私たちのルーツ、椎名町探訪

2009年5月10日

5月10日、私の兄弟たちと、私と弟が生まれた椎名町を、探検をすることになった。
私の兄と姉は朝鮮、今の韓国で生まれている。
父が土木技師で、ダム建設の技術者だった。
父は尋常小学校を卒業すると、郷土の成功者に連れられて、朝鮮へ渡った

成績優秀な父は、飛び級で学校を卒業し、土木技師になった。
20代の父の給料は、日本の総理大臣よりも多かったと、母親に聞いたことがある。
やがて、母親と結婚し、現地で私の兄と姉を産んだ。

やがて、太平洋戦争が始まる。
父は現地召集になり、暗号解読兵として、出征した。
あまり戦争のことを語らなかった父。
だが、ふと話したことがあった。
「暗号兵は捕虜になるな。その時は自決しろと命令されていた」と。

母親の話では、父親は大きな勲章を持っていたそうだ。
きっと、暗号解読で、とんでもなく大きな暗号を解読したのだろう。
それが、何だったのかは、すでに、鬼籍の父に聞くすべもない。
今になり、私は少し後悔をしている。

戦後生まれの我々は、辛い戦争を体験した父親や母親から、
たくさんの戦争体験を聞きだし、それを次の時代に伝えなければならない責務があった。
悲惨な戦争は、2度と起こしてはいけない。
やがて、日本は敗戦し、戦争は終結した。
だが、父親は戦地からまだ戻って来なった。

朝鮮半島は混乱し、情報も錯綜する。
各地で暴動、略奪、婦女子凌辱、強奪など、日本人が襲われているという噂が飛び交う。
母親は、3歳の兄と2歳の姉を抱えながら、じっと父親を待ったという。
だが、父親の消息はまったくなかった。

母親は覚悟したそうだ。
あと1週間待って、父が帰って来なければ、乳飲み子を道連れに、自殺をしようと。
それほどに、現地は緊迫し混乱していた。
そして、最後の1日、絶体絶命の時、ひょこりと、父親が復員してきた。

その瞬間、気丈な母親は腰を抜かし、1週間の間、寝たきりで起きれなかった。
やがて、終戦のどさくさの中、釜山港から家族そろって、無事、引き揚げてきた。
そして、新潟の実家で、1年ほどの居候生活。

そののち、不自由な居候生活に別れを告げ、東京に出た。
そこが椎名町だった。
父親は建設会社に、幾つか就職するも、会社は倒産の連続。

そこで、母親は雑貨屋を始めたらしい。
その時、私が生まれ、4年後に弟が生まれた。
私の原風景の中に、微かに、ぼんやりと、
2階の部屋から、町を見下ろす姿を記憶している。

今日は久しぶりの快晴に恵まれた。
日本の各地では、真夏日を観測するところも随所にみられる。
JR目白駅に集合した。
私はママと長女を連れて参加した。

兄夫婦は勿論、姉夫婦も静岡から、新幹線で出てきてくれた。
そして、8人の椎名町探検隊が組まれた。
好天の日曜日の昼下がり、目白の商店街は賑やかだった。
いざ、私が生まれた椎名町へ。

兄はこの目白の道を、かなり鮮明に覚えているようだ。
そして後年、途中にある近衛家にも、仕事でよく出かけていたそうだ。
その町は今でも、古い人は、近衛町と言っているという。

わたしもその屋敷にあった「目白クラブ」へ、
フレンチのサービスに、偶然にも、出かけていたのも、何かの縁だろう。
やがて、山手通りを越し、しばらく行くと、公番を境の2差路。

右へ折れて進むと、南長崎ニコニコ商店街。
そして、兄が記憶のクリーニーング屋さんが現存していた。
狭い路地を入れば、そこが私と弟が産まれた場所だった。

前には、当時と同じように「浅田飴」の本社があった。
その近くにある東京信用金庫椎名町支店の場所に、
かつては映画館があり、火事で焼失したという。
その浅田飴本社の前は目白通り。
ここで、かつて、悲しい事故があった。

私の姉たちが、近所の銭湯に出かけた帰り道の夕刻。
Y子ちゃんが、目白通りを、走り渡ろうとした。
みんなが思わず悲鳴をあげた!。
「Y子ちゃん、危ない!」
右手の方からトラックが疾走してきた。
Y子ちゃんは慌てて立ち止まった。

「Y子ちゃん、戻っちゃ駄目!」
ところが、動顛したY子ちゃんは、戻ってしまった。
その瞬間、Y子ちゃんを避けたトラックに、轢かれてしまった。
幼いY子ちゃんは、即死状態で、あの世へ旅立ってしまった。
Y子ちゃんの家は、とても貧しかったそうだ。

その後、Y子ちゃんの家は、莫大な慰謝料を貰った。
Y子ちゃんのお母さんは、言っていたそうだ。
「Y子は本当に、親孝行な子供だ」
やがて、何所かに、大きな家を買って、引っ越していった。
まだまだ、日本は、みんながとても、貧乏な時代だった。

そして、兄と姉が通った椎名町小学校へ向かった。
すると、かつて、手塚治虫が住み、石森正太郎、寺田ヒロオ、
藤子不二雄、赤塚不二夫たちが住んだ、漫画家の聖地・トキワ荘の看板があった。
矢印の方向に進むんでみたが、何もなかった。

部屋で掃除をしていたご婦人に聞いてみたら、この家の駐車場辺りが、
トキワ荘の玄関があったところだと教えてくれた。
私たちがかつて住んだ家のすぐ近くに、トキワ荘はあったのだ。
さらに、目的の椎名町小学校へ向かった

兄と姉は、60年ぶり近くの再訪。
若緑も美しい桜樹の向こうに、白い校舎が見えた。
兄と姉は一様に、あの校舎には、見覚えがあると言った。
当時、桜の木はまだ細く、今ほど見事な老樹ではなかった。

校庭では、子供と大人が、キャッチボールをしていた。
だが、ここは正門ではないという。
記憶通りに裏手へ進めば、そこに、たしかに正門があった。
正門から人が出てきた。

姉が尋ねた、「かつて、60年くらい前に、通ったものですが、中に入って大丈夫でしょうか」
すると、、兄と姉を、学校職員のもとへ案内してくれた。
しばらく、2人は戻ってこなかった。
懐かしい60年ぶりの再訪に、感慨深いものがあったのだろう。
やがて2人は、笑顔をたたえて戻ってきた。

椎名町小学校は、創立80年だという。
兄たちが通学した頃は、まだ20年しか経っていなかったのだ。
だから、桜の樹もまだ太くはなかったわけだ。
残念なことに、今は椎名町という町名は残っていない。

江戸時代後期から、すでに存在した名前は、豊島区南長崎1丁目〜6丁目、
そして、目白4、5丁目になっている。
地名には歴史があり、来歴や由縁が存在する。
その地名を見ただけで、人はその土地の過去の姿を想像することができる。

豊かな意味を持つ地名を、いとも簡単に、行政の恣意により変更する浅ましさには辟易する。
残っているのは、駅名や学校の名前、そして、公園や商店街では、余りにも悲しすぎる。
そして、我々は哲学堂に向かった。

哲学堂は、かつて、兄たちがよく遊んだ場所だ。
私も多分、母の背中におんぶされて、行ったはずだ。
勿論、今は記憶の片隅にもない。
目白通りは、夏日の陽射しが、容赦なく照りつけている。

途中、コンビニに立ち寄り、ペットボトルのミネラルウォーターを購入し喉を潤す。
みんなは童心に帰ったように、アイスクリームを食べている。
すでに、3時半を回っていた。
炎天下、1時間半の散策はかなり堪える。

そして、また、哲学堂を目指した。
やがて、哲学堂の標示。
そこを左に曲がれば良いものを、何故か通り越してしまったのがいけなかった。
道を間違え、かなりの大回りを、強いられることになってしまった。

何とか迷いながらも、哲学堂の裏門に到着した。
狭い上りの小道を進めば、そこは哲学堂の正門。
小さな山門を抜けると、哲学堂の広場があった。

深い木々の緑の中を進むと、見晴らしの開けた広場に出た。
兄は昔の哲学堂を、昨日のことのように憶えていた。
この辺りは何もない原っぱで、土が剥き出しだった。
勿論、今のように整備された公園にはなっていなかったし、哲学の道などなかった。

終戦直後、兄たちの通う椎名町小学校は、校舎が足りず2部学級だった。
午後からの授業の時は、兄は哲学堂の沼のような池に来て、
時間の経つのも忘れ、ザリガニを捕っていた。
午後の授業も忘れて夢中になっていた兄を、幾度ともなく、母親が迎えに来たらしい。

ママは足の裏に豆が出来て痛そうだ。
しばらく、ここで休憩をとることにした。
風はほとんどなく、木々の若緑が鮮やかに、太陽に照らされ煌いていた。

そして、さらに最終コース、中野駅に向かった。
正門を抜けて、中野通りへ。
この道をまっすぐ進めば、中野駅に辿り着く。
足の痛いママは、ここで、娘とともに、バスを待つことになり別れた。

さらに、我々一行は、中野へ歩く。
西武線の踏切を過ぎると、新井薬師。
お薬師さんに立ち、寄り参拝をする。
境内には井戸があり、手水舎からは、こんこんと湧き水が溢れていた。

柄杓で受けて水を飲む。
生ぬるい水は優しく、とてもふくらみがあって美味しかった。
お薬師さまの正門を抜けて、薬師通りの商店街を歩く。
狭い門前の参道は、賑わいをみせていた。
そして、隣り合わせる、中野ブロードウェイの裏道の商店街に到達した。

すでに時計は5時を回っていた。
先ほど予約した居酒屋へ到着。
繁華街にしては長い石畳を進むと、重厚な木の引き戸を開ける。
照明を落とした室内。
靴を脱いで下足へ入れ、どっしりとした木製の階段を上ると、部屋にはすでに、ママと娘がいた。

2人はすでに、美味しそうに、ビールとカクテルを飲んでいた。
そして、それぞれに好きな料理を頼み、兄嫁が注文をしてくれた。
まずは、全員で生ビールで乾杯をした。
真夏日の陽射の中、ルーツ探しの漫遊の後の生ビールは沁みた。

やがて、兄の娘さんが、5歳になる子供を連れて登場した。
海鮮料理はふんだんに、そして、陶板焼きやら、串焼きなど、たっぷりと舌鼓。
日本酒の銘酒、4合瓶を4本も空けた。

兄弟揃っての酒宴にほろ酔い、心地よく酩酊するも愉しい。
さらに嬉しいことには、知らないうちに、兄が会計を済ませていた。
何とも美味しい一日。
兄夫婦と姉夫婦は、この後4人で、京王プラザホテルに宿泊するという。
本日は本当に、お疲れさま、そしてご馳走さまでした。