犬吠崎&銚子を訪ねて
2009年2月8−9日

久留里を後にして、一路、銚子へ北上する。
久留里は養老渓谷にも近い。
3年くらい前だろうか、初夏のころ、養老渓谷を訪れたことがある。
千葉と言えば、気候温暖な海洋性の気候。
ところが、この地を訪れて、千葉も広いと認識を新たにした。
冬場には雪も積もれば、氷も張り付く山間の秘境である。

やはり、久留里から、銚子に抜けるには、
人里離れた渓谷沿いの道を進まなければならなかった。
切り立った岩肌に抱きつくように続く細い道。
大型車両は通行禁止の標識。
道は曲がりくねり、対向車が来れば、
どちらかが退避場所で待機していなければならない。
幸い、対向車はほとんどすれ違うこともなかった。

右手には、岩がごろごろと剥きだした渓流が流れる。
車のエンジン音が、森閑として物音もしない峪間に響く。
紅葉の季節になれば、絢爛とした景色を映し出すだろう。
道は一路上りの傾斜。
森は深く、渓流は眼下に消えいる。

さらに進めば緑深く、中天にあるはずの太陽の日さえ隠れて薄暗い。
窓を開けてみれば、肌を刺すほどに冷たい。
時折、深い木立から木漏れ日が落ち、まだ強い日差しがあることを知る。
枯れ木立の彼方に、眩しいほどの青空は広がっていた。
道はいよいよ下り坂になったが、相変わらずの狭い道をかなり進むと、
やっとのことで小さな集落が出現した。

さらに、くねくねと曲がる峠道を下りながら、
かなり進むと、清澄寺の表示が見えた。
左に折れて進めば、名刹清澄寺へ到達するようだ。
かなりの時間も経過した。
これからさらにさらに、銚子までの距離は長い。
やがて、下りの道は片側1車線になった。
さらに進めば遠く、昼下がりの陽光に輝く太平洋が見える。
洋々と広がる海は静かに穏やかに、真っ青な空を反射していた。

去年訪れた勝浦へ到着した。
海岸沿いの128号を一路北上。
月の砂漠で有名な御宿から、
南房総国定公園の雄大な景色を見ながら進む。
懐かしい、九十九里の海岸。
上総一宮を過ぎると、3年前、海水浴に来た一松海岸。
懐かしい夏の日の長生村。
九十九里の波は大きく、沖へ身体を運び去るほどに、返す波は強かった。
そして、海岸での波遊び以外は、遊泳禁止状態だったことを思い出す。

やがて、九十九里の海岸にも別れを告げて、さらに進む。
銚子まで、まだまだ60キロの表示だ。
やはり、千葉は縦にも長い。
海岸沿いを離れてのんびりと進む。
日も陰り始めた。

やがて、横芝に到達した。
30年くらい前、私たちがまだ湯島に住んでいた頃、
横芝海岸へ海水浴に来たことがある。
松林が点在する海水浴場。
子供たちには少し波は強かった。
海水浴の帰り道、タクシーの運転手が紹介してくれた、
地元で評判の鮨屋さんへ出かけた。
一見、何の変哲もない鮨屋。
がらりと引き戸を開けて中へ。
カウンターとテーブル席一つに、小さな小上がり座敷の鮓屋だった。

私は止まり木に座り、ママは子供をあやしながらテーブル席へ。
ネタケースの向こうには、職人刈りの若旦那。
店内の切り盛りは奥さんだった。
ここのネタは横芝の浜で上がった地魚だけ。
もちろんマグロなどあるわけはない。
若旦那の勧めるままに、肴を愉しみ地酒を味わった。

もちろん、ママは子供の世話をしながら、大好きな鮨を食べている。
カウンターに座る地元の人とも意気投合。
私の酒はかなりヒートアップ。
すると、若旦那が「どちらから?」
「東京の湯島から。天神さんのまん前からです」
すると、「懐かしいな、湯島。私は神田で修業しました」

私たちの話題は、一気に、神田、浅草、湯島になった。
やがて、夏の夜も更け、東京への最終の急行の時間が迫ってきた。
私はまだまだ名残は尽きないのだが、店を退席することにした。
そして、会計の段、あまりの安さに眼が丸くなった。
東京で食べれば、3倍はしただろう。
それでも若旦那は、私たちを見送ってくれた。

旬の鰺を骨ごと叩いて、ネギと白味噌で練った、
あの鰺の「なめろう」は堪えられなかった。
地元の人に大評判だったのも、さもありなんと納得する。
もっこりと丸く、味噌のうま味と葱の辛さが、口の中で唱和しながらも、
噛むほどに、鰺の青魚特有の旨みが広がる。
しっとりと、叩かれた粘りの中に、上品な甘さが溢れて来た。
横芝は、そんな愉しい思い出の地だった。

時間はすでに5時を回っている。
国道126号をさらに北上する。
昔からの旧道の風情を残す、ゆるやかに蛇行しながら進む片側1車線の道。
日は傾き、夕靄が霞み、青空は灰色に包まれ始めた。
やがて、灰色からさらに黒を増した空に、
大きな丸い月がくっきりと、絢爛と黄金の輝きを映し出す。
それはそれは見事な室町琳派の王朝絵だった。

日は完全に落ち、窓外の景色も何所か、うら寂しげに映る。
窓を開けてみれば、それでも生暖かく爽やかな風が吹き込む。
旭町を過ぎれば、私たちの目的地銚子。
そして、海岸沿いの狭い道を下れば、太平洋に面したホテルに到着した。
すでに、海は暗く、犬吠崎灯台 の灯が海を照らしていた。

広いホテルのロビーには、浴衣姿の宿泊客がソファーで寛いでいる。
ホテルの灯は煌々と輝き、華やぎのなか、旅情を誘う。
すでに、時間は6時。
最近の我々の旅にしては、久々の遅いチェックインとなった。

案内された部屋は大きな窓一面のオーシャンビュー。
左手前方の岬には犬吠崎灯台が夜空に浮かび上がり、
広大な太平洋には漁火も灯る。
空には星々が煌いていた。
食事は7時からにしてもらい、風呂を浴びることにした。

風呂は2回にあった。
広々とした浴室のガラス窓一面に太平洋が広がる。
しかし、すでに、洋上は暗く、打ち寄せる波で、
磯の岩が洗われ、千路に波頭が飛び散る。
灯台の灯が巡り、周期的に海上に光の道を照らす。
沖には漁火の灯影が揺れる。
さらに、岩風呂の天然温泉に肩まで浸かり、
ざぶりと頭から湯を浴びれば、どこか磯の香りが、ほんの微かに漂うようだ。

様々な湯に浸かり、さらに露天風呂を愉しむうちに、食事の時間がやってきた。
部屋に戻れば、次々に、銚子で上げられた海の幸が運ばれた。
日本を代表する漁港の幸は、一日の旅の疲れを大いに癒してくれた。
窓外には、煌々と月が輝き、
藍色をたらし込めたような漆黒の空に、星たちが煌いていた。

翌日の未明、本島で一番早い日の出が見れるといううので、
早起きするがまだ日は昇る気配もなし。
海は青黒く、岩礁を静かに洗っている。
漆黒の空は少し色が抜け始め、灰色まじりに変わってきた。
灯台の灯は心なし小さく弱くなってきている。

遠くの漁火は薄く仄かに煌く。
だが、いまだ黎明の兆しなく、
眩しいほどに煌く朝日はたちのぼる気配もない。
真っすぐに引かれた海上を照らす、
一本の黄金色の陽道は望むべくもなかった。

諦めて朝風呂へ。
女湯と男湯は入れ替わっていた。
岩風呂や宝石風呂、海藻かじめ風呂を楽しんだ後、露店風呂へ。
早朝だというのに、すでに、大勢の人たちがいた。
すでに、すっかりと空は明け、灯台の灯も消えていた。
夜中は退いていた磯の波も、岸壁まで押し寄せていた。
波は晴朗だが空は力なく、どんよりと重たい。
だが、取りあえずは、そこそこの天気のようで安堵する。

部屋に戻ればママが起きていた。
窓越しに構えた三脚に収まったカメラで、
鮮やかとは言えない日の出を、カメラで捉えてくれていた。
そして、ママは、私と入れ違いに風呂に出かけた。
一時間もしてママが戻り、3階の大広間で朝食となった。
旅行すると、美味しくて、ついつい食べ過ぎてしまう。
腹八分目ですませ、部屋に戻りチェックアウトの10時まで休んだ。

10時前にチェックアウトを済まし、ホテルを後にした。
磯の匂いを乗せた風が気持ちよい。
遠くの灯台を見やりながら、犬咲崎に別れを告げた。
灯台を右手に見やりながら、海岸線を進み、一路、銚子港へ。
やがて、左手前方に、銚子のシンボル、高さ47メートルの銚子ポートタワーが、
銚子の町を睥睨するように聳えていた。

空を切れ込むように立つ、ツインタワーを見やりなが進むと、
ほどなくして、銚子港へ到着した。
大きな漁船が幾隻も接岸していた。
すでに、港の市場は閑散としていた。
岸壁には大きなトラックが何台も停まっている。
ひとしきり静かな港湾んを見やりながら、しばらく進むと銚子の市街地に出た。

そこは馬場町、坂東33観音霊場・真言宗円福寺があった。
第27番札所の飯沼観音、通称・銚子観音。
境内横の駐車場に車を停める。
正面には大銀杏の古木がどっかと構えていた。
正午前、空には太陽が顔を出し、本堂を照らしていた。

参道を進み、お線香を買い求め、正面の大香炉で焚き上げた。
香炉の後ろには、約4.8メートルの大仏様が、慈悲溢れる御尊顔で鎮座していた。
江戸時代、銚子の人々により建立されたという。
そして、綺麗に磨かれた参道を進み、石段を登れば本堂。
あ賽銭箱へ小銭を収め手を合わせる。
堂内には人影はなく、うっすらと堂内は浮き上がり静寂。
振り返れば、境内に参拝客もなく、参道の先に鈍い朱色の仁王門が構えていた。

右手には、色鮮やかな朱色の真新しく輝く五重塔が建っていた。
この寺の境内には、天保水滸伝でお馴染みの侠客、銚子の五郎蔵の墓もある。
本坊には五郎蔵の倅・勝五郎と飯岡の助五郎が寄した大きな銅壺もあるという。
さらには、平安時代初期作「鋳銅鐃(ちゅうどうにょう)」、貞享年間刺繍大涅槃像図ほか、
様々な美術品や古文書が、寺宝として収蔵されている。

階段を下りて真っすぐ進み、仁王門へ。
その途中には、日本における河川測量の原点、「飯沼標準原標石」があった。
1872年12月、オランダ人リンドにより、水準標石が設置。
それ以来、これを基準に日本水位尺が定められたのだ。
仁王門の左右には、阿吽の仁王様が雄渾に構えていた。

山門をくぐり、もう一度潜りなおして、正殿に挨拶をした。
さらに、駐車場へ戻れば、隣接して、銚港神社があった。
鳥居を潜り、手水舎で手と口を漱ぎ、参道を進み参拝した。
神社の社殿は清楚にして凛々しい佇まい。

だが、終戦間近、昭和20年7月、
銚子への激しい空襲によって、円福寺とともに、この神社も焼失したのだ。
そして、昭和33年に復興再建された。
かつては龍蔵権現と慕われ、養老年間(717〜723)に創建されている。
境内には、大きな銀杏の古木が、神社を護るように枝を広げていた。