信州白骨温泉
2009,05.17-18


松本城下縄手通りの手打ち蕎麦屋に入り、信州の地ビールと蕎麦を戴く。
フローリングの床、大きなスピーカーから、低音も微かに響く。
笊に盛られた蕎麦を肴に飲む地ビール。
イギリスのエールに似たブラウン色が、冷えて霧のかかったグラスに冴える。

香りはフルーティーに、口に含めば、そこはかと甘く、林檎の香りが広がる。
最近は、何処へ行っても、美味しい地ビールが飲めるのは嬉しい。
運転手のママは、美味しそうにお蕎麦と鴨肉を愉しんでいる。
このお店は、どうやら、夜はバーに替わるようだ。
カウンターの向こうには洋酒が並ぶ。

少しだけ遅い昼食を摂り、店の外へ。
やはり、雨は止むこともなく降り注いでいた。
やがて、松本城に戻ってきた。
城址の木々は雨に濡れ、緑も鮮やかに、お堀の水面には小さな波紋が広がる。
松本城の天守の黒がどんよりと、薄墨色の空に、戦国の威風を湛えていた。

お堀端を歩きながら行くと、お堀に繋がる池には、
たくさんの蓮が、雨に濡れながら浮かんでいた。
やがて、初夏を迎える北信州にも、蓮の季節もやってくるだろう。
松本城をあとに、今日の最後の目的地、白骨温泉に向かった。

白骨温泉は、ここからさらに一時間以上、上高地高山方面へ、国道158を奥地へ入る。
かつては、若山牧水夫妻も度々訪れたという。
大正2年、中里介山が「大菩薩峠」で、白骨と書いてから、この秘湯は全国的に有名になった。
240年以上も前、この地は古文書に登場し、白骨(シラホネ)、白船(シラフネ)とも言われていた。

深い谷間の地形が船に似ているから、また、湯船に浮かぶ木の葉や木々が、
湯の石灰分で化粧し、白い白骨のように見えたことによるとも。
また、湯船に白い成分の石灰が付着し、白い船のようだったからも言われている。

戦国時代、武田信玄公の隠し湯になったこともある。
度重なる戦乱で傷ついた兵士たちや、
乗鞍岳で鉱山開発に携わった工夫たちの、湯治の湯にもなった。

南アルプス、乗鞍岳の麓の山峡へ分け入り、
進むに従い、道は狭く、やがて、渓谷に湯川が流れていた。
ところが、この雨、清流どころか、川は茶色に染まり、濁流となって流れ下る。
すれ違う車もなく、九十九の道を上り下り進めば、やがて、ぽつりと、大きな温泉旅館が顔を出した。
そして、3軒の湯宿を後に、さらに下りの道を進む。

雨足はさらに激しく、フロントガラスを叩きつけるようだ。
晴れていれば、鮮やかな新緑を眺めながら、窓から吹き込む、薫る風を愉しめるのだが。
水煙をあげながら、雨の中を進めば、やがて、温泉宿が立ち並ぶ、白骨温泉に到着した。
私たちのお世話になるなる宿は、渓流沿いの中ほどにあった。

宿の前に車を着けると、番頭さんが笑顔で、我々を迎えてくれた。
バケツをひっくり返すような雨の中、2時の予定は3時、無事に深い山峡の宿に到着した。
我々の部屋は3階、窓からは、新緑の山が鮮やかに迫り、見下ろせば、湯川が迸り流れていた。
広い窓から見渡せば、山峡の宿は薄霧に包まれていた。
そして、一息入れると、早速、温泉に出かけた。

エレベーターで1階に降り、人気ない廊下をかなり歩くと温泉はあった。
広い湯船は桧で造られていた。
身体を洗い、温泉に静かに浸かる。

湯は少し熱めだが、しばらくすると身体に馴染み、
背筋からじわじわと身体の芯を温めてくれる。
単純硫化水素泉の湯触り優しく、湯は仄かに、灰緑色を帯びた乳白色だ。
勿論、湯船に浸かった自分の手足は、見えないほどに、湯色は濃かった。

もちろん源泉100%の掛け流しで、自然湧出44℃〜46℃の湯だ。
筧から流れ落ちる湯には湯呑がある。
ここの湯は飲むこともできる。
湯のみで流れ落ちる湯を受け口へ。
硫黄の臭いが鼻先に漂う。

口に含むと、柔らかく、そして、少し塩味を感じながら、重たく広がる。
ごくりと飲み込むと、喉元を優しく膨らましながら流れ落ちる。
やがて、硫黄の臭いに溶けあいながら、微かに甘みを残してくれた。

身体も温まり、戸を開けて露天風呂へ。
雨脚はかなり弱くなっていた。
湯の色は鈍いエメラルド色に染まる乳白色。
湯の上には木の葉が落ちていた。
湯船の色は、噂通り、石灰の白で変色していた。

露天風呂を囲む山々の萌える新緑は雨に濡れ、霧が立ち込めていた。
眼下を見下ろせば、清流であるはずの川は、音をあげながら、濁流となって流れていた。
山峡に上る湯けむりは、深い霧を伴いながら暮れようとしていた。

翌日、早朝の6時に目覚める。
窓のカーテンの隙間より光が洩れる。
はてやと思い起きだしてカーテンを開ければ、新緑も鮮やかに青空が広がっていた。
思いもかけない快晴に心が躍る。

早速タオルを持って風呂へ繰り出す。
エレベーターで1階へ行くが、まだロビーに人影もなかった。
長い廊下には、冷涼な凛気が流れていた。
脱衣所から浴場に入るも、もちろん、私以外、人気はなかった。

長い間に木目も浮きだした桧の風呂に、源泉が静かに溢れ落ちていた。
身体に湯を軽く流し、ゆっくりと湯船に浸かる。
硫黄の臭いさえ心地よく漂い、白濁した湯が身体を包みこむ。
流れ落ちる源泉を飲めば、するすると身体に沁み落ち、
収縮していた胃腸が膨れながら広がり、蠕動し始めるようだ。

そして、露店風呂へ。
朝の山峡の冷気が肌を刺す。
岩風呂には木の葉が浮き、白化粧をしていた。

空の青さを映しているのか、お湯の色は青を深くしていた。
空は澄み切って青く、陽光が降り注ぐ。
木々の葉の葉脈が浮きたち、浅黄色に、青緑にそよいでいる。
木の間から射しこむ陽光が、露天風呂の岩場を、斑に飾る。

眼下に流れる川は、昨日が嘘のように澄み渡り、朝日を浴びて煌いていた。
水は銀の飛沫を上げながら、小さな滝を流れ落ち、水は優しく温むようだ。
そして、雀の囀る鳴き声が響く。
白骨の湯は柔らかく温もり、山峡の空気は深閑と霊気を与えてくれる。

そして、10時には宿を出て、山間の道を乗鞍高原を走り、
車窓から流れ込む薫風を胸いっぱい吸い込みながら、ゆっくりと、諏訪湖まで旅をする。
信州を訪れる、一足早い初夏を愉しみながら帰京する予定だ。