善光寺前立本尊御開帳の後、小布施へ
2009.04.12

早暁に信州の善光寺に到着した。
どうやら、今日は快晴のようだ。
すでに、善光寺の幾つもある停車場には、そこそこに、車が停まっていた。

裏門から進めば、境内には大勢の参詣の人たちが押し寄せていた。
今年は7年に一度の、善光寺秘仏、
前立本尊(まえだちほんぞん)に会えるのだ。

境内に建てられた、回向柱(えこうばしら)には、
たくさんの老若男女が群がっていた。
この柱に触れば、いまだ閉ざされていたまま、
白雉5年(654)以来、公開されたことのない秘仏、前立本尊に縁を結ぶと言われている。
高さ10メートルに及ぶ柱は、秘仏に、白い布で結ばれているのだ。

そして、すでに、管主さまや上人さまのお数珠頂戴を待つ、
一条の長い列が出来ている。
早朝の6時頃、檀家総代の者か、紋付羽織袴に正装した老人を先導役に、
朱色の蛇の目の大傘を戴いたご上人が登場した。

皆はいっせいに膝を折り頭を垂れる。
一人一人の頭に、お数珠を触れる。
そして、上人さまたちは階段を上り、本堂の中に消えていった。

数珠頂戴が終わるや、参詣の人たちは、それぞれに、本堂の中へ。
本堂では、すでに、お朝事が始まっていた。
本堂の中は、立錐の余地もなく、人でうずめ尽されていた。
堂内にはお坊様たちの読経の声が響き渡る。

私たちも、人の列の最後列に並んだ。
しかし、そこは御戒壇の列だった。
入館券を購入。
人で溢れた列は、本堂の外に、変更されるほどだった。
やがて、私たちの番がやって来た。

去年訪れて、勝手の知った御戒壇。
だが、今日は人で人で溢れ、漆黒の闇の手探りの道。
なかなか列が進まず渋滞気味だ。

だんだんと、秘仏と結縁するという錠前の、ばちんばちんと響く音が近づく。
そして、やっとのことで、我々も、闇の中、手探りで錠前に到達した。
錠前をしっかりと握って、音がするほどに、がつんがつんと打ちならした。

そしてさらに進めば、薄明かりが差し込み、出口へ。
朝の陽光が眩いほどに強かった。
境内の桜はまだまだ七分咲きだろうか。
やはり、信州の春は遅い。

境内は、さらにさらに人が溢れている。
また本堂に戻れば、本堂の中はさらなる人の波。
靴を脱いで、ビニールの袋に入れ、本堂の座敷の最後部へ座った。

読経は続き、時折、とてつもなく大きな鉦が、ごわーごわーんと叩かれる。
やがて、前の列がぞろぞろと前に進む。
我々も置き去りにされないように前へ。
そして、ある一団が、木の仕切りの中へ進んだ。

訳もわからず、私たちも中へ進み最後部へ。
かなり、前立本尊様に近づき、
肉眼でも黄金に輝く御尊顔が窺える。
さらに読経は続く。

前の人たちの襟には、墨で書かれた印。
中には、山伏のような出で立ちの若い女性もいた。
そして、暫くして気が付いた。

どうやら、何処かの法要の集団だったのだ。
上人さまの読経は、すでに鬼籍の人を弔う法要の声だった。
しかし、ここで、私たちが立ち去ったのではまことに失礼。

読経が終わるまで、瞑目しながら聞き続けた。
やがて、読経が終わると、順番に、前立本尊様に手を合わせていた。
私たちも同じように、前立本尊様の間近で手を合わせた。

今日の第1の目的は早々と達成した。
まだまだ、時間は午前の10時。
さすがに善光寺、続々と参詣の人が、津波のように押し寄せている。
そして、宿坊から、団体のご老人の一団が溢れている。

片手に杖をつき、足を曳きながら歩くご老人。
背中が九の字に曲がったお婆ちゃんたち。
車いすに座って進むご老人もいた。
すべてのご老人の顔には、満面の笑みがこぼれていた。

7年前の御開帳には、628万人が訪れたという。
4月5日〜5月31日の御開帳。
今年はさらに増えると予想されている。

人波の参道を歩き、
早々と開かれた土産物屋を見物しながら、駐車場へ戻った。
駐車場は満杯だった。
順番待ちの車が、係員に誘導されていく。

私たちは善光寺を後に、次の目的地小布施に向かった。
国道18号から国道403号を北上する。
陽光はますます輝きを増し、空の青が晴れやかに広がる。
遥か遠くには、山々が幾重にも春霞みの中に浮かび上がる。
標高3000メートルのアルプスには、残雪が光る。

千曲川の川面は陽光に煌き、柔らかく水温む流れ。
川岸の桜も蕾を抱えながら、待ちきれない花々が薄桃色に花開いていた。
40分ほど進めば、長閑な山里、
小布施の曹洞宗梅洞山岩松院に到着した。

開創は文明4年(1472)。
雁田城主・荻野備後守常倫公(おぎのびんごのかみじょうりんこう)が開基。
不琢玄珪禅師が開山した。

かなり、標高も高くなったのだろう。
眼下には、春の柔らかい陽光に煙る、小布施の町が遠くに霞む。
駐車場の前の畑には、たくさんの林檎の古木が夏の稔りを待つ。・
寺への道々には水仙が黄色く可憐な花を開いていた。

桜咲く参道を進み、山門を潜り境内へ。
参拝の人も少なく、深閑としていた。
拝観料を払い本堂へ。
畳敷きの広い本堂。

御本尊を戴く、本堂中央の大間の天井には、
葛飾北斎、88−89歳の最晩年の作品、
「八方睨み鳳凰図」が観る者を睥睨している。

大きさは畳21畳、150年前に描かれて、
今まで一度も修復されていないという。
中国から輸入された辰砂や孔雀石など、
をふんだんに使い150両にものぼったという。
金箔の数は4400枚の輝きは、今でも輝きを失わない。

ぎろりと見据える鳳凰の龍線形の瞳は、
深い朱色と黄金に輝き、観る者を射すくめる。
大きく羽を広げて、天空を旋回するように躍動的だ。

さらに不思議な事に、四方八方から、何処から眺めても同じ絵姿を見せる。
才人葛飾北斎の遊び心の結晶なのだろう。
83歳の時以来、小布施を4回訪れている。
そして、この「八方睨み鳳凰図」を完成させた翌年に鬼籍の人となった。

ぶらり、本堂に展示された彫刻などを見学し、蛙合戦で有名な池を眺める座敷へ。
桜の花見頃を過ぎた頃、この小さな池にアズマヒキガエルが300匹、
雌の産卵を手助けする雄たちが、何処からか集まる。

雌の数は少なく、あまたの雄蛙たちが、雌を求めて壮絶な争いを展開する。
5日間、激しい鳴き声が昼夜を分かたず、山里の寺に響き渡るという。
この蛙合戦を見た小林一茶が詠んだ句が「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」

文化13年(1816)4月20日のことである。
一茶54歳にして授かった、千太郎への祈りの句だった。
しかし、その甲斐もなく、1ヶ月足らずにして他界した。
今はまだ桜花の開花は6分咲きか。
蛙の姿は何処にも見えなかった。

本堂から出て境内へ。
山門をくぐり戦国武将福島正則(1561-1624)の霊廟へ向かった。
悲運にも信州の地に国替えされ、5年の後、無念の志を持って、64歳にして没した。
岩松院第十世領国壽鑑大和尚は亡骸を埋葬し供養したられると伝えれる。

霊廟と言うにはあまりも慎ましやかなお堂。
続く急峻な石の階段は、長い歴史を刻む。
この階段を、厳しい風雪に耐えながら、どれほどの人たちが踏み登ったのだろうか。

遅い春の信州とはいえ、強い春の日差し。
背中には汗が滲む。
霊廟「福島正則公のおたまや」に辿り着けば、中に、空・風・火・水・地を示す五輪塔。

灰色の石造りの塔が、ひっそりと祀られ、鈍く石の光沢をたたえていた。
この下に、勇猛果敢な福島正則公が眠る。
戒名は海福寺殿前三品相公月翁正印大居士

参拝を済ませば、はるか遠くには、信州の山並みが近く遠く霞む。
狭く急でごつごつとした石段を、注意深く下る。
境内から仁王門を潜れば、参道は桜の花で華やいでいた。

時間は正午間近、青空を切り裂くように、強い太陽が降り注ぐ。
林檎畑では、地下足袋姿の農家の人が、畑の手入れをしていた。
そして、野猿が温泉に入るという地獄谷へ向かった。

うららかな春日を浴びながら、信濃路を進めば湯田中。
さらに、今日、宿泊予定の渋温泉を抜けて、1車線の山道を蛇行しながら進む。
窓を開ければ、清涼な風が、木々の香りを乗せて吹き込んでくる。

時折、路上に木漏れ日が、木々の影を落としている。
時たま、すれ違う車。
どちらかがバックしたり、停まって行き過ぎるのを待つ。

上るにつれて、車のエンジン音が軽快に響く。
やがて、右手の木々の遥か下に、清冽な川が陽光に煌いていた。
やがて、地獄谷の駐車場に到着した。

車を降りれば、彼方に温泉宿が見える。
谷川を右手に見ながら、かなりきつい上りの山道を進む。
そして、2軒ある温泉宿に辿り着いた。

橋を渡り進めば、源泉の湯けむりが、
強い硫黄臭を吐き出しながら、黒灰色に、音をたてながら噴き出していた。
遠くの山には、赤いおしりのニホンザルがゆっくりと歩いていた。
渓谷の川は陽光に輝き、川面は煌き、清流は春の温もりをたたえていた。