向島・百花園で観梅
2009年2月22日(日)
 
このところ少し天気が愚図つき模様。
からっと広がる青空に、たなびく白雲とはいかない。
ゆっくりと梅見にでも出かけることした。
 
水戸の偕楽園、熱海梅園、湯島天神といろいろ行ったが、
向島百花園には行ったことがない。
そこで、浅草の川向う、向島百花園へ出かけた。
 
家を2時半ころに出て、目的地には4時前に着いた。
曇り空、それでもまだ日は明るい。
入園券150円を払い園内へ。
 
太田蜀山人書の扁額のかかった庭門をくぐると、
梅の艶なる匂いが、そこはかと漂う。
梅の花咲く老木の梅香に、誘われながら進む。
 
古木に寄り添うように、様々な石碑がたち。
そこに歌や句が詠まれている。
若者たちはあまり興味を示さないようだが、
熟年世代は、声を出して読んでる人もいる。
 
梅匂う庭園で、俳句や和歌を愉しむ風情。
やはりそこは文化が匂う。
名もない普通の人たちが、
俳句を詠み、和歌を嗜むことは、まさに文化。
 
たくさんの碑を読みながら進むと、
池を見渡す休憩所があった。
腰をおろせば、池の向こうに紅梅が咲き匂う。
池の傍、葉も枯れ落ちた木々の梢が、空にシルエットを描く。
 
すると、落ち葉して寂しげな梢に、
一羽の白鷺が止まっていた。
口先は細く長く、そして赤かった。
この都会の真ん中にも、白鷺は飛んでくるのだ。
 
昔、私の育った世田谷でも、
白鷺は決して珍しい鳥ではなかった。
日本の高度経済成長とともに、
東京の風景も大きく変わった。
田や畑や農地が、宅地造成された。
 
残された農地も農薬汚染で、
餌となる魚や虫も消滅した。
一羽、梢にとまり、白鷺は、じっと何かを見つめていた。
そして、しばらくして、また眼をやれば、
すでに何処かに飛び去った後だった。

閉園は5時。
4時半近く、夕靄も微かに漂い始めた。
夏近くになれば、ハナショウブ、アヤメの花々が、
色鮮やかに、この池泉を飾ってくれるだろう。
今はただ、水辺に、枯草と春の芽吹きを待つ、
草花の緑が顔を出している。
 
園路をさらに歩けば、萩のトンネル。
青竹で組まれた全長約30メートルのトンネルには、
もちろん萩の花はない。
潜り抜ければ、梅花の匂いが、
夕靄に溶け込むように流れ来る。
梅の古木の紅梅白梅たちが、我々を迎えてくれた。
 
すると、ママに向かって、笑顔で手を振っている女性がいた。
そして、近づいてきた。
それは、長男の幼稚園の時一緒だったIさんだった。
6年ぶりくらいの再開であった。
横浜に住む娘さんと一緒に、向島百花園にやって来ていたのだった。

仲良く、記念写真に収まって別れた。
やがて、閉園の放送が流れ始めた。
園内には人影も疎らになり、
庭門を潜り外へ出ると、ちょうど5時になっていた。
梅見の1日は終わった。
近くの白髭神社に参拝して、帰ることにした。

追記向島・百花園●
1805(文化2年)、骨董商の佐原鞠塢(さはらきくう)が開園。
植樹された梅の木は360本と言われる。
亀戸の梅屋敷に対し、新梅屋敷と呼ばれ、江戸庶民から慕われた。
佐原鞠塢は文人墨客たちとは馴染みも多く、
百花園の名も、当代の江戸を代表する絵師で、
文人の
酒井抱一が命名した。
 
当時浅草・新鳥越にあった、超がつく高級料亭、
伝説の八百善に集まった文人墨客たちと、
「百花園」のメンバーもほとんど同じだろう。
大田蜀山人、亀田鵬斎、酒井抱一、大窪詩仏、谷文晁、葛飾北斎。
文化・文政を彩る当代一流の文化人が、こここに参集したのだ。