お墓参り&江ノ島へ
9月13日


東京のお盆の7月12日、厚木までお墓参りに出掛け、
お彼岸前の今日、9月13日、早々と、お墓参りにやって来た。
天気は上々、空には澄んだ青空が広がる。

最近は、起きるのも早く、お墓まで、中天に太陽が輝く時間に到着する。
途中、昼食を摂るほどに、時間にも余裕がある。
我々の生活も、少しは普通の生活人なみに、なったということだろう。

来週のお彼岸を控え、霊園には、私たち以外に人影はない。
水汲み場で、桶に溢れるほどに水を満たし、束子を持ってお墓へ。
すでに、ママは草むしり。
昼下がりの降りそそふ陽光を浴びながら、私はごしごしと墓石を洗う。
水を含んだ墓石が、きらきらと輝き、にこやかに笑っているようだ。

墓石の裏には、お墓に眠る3人の名前と、没年が刻まれていた。
しっかりと、束子で洗ってやると、名前と享年が鮮やかに浮きあがる。
生前は大変にお世話になりましたと、心で語りかけながら、ごしごし洗い水で流す。

花入れも奇麗に洗い、水を入れて花を生ける。
お墓は美しく装われ、華やぎを増した。
お線香を焚き、供物のオレンジを添えて手を合わせる。

夏は過ぎ、秋も間近。
すでに、名残の蝉の声もない。
数えるほどの赤トンボが、空高く、涼風に吹かれながら飛んでいる。

遠くに見える山々は、幾重にもかさなり朧に霞んでいる。
駐車場脇には、秋の花のコスモスが、可憐な姿で、ゆらゆらと風に踊っていた。
そのコスモスの花の下、背丈の低い花の葉に、親子のバッタがとまっていた。

そして、お墓を後に、何時ものコースへ。
寒川神社から平塚へ出て、茅ヶ崎、辻堂を見やりながら江の島へ。
すでに、日は落ち始め、海の彼方、富士山が夕靄に沈む残光に、影絵のように浮かび上がる。
墨を溶かしたように蒼黒い海に、夕日が反射し、海面は静かに波打っている。
洋々と広がる空には、燃えるように赤い、幾条の帯びが連なり、金色の燦光が湧きあがっていた。

駐車場に車を置き、海沿いの公園を散歩する。
港には漁船が係留され、公園の桟橋では、のんびりと釣り人が釣り糸を垂れていた。
ベンチでは、仲良く男女のカップルが並んで座っている。
すでに、海面は満潮の波、小さくうねりながら黒い波を押し寄せている。

爽やかな海風を愉しみながら、ぶらりぶらり歩けば、あちらこちらに猫たちがうろうろ。
どの猫も人懐こく、手を出して撫ぜてあげても、逃げる気配はない。
不思議な事に、島や岬には猫が多い。
伊豆の城ヶ崎、神奈川の真鶴、城ヶ島などなど。
猫たちは人懐こく、野良猫なのか飼い猫なのか見当がつかない。

7月に来た時は、江の島は賑やか、夏祭りの幟まで海風にはためいていた。
1年で最高の稼ぎ時、海水浴シーズンの真っ盛りだった。
水着姿の若者たちで、溢れかえっていた。
だが、お彼岸間近の今日、江の島は程良い賑わいだった。

江ノ島から、海に突き出るような、江ノ島アイランドスパ「えのすぱ」の灯は、華やかに輝きを増していた。
海は漆黒に変わり、空には微かに、日の光がが残る。
江ノ島の橋のはるか向こうには、なだらかな湘南の山々が、暮れ落ちた暗い蒼穹に浮かぶ。
そして、横須賀へ続く道を走る車のライトが、真珠の数珠のように続く。

すでに時間は6時を過ぎていた。
何時も立ち寄る海辺の定食屋さんへ。
私は名物「生しらす丼」を注文した。
「かま揚げしらす丼」ではなく、何時も売り切れの「生しらす丼」を、幸運にも注文出来た。
大きな丼に盛られたご飯に、透き通ったしらすが、たっぷりと盛られていた。

山葵を溶き入れ、醤油を注ぎ、ご飯としっかりと絡める。
ご飯とともに口に入れて噛めば、ぷちりとしらすが弾け、薄甘い汁が膨れる。
やがて、山葵の快香が鼻孔を刺激し、
醤油のふくよかな匂いと味が、しらすの旨味と響き合う。

ママはお刺身定食。
大皿に、盛られたお刺身は豪華だった。
有頭海老、イカ、イクラ、マグロ、ハマチ、蟹、生しらす、
鰺、ウニ、サーモンなどが盛られたお刺身は、色とりどりで美しかった。

食事を終えて外に出れば、さすがに先ほどの賑わいも収まっていた。
江ノ島神社への参道へ行けば、此処だけは、まだまだ賑わいを忘れていなかった。
秋近い、名残の夏を、たくさんの観光客が愉しんでいた。