長野県松本市旧開智学校を訪ねて

2009.05.17

早朝6時、長野県松本市の重要文化財旧開智学校(現在は教育博物館)に到着した。
旧開智学校は、明治6年(1873)に開校。
昭和38年(1963)まで使用されていた、我が国最古の小学校だった。
かつては、女鳥羽川沿いにあったが、昭和38年から、1年かけて、現在地に移築された。

文明開化を推し進めた、筑摩県権令永山盛輝のもと、大工棟梁・立石清重が、
横浜や東京の洋館を参考に設計施工した。
工事費は、当時、1万1千余円にものぼる巨額なものだった。
だが、その建築資金の7割を、松本の住民が賄ったという。
さすがに、教育県と言われる、現在の長野県の姿が、すでに萌芽していた。

開館は8時半、しばらく車で待つことにした。
相変わらず、愚図ついた雨模様。
悪い天気予想は、嫌になるほどよく当たる。

車から傘をさして外へ出れば、そこに旧司祭館があった。
水色の壁板は淡く、廊下の前面は大きな格子の硝子窓。
何所か古き良きアメリカ南部の、民家のような佇まいだ。

長野県最古の西洋館でもある。
松本カトリック教会のフランス人、神父クレマン氏によって、
明治22年(1889年)、宣教師の住居として、
松本城下・北馬場町にあった、武家屋敷跡地に建てられたものだ。
そののち松本市に寄贈され、1991年(平成3年)に、現在地に移築された。

やがて、玄関に車が停まり、玄関が開けられ中へ消えた。
しかし、玄関はもとのままに、閉ざされてしまった。
暫くするとまた、車が登場し、女性が玄関を開けて中へ。
今度は、玄関は開けたままだった。

時間は開館の時間だった。
車を降り、入館券を300円で購入し中へ。
雨に濡れた道を進めば、旧開智学校の正面に出た。
明治時代の洋館は、和風と洋風の折衷様式で、文明化開花の匂いが伝わる。
白い壁、四角い格子に硝子窓がは嵌めこまれ、壁はしっとりと白い。
屋根は和風の瓦ぶきで、板壁は水色で華やぐ。

2階にはバルコニーが張り出し、その上の屋根には望楼があった。
止むことのことのなく降りしきる小雨が、旧校舎に趣を添える。
庭には藤棚が垂れ下がり、薄紫が匂うように咲いていた。

靴を脱いで下足に置き、スリッパに履き替えた。
廊下を年配の女性が、モップで掃除をしていた。
もちろん私たちが一番乗り、私たち以外に、入館者はいなかった。

広い木の磨き抜かれた廊下はには、早朝の張りつめた気が漲っていた。
明治時代に建築された欧風の校舎は、
どこか、我々のかつて通った小学校に似ている。
懐かしい幼いころの思い出と混じり合う。

たくさんの教室。
そこには、様々な思い出の品々や記録写真、
当時を物語る資料が展示されている。
広い教室には、教職机にオルガン。
生徒たちの小さな小さな机と椅子。

机には、私たちがしたと同じように、悪戯書きの彫られた跡。
木目も浮き出た廊下を奥へ進めば、
たくさんのかつての教室があり、今は展示室になっていた。
思いだせば、私たちが学んだ机や椅子も、これとそれほどの違いはなかった。

廊下を進み一番奥へ行くと、そこに上り階段がある。
どっしりとした重厚な板張り。
しっかりと一歩一歩踏みしめて上らなければ、
足を滑らしそうなほどに磨かれていた。

8、9、10の展示場を見て歩くと、明治13年(1880)の、
明治天皇御巡幸の折に使われた、天皇・皇后の便殿(休憩室)があった。
豪奢な造りではなく、いたって普通だが、床だけは板張りでなく、竹網になっていた。
そして、その隣の小さな校長室には、尋常小学校を含めて、たくさんの教科書が展示されていた。

部屋を出れば、間口の広い講堂。
少し高い屋根には、シャンデリアが輝き、ステンドグラスの色ガラスが光彩を放っていた。
鈍い朱色の絨毯の向こうの床は竹網。
江戸時代の寺子屋の天神机、明治時代から昭和の初期の机が展示されていた。

机の向こうには古いオルガン。
そして、部屋の右端奥には、朱色の校旗が飾られていた。
すべての展示室を廻り、階段を降り、玄関へ。
すると、私たち以外、誰もいなかったこの記念館は、賑わいを見せ始めていた。
外へ出れば、相変わらず、しとしとと雨が音もなく降り続けていた。