信州松本城を訪ねて
2009・5・17

旧開智小学校から、1キロほどの距離に松本城はある。
早朝、まだ入館できない時間に通りかかった時は、何処の駐車場も、
全くと言っていいほどに、がら空きだったのが、今は満杯状態だった。

車のナンバーを見れば、遠く様々な県から来ていることが分かる。
やはり、高速道の1000円効果なのだろう。
確かに、長距離だと、有難いことこの上ない。

市営の駐車場に、車を置いて外に出た。
雨は、先ほどに比べて、かなり強く降りだしていた。
横断歩道を渡り、城址公園に出た。

お堀の向こうには、黒い5層の松本城が見える。
かつては、深志城とも、その黒さゆえ、烏城とも言われた。
戦国の永正年間、松本平の信濃府中の信濃守護家・小笠原氏が林城を築城。

その林城を護る支城の一つが、深志城であった。
やがて、甲斐の武田信玄が侵攻、林城から深志城を拠点に替え、松本平を平定した。

やがて、1582年(天正10年)武田家滅亡後、
徳川家康の支配に下った小笠原貞慶が、この地を回復し、松本城と改名した。

現在、日本国内には、安土桃山時代後期から、江戸時代にかけて建造された、
天守閣を持つ城郭は12其現存し、すべての天守は国宝に指定されている。
そして、5重天守は、現存天守では、日本最古を誇る。

お堀の水面は雨に打たれ、小さな鱗のような
さざ波がたち、水面が揺れ騒いでいる。
お堀を跨ぐ朱色の橋には、たくさんの観光客が続く。
風が巻くように、雨脚はますます強くなる中、埋の橋を渡ると、そこが水の手口埋門。

そこで600円を払い中へ進むと、松本城の渡櫓の大手口。
この場所は一部が地下にあたる。
傘入れに傘を差しこみ、靴を脱ぎビニールの袋に入れた。

この雨の中、思いのほか観光客が多かった。
階段(がん)木を上り、乾小天守から次は渡櫓へ。
ここには昭和の大修理で外された、巨大な黒光りする鬼瓦などが展示されていた。

そして、渡櫓を抜けて、薄暗い部屋へ。
そこは天守の1階、武器や食糧の倉庫だったところだ。

階段を上ると、2階に出た。
大小の火縄銃や、脇差の形をした鉄砲などが、ところ狭しと展示されていた。
様々に工夫された銃は、滑稽でユーモラスなものさへあった。

順路に従い見物をする。
窓は多く、太い木で組まれた竪格子の窓(武者窓)は東西南に開け、
先ほど来たお堀が、薄緑に広がる。

三方に開けた窓から景色を楽しみながら回れば、3階への階段。
上れば窓のない厚い板敷の部屋は、黒光りしていた。
5重6階の松本城。
だが、この階だけは外から見えない秘密の階だ。

木連格子の小さな窓以外は、一切、光を遮断し、剥き出しの柱が直立していた。
厚い床板から足裏へ、歴史の荘厳さが、ひんやりと伝わる。
いざ戦ともなれば、武士たちが集合し、戦に備える武者溜(兵の詰所)だったのだ。

ゆっくりと、写真を撮りながら見物している内に、城内はますます賑わってきた。
どうやら、台湾の観光団が、大挙押し寄せてきたようだ。
その人並みの中に、我々は飲み込まれてしまった。

添乗の若くて元気な女性が、大きな声で、観光団に中国語で説明していた。
言葉のわからない我々は、もちろん、ちんぷんかんぷんで理解する由もなし。
そして、さらに4階へ進んだ。

そこは、先ほどまでの階とは趣の異なる、優雅さを醸し出していた。
天井は高く、上部の壁は白い漆喰で固められ、桧の柱は少なく、部屋には御簾が垂れ下がる。
部屋は明るく、貴族の館のような風情を匂わす。
戦になれば、三間四方のこの書院造りが、城主の御座所になった。

さらに薄暗く狭い階段を上る。
階段の勾配は61度、1段の高さは39.5度もあるという。
そして、なおかつ、踏み板は極端に狭く、
5階への入口は、すれ違うだけがせい一杯のあり様だ。

本丸に迫る、敵の侵入を阻止するための手段だったのだろう。
パンタロン姿の女性には問題ないが、スカートだったら大変な事になるだろう。
この階段を上る時は、さながら満員電車のような混雑ぶりであった。

そして5階に到達した。
四方の壁には破風が切られ、外光が差し込み、濃淡のアクセントを添える。
何もない平板な部屋に、雨模様とはいえ、明かり窓からの光が伸びる。
壁は白く、ここが重要な意味を持つ部屋であることがわかる。

有事の時、この部屋に、重臣たちが集まり、重大な決定を下す。
城内の構造は、それぞれの重要な意味を持っているのだ。
それが戦国の戦闘的な城郭なのだろう。

いよいよ、待望の最上階へ。
天井も高く幅も広く、かつ、傾斜も緩やかな階段。
途中には踊り場さえある。
戦時にあって、重臣たちが、この階段を取り囲み作戦会議を開く。

この階段で会議となれば、すでに、戦況はかなり厳しく、最終局面も近い。
幸いこの城は、そんな悲劇を迎えずに済んだようだ。
ここまでの行程、ご老人たちには、かなり堪えることだろう。

だが、若者たちに混じって、必死に階段を上っている。
そして、やっとのことで、最上階の天守6階に到達した。
格子窓から彼方を見渡せば、雨に煙る緑に燃える信州の山々。

3000メートルを超す、南アルプスの山々には、黒い山肌を晒しながらも、残雪が輝いていた。
天守の天井を見上げれば、剥き出しの井桁梁が豪快に組み上げられていた。
その中央には、松本城の守護神、二十六夜神が祀られていた。

多くの見物客の賑わいの中、天守は静謐な空気と厳格な気を漲らせていた。
上る人、下る人に紛れながら、階下へ降りて行く。
そして、寛永年代に増築された、辰巳付櫓へ向かった。

白壁が塗られ、剥き出しの天井の梁は太く、部屋は明るく清楚なのだが、どこか殺風景。
さらに進めば、晴れ晴れと見渡せる、松本城東面に位置する月見櫓へ出た。
北東南の三方の舞良戸は開け放たれ、戸の外の朱塗りの回縁も鮮やか。

本丸御殿跡の緑は雨に濡れ、朱色、白の花々が咲き誇る。
舟底形をした天井は優美に、仄かに雨まじりの五月の薫風がそよぐ。
松本城に吹き渡る風は美味しい。

松本城天守巡りは、思いのほかの強行軍だった。
階段が急峻なのは勿論だが、団体観光客に紛れて、前へ進めないのも堪えた。
だが、所詮、日曜の観光地、これで当たり前なのだろう。

このような貴重な歴史的財産も、明治時代に取り壊されそうになったことがある。
欧化主義の名の下に、かつての、日本の建物、美術、思想まで、すべてが否定され破壊された。
1872年(明治5年)松本城も競売にかけられ、、そして寸前のところで解体されるところだった。

しかし、市川量造らは衆知を結集し、
地元の有力者たちとともに、多大の努力を払い買い戻し保存した。
やがて、明治30年代、天守が大きく傾き始めた。
天守台を支える16本の支柱柱の老朽化が原因だった。

その時、松本中学校校長小林有也たちは、天主保存会を設立。
1903年(明治36年)より、1913年(大正2年))までの間、「明治の大修理」をおこなった。
長野県には、文化財を守る賢明な在野の民が、何時も存在しているのかもしれな。
文化を育てるのは、国家であり、さらには民衆の叡智とたゆまざる力だろう。

広い階段を降りると、出口の光が射し込んでいた。
靴を履き替え、外に出れば、相も変わらず雨が降っていた。
そして、さらに雨脚は強く振り落ちていた。

堀端沿いを歩きながら、城址の公園を通り抜けると商店街があった。
真っすぐな広い通りをさらに進み、松本城南、大名町交差点を越せば、縄手通りに出た。
この辺りを「蛙の町」と言い、蛙が町のシンボルになっていた。
そこに,四柱神社があった。

鳩が群がる雨の参道を進み、礼をして大鈴を鳴らし手を合わせる。
神社の本堂では、整然と厳かに、婚礼の儀が始まっていた。
紋付羽織袴姿の新朗と、文金高島田の新婦が、杯を酌み交わすところだった。

女鳥羽川は雨でかなり増水し、狭い川幅ながら、流れは速かった。
川沿いの狭い道の店は、閉まっているところも多く、橋を渡って広い通りに出る。
ここら辺りが、旧市街地なのだろう。
歴史を偲ばせる風情の建物が立ち並んでいた。