎌倉幕府2代将軍源頼家も浸かったと言われっる由緒ある外湯だ。
勿論、湯に浸かるほどに時間のない我々は、玄関前の椅子で休んだ。
今日の修善寺巡りは、ひとまず終了した。
そして、旧天城峠を越えて、稲取に向かった。
国道136号から、国道414は、何回通っただろうか。
湯が島温泉郷を抜け、さらに淨蓮の滝の駐車場を右に見て、一路進む。
やがて、車を左にハンドルを切り、狭い赤土が剥きだした道を行くと、旧天城トンネル。
まだ早い紅葉を愉しむ中高年のハイカーたちが、そぞろに歩いていた。
トンネルの入り口には、黄色も可愛いい着物姿の踊り子さんがいた。
そして、観光客と記念撮影に収まっている。
冷え冷えとした薄暗いトンネルを進むと、明かりを灯した提灯を持つ旅人と、幾人かすれ違う。
旧天城トンネルを通り抜けると、下り坂、紅葉を待つ景色が広がる。
深い杉林の彼方の川沿いの広葉樹は、まだ浅き紅葉に彩られていた。
下りのくねった道を進めば、やがて、河津七滝の懐かしい表示。
そのまま進めばループ橋。
ぐるりぐるりと回転しながら進み切り、川沿いの鄙びた道を進めめば、
かつて泊まった、程なくして、川端康成も愛した湯ヶ野に着く。
さらにのんびりと、晩秋の伊豆路を、狩野川に沿って進むと河津へ出た。
今は寂しげに、冬枯れの桜並木が、狩野川の両岸に続く。
桜の季節の溢れるほどの人波は、幻の如く想像も出来ない。
川面は陽光に照らされ、きらきらと反射し、水鳥が餌を漁っていた。
やがて、正面に海が開け、左に折れ、洋々と広がる相模灘を右に眺めながら、
国道135号を北上する。
そして、我々の泊まる稲取に到着した。
2階の部屋に案内され、窓から眺めれば、
稲取湾に何隻も漁船が錨を下ろしていた。
遥かの紺碧の海の彼方、微かに茜を帯びた蒼空が、陰り始めていた。
やがて、港の舟溜りは、黄金色の夕日に照りかえされ始めた。
晩秋の夕刻は、釣瓶落としのように、あっという間に、夕靄に包まれた。
やがて、日は落ち、遥か蒼暗い洋上に、微かに残光が残り、暮空の雲に照射していた。
そして、旅の疲れを癒しに、温泉へ浸かりにいった。
夕食は6時半からだ。
伊豆の海の幸をたっぷりと頂こう。
そして、食事の後の9時頃、
磯の匂いを一杯に乗せて吹く風を愉しみながら、貸切露天風呂を味わった。
翌朝、10時にチェックアウトをし、国道135号線を北上する。
我々の伊豆の旅。
中伊豆の湯ヶ野に始まり、今回の稲取、そして、これから通過する熱川、北川、伊豆高原にも泊まった。
西伊豆では土肥、大瀬崎など、伊豆は海水浴シーズンを除いて、隈なく訪ね歩いた。
何時訪れても、気候も温暖も、人も優しく、海の幸は溢れている。
やがて、熱川温泉の湯煙を眺めながら、さらに、海岸線を北上すると、北川温泉卿が出現した。
洋々と広がる相模湾を眺めながら、磯風を浴びながらの、混浴露天風呂も懐かしい。
さらに、北上すると城ヶ崎、そして、木々に包まれた伊豆高原を抜けて、伊豆スカイラインを進んだ。
やがて、太陽の光も強くなり、高原を進む車は軽快に風を切る。
そして、標高519メートルの巣雲山の頂上へ到着した。
遠くに、靄に霞む富士山の秀麗な山容が広がる。
澄み渡る秋空ならば、神々しい霊峰富士を眺めることが出来るのだが。
さすがに晩秋、吹き渡る微風も冷たく肌を刺す。
すでに時間は、11時を過ぎていた。
さらに、険しい峠の道を進めば、見晴らしの良い多賀に到着した。
車を降りて、来た方を遠く眺めやれば、
熱海の先に浮かぶ初島が、靄の中、相模湾に浮かんでいた。
右方を見やれば、伊豆大島が優美な姿を遠望することが出来た。
太陽は弱いが、すでに中天に達している。
さらになだらかな上りの峠道。
スピードを出して、オートバイ仲間たちが、峠道を風を切りながら進んでいく。
そして、伊豆スカイラインに別れを告げて、熱海峠へ出た。
やがて、十国峠に着いた頃、陽光は強く、色着き始めた山々を照らしていた。
さらに峠の道を進めば、芦ノ湖スカイライン。
冬近い、晩愁の蕭条とした景色。
冬枯れを待つ峠の道の向こうに、くっきりと富士山が姿を見せた。
何時見ても、何処から見ても、富士山は荘麗だ。
ここから、さらに上り下れば、右手に芦の湖が見えるはず。
湖畔の湖尻を抜ければ、箱根神社の前を通る。
そして、朱色の大鳥居を抜ければ、遊覧船の乗り場に着く。
すでに時間は1時過ぎ。
芦ノ湖を見渡すレストランで昼食を摂り、東京へ帰ることにしよう。
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